∴ 雪の庭 ※童話もどき覇ヨハ ※ヨハンが鳥 青い翼をはばたかせ、あちこちを旅する小鳥――ヨハンは、ある日、美しい花々が咲き誇る街を訪れました。季節は春。冬の間にめかしこんだ植物たちが麗らかな日差しを浴び、光り輝く時です。 ヨハンは人々で賑わう通りを風のように抜けると、小高い丘の上に建つ時計台に降りたちました。そうして甘い香りに酔いしれながら街を一望し、ふと異変に気付きます。目にとまったのは、街の外れにある小さな家。その一軒だけ、なんと雪景色のままなのです。すっかり興味を引かれたヨハンは、両足で屋根をひょいと蹴り、風に乗って飛んでいきました。 そばまでやって来るとそのあまりの寒さにヨハンは驚きました。震える口から吐いた息が、白い湯気となって空を上っていきます。ひゅるりと横を通り抜けていったのはとっくに遠くへ旅立ったはずの北風で、これではまるで本当に冬です。 家の周囲はぐるりと高い塀に囲まれていました。辛うじてスレートの屋根が頭を覗かせているものの、中の様子は窺えません。しかしヨハンには自慢の翼があります。青い小鳥は意を決し、塀の向こう側へと飛び込みました。 飛び込んだ先は一面の銀世界。白い景色の中にひっそりと建つ小さな家と、ささやかな庭がヨハンを出迎えました。ヨハンはふわふわと綿菓子のように舞う雪と戯れながら、じっと寒さに耐えしのぶ草花や、裸の枝におしろいをつけた木々に丁寧に挨拶をしました。ふと、視線を感じ振り向くと、そんな彼を軒下に腰かけ眺める少年が一人いることに気がつきます。ヨハンは彼がこの家の住人に違いないと思い、さっそく話しかけました。 「やぁ、やぁ!はじめまして、俺はヨハン。君は?」 「……」 茶色い髪の少年は、じぃっと品定めするような目でヨハンを見つめました。固く引き結ばれた唇は待てど暮らせどゆるむ気配を見せません。きっと、ひどく人見知りの性質なのでしょう。そう思って、ヨハンは「残念だけど、テレパシーは使えないんだ」とあえて冗談めかして言いました。 「覇王」 「え?」 「……」 「…あぁ、名前か!覇王…覇王っていうのか。よろしくな!」 はおう、はおう。名前を教えてもらえたことが嬉しくて、ヨハンは何度も繰り返しました。少年こと覇王はそんな小鳥を見て少しだけ表情を和らげたものの、まだまだ無愛想です。 「ところで、君の家はすごく寒いな。春のやつが迷子にでもなってるのか?」 立ち話にも疲れたので、ヨハンは覇王のすぐ隣で羽根を畳みつつ訊ねました。 「春とは何だ」 「え?」 「俺は、お前の言う“春”というものを知らない」 ヨハンははじめ、自分がからかわれているのかと思いました。しかし見つめ返した蜂蜜色の瞳は真剣で、とても冗談を言っているようには思えません。 「えっと…そうだなぁ。春は――」 少し戸惑いながらも、ヨハンは“春”について知っている限りのことを教えてあげました。街中ぽかぽかと暖かいこと、そよ風が気まぐれに草木とおしゃべりすること、誰もかれもが幸せそうに微笑むこと。 「よく分からないな」 ひと通り聞き終えた後も、覇王は腑に落ちない顔をしていました。それを見て小鳥は残念そうに肩を落としましたが、すぐに気を取り直し。 「じゃあ、これだけ覚えておいてくれ」 「何だ」 「春ってのはさ、」 ヨハンはそこで、こほん、と咳払いを一つ落としました。それから空色の翼を広げ、 「ひなたぼっこをすると、最高に気持ちが良い!」 聞く者を清々しい気持ちにさせる澄んだ声を響かせました。 「ひなたぼっこ」 覇王が耳慣れない言葉を確かめるように繰り返します。 「うん。緑のじゅうたんの上で、おひさまの光をたっぷり浴びるんだ」 言いながら、ヨハンはベリルに似た美しい瞳をうっとりとさせました。記憶の中の麗らかな春の情景を思い出しているのかもしれません。 「覇王もきっと気に入るぜ」 そう言って胸を張る小さな鳥を、少年は目を細めてどこか眩しそうに見つめました。そして。 「…お前は、ここにいるべきではない。もう俺のところへは来るな」 突然、そんなことを言い出したのです。 「えっ」 面食らうヨハンに構わず、覇王は硬い調子で続けます。 「早く行け。…ここは冷える。そんな小さな身体ではすぐに芯まで凍えてしまう」 言うだけ言うと、覇王は話は済んだとばかりに視線を庭へ戻してしまいました。ヨハンはぽかん、としばらくの間、鼻の頭がちょっぴり赤くなった横顔と雪降る庭を交互に見つめていました。が、覇王が何も話す気がないと悟り、やがて名残惜しそうにしつつも元来た道を戻り始めました。――それで良い。覇王の口からふっと吐息が洩れます。小鳥はのろのろとした歩みの途中、何度も覇王の方を振り返りました。そしてあと一歩で塀を越える、という瀬戸際になって、ついにくるりと向き直り。 「覇王は優しいな。…おれ、何だかお前のこと好きになっちゃったみたいだ。また、ここに来てもいいか?」 と訊ねました。 「馬鹿なことを言うな。先ほど来るなと言ったばかりだろう」 思いもよらない言葉に驚いて、覇王が声を上げます。 「そうだけど…でも、でも!会いたいんだ…」 声を、翼を、足を。小さな身体をめいっぱい使い、ヨハンは必死に訴えました。 「駄目なものは駄目だ」 お前のような小さな鳥にこの寒さは厳しすぎる。耐えられるはずがない。 覇王は何度も言い聞かせました。が、ヨハンは「会いたい」の一点張りで譲りません。会いたい、駄目だ、会いたい、駄目だ、会いたい……。こうして押し問答がしばらく続き、どうあっても主張を曲げないヨハンに、とうとう覇王の方が折れました。 「……。勝手にしろ」 「ああ、絶対また来るよ!」 ようやく取りつけた了承に、ヨハンはぱぁっと顔を輝かせました。それから羽根の先を覇王の指にちょこんとあて、「約束!」とはにかみ、今度こそ塀の向こうへ飛んでいきました。 「…いつまで続くのやら」 言って分からないのなら実感させるまで。覇王は、ヨハンがすぐに根を上げて自ら離れていくと踏み、あえて来訪を許したのでした。 宣言通り、ヨハンは翌日から足しげく覇王の元へやってきました。 ある日は河原に咲いていた小さな花を、ある日はきらきら光る硝子玉を土産に持って。 覇王はヨハンの来訪をこれといって歓迎することも、渡された土産に礼を述べることも特にありませんでした。しかしヨハンは十分すぎるほど満足していました。なぜなら彼は、覇王が受け取った花を花瓶にさし大切に育てていることも、色とりどりの硝子玉を小箱にこっそり仕舞っていることも知っていたので。 そんな日々が続くと、軒下にはいつしか、ヨハンのために暖かな“巣”が用意されるようになりました。それは床の上に丸めた毛布を置いただけの簡素なものでしたが、たかが毛布一枚、されど毛布一枚。柔らかな布にくるまり覇王の傍らで過ごすことは、ヨハンには何よりの幸せに感じられるのでした。ひとり旅する小鳥にとって、こうした少年の不器用な優しさは、惹かれるのに十分な理由となりました。 そして、それは少年の方も同じで。ヨハンはよく喋り、笑い、歌いました。覇王は時おり相槌を打つくらいで一緒になって何かすることはありませんでしたが、内心ヨハンとの時間を心地良く感じ始めていました。小鳥の透明な歌声は、少しずつ、けれど確かに氷の鎧を溶かしていったのです。――しかし。神様は残酷でした。ヨハンは覇王の両の手に収まってしまうような小鳥です。いくら毛布があるとはいえ、厳しい寒さに耐えられるほど丈夫ではありません。冬の冷気は小さな身体を確実に蝕んでいたのです。ヨハンは日に日に弱っていき、ある日、とうとう自力で飛ぶこともままならなくなりました。 「だから、来るなと言ったのに」 力なく伏した小鳥を、覇王はくるまっていた毛布ごと抱きしめました。今さら温めたところでどうにもならないとわかっていても、何かせずにはいられなかったのです。 「…はじめから、賭け染みたことをすべきではなかったのだ。お前がどんなに傷つこうと、どんな手を使ってでも、俺から遠ざけるべきだった」 「……」 「…口では来るなといいつつ、いつの間にか、心のどこかでお前がやってくるのを心待ちしている自分がいた。お前が離れて行くのを恐れ、決定的な拒絶を避ける卑怯な自分がいた…」 ――その結果が、これだ。 覇王は唇を色が白くなるほど噛み締めました。今、彼の心は後悔と自分への怒りでいっぱいです。抱えられた胸の中、ヨハンはそうやって自分を責める覇王を悲しそうに見つめました。 「そんな顔、しないでくれよ…俺は、君といられて…幸せ、だったんだから…」 そして最後の力を振り絞り、金の瞳に光る雫を翼の先でぬぐってやりました。 「ヨハ、ン…」 「ふふ、覇王の、泣き虫…」 ヨハンが悪戯っぽく笑います。覇王は言われてはじめて自分が泣いていることに気がつき、ごしごしと乱暴に目元をぬぐいました。 「…泣いてなどいない。ただ、雪が溶けただけだ」 「ぷっ…はは、そっかぁ…!なんだ、覇王のとこにも…ちゃあんと春が、来たんじゃないか」 「…?」 「知ってる、か?雪が溶けると、春になるんだぜ」 ――それが、小鳥の最期の言葉でした。 * そして、季節は巡り――再び春。 街は昨年同様、ひだまりと花の香りに包まれていました。 「良い街ですね。これぞ春、って感じだ」 「はは、ありがとよ旅人さん。ま、俺らにとっちゃいつもとおんなじいつもの春さ」 街の中心部、緑豊かな噴水広場。種々の出店が立ち並び多くの買い物客で賑わう中で、その少年は花屋の主人と立ち話をしていました。この土地ではあまり見ない青い髪と、優しげな印象を与えるベリルの瞳が特徴的な少年です。 「いつもと同じ、か。こんなに素敵な春が毎年やってくるなんて羨ましいな…あ、そこの花、いくつかいただけますか」 言って、少年は時計台の鐘によく似た青い花を指差しました。 「はいよ、っと。そうそう変わり映えもせんが、平和なもんさ」 花屋の主人は愛想良く笑いながら、幸運にも直々の指名を受けたブルーベルを何輪か抜き取り、小さなブーケを作りはじめました。 「…ん、いや違うな。そういえば、今年はちょいと不思議な出来事があったんだった」 作業の手はそのままに、主人が思い出したようにぽつりと呟きました。 「不思議な出来事?」 着々と形になってゆく花束を感心したように眺めていた少年は、主人の言葉にぱちりと瞳を瞬かせました。 「ああ。その名も“雪解けの庭”。街外れの一軒家で起きた摩訶不思議な出来事さ」 「へぇ…」 どうやら琴線に触れたようで、少年は興味津津という顔をしています。その子供らしくわかりやすい反応に主人は思わず吹き出してしまいました。きょとん、としている少年に慌てて何でもないと手を振り、「兄ちゃん、聞くかい?」と茶目っけたっぷりに片目を瞑ってみせれば、 「ぜひ」 ――少年は、店にあるどんな花よりも素晴らしい微笑みを見せてくれました。 fin... |