∴ 偶像崇拝 「――ネオス!」 鋭い叫びが空気を裂いたかと思うと、次の瞬間、ヨハンを拘束していた男たちが左右の壁に叩きつけられた。 「がっ…!?」 吹き飛ばされた三人は頭から壁に激突し、何が起こったか分からない、という顔のまま冷たい地面にのびてしまった。 「なっ――!?」 一瞬にして仲間が全滅するという異様な事態に、ジョシュアが言葉を失った。口元を押さえ、信じられない、という風に気絶した男たちの方を見つめている。――あれだけ屈強な大人が何の抵抗もできないままやられてしまったのだ。無理もない反応だった。 一方、乱入者は涼しい顔で、こつ、こつと靴音を響かせながら、ゆったりとした足取りで近づいてくる。 (あ、あぁ……!) 身体を拘束する腕は既になく、傍らの少年は呆然自失――そんな逃げ出す絶好のチャンスの中、ヨハンは起き上がることも忘れてその人物に魅入っていた。 爛々と輝く異色の両目に、薄闇でも目立つ赤いジャケット。 こんな特徴的な人物を、それもよりによってこの自分が見まごうはずもない。 (来てくれた。本当に、助けに来てくれた…) 「随分楽しそうじゃねえか。俺もまぜてくれよ」 そう言って現れた唯一無二の親友――遊城十代は、凄絶な笑みを浮かべた。 * 「あんた、一体何なんだ」 ゆるりと立ちあがり、ジョシュアは招かれざる客へと厳しい目を向けた。その瞳に狼狽の色は既になく、ただただ純粋な苛立ちだけが宿っている。 「通りすがりのヒーロー、ってとこかな」 鋭い視線を真っ向から受けとめ、十代は不敵に笑った。 そのどこか芝居がかった台詞にジョシュアは鼻白む。小馬鹿にしたように短く息を吐き、 「そんな禍々しい目をした英雄がいるものか。この悪魔め」 と言い捨てた。圧倒的優位から一転、もはや自分一人となったにも関わらず、ジョシュアは一歩も引かなかった。これには十代も少しばかり驚いて、面白そうに少年を見やる。 「悪魔、か。初対面に向かってひでぇなアンタ」 「酷いのはあなたの方でしょう?…あんたさえ来なければ、今頃ヨハンさんは僕のものだったのに!」 あくまで余裕の態度を崩さず、どこか緊張感の欠ける十代に、ジョシュアは苛立ちを露わにして叫んだ。邪魔立てした彼を口汚く罵り、自分がいかにヨハンに相応しいかを主張し――そうして、はたと目の前の人物の纏う空気が変わったことに気付く。 「…アンタさぁ、ちょっと勘違いしてねぇか」 そう言う十代は、全くの無表情だった。 そのくせ異色の瞳だけがぎらぎらと妖しく光っていて、ジョシュアは訳のわからぬ不安を覚える。 「なに…?」 冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、少年は続く言葉を固唾をのんで待った。 「そいつ、俺のだから」 言って、十代はつっとジョシュアの背後を指差した。つられて少年がぎこちない動きで振り返ると、そこにはいつの間にか握り拳を携えたヨハンがいて――。 「――がっ!」 腰の入った容赦のないストレートが、少年の腹部に吸い込まれていった。 強烈な一撃を受け、ジョシュアは他の三人と同じく地面の上に転がることとなった。 「鳩尾に一発か。怖ぇな」 ヒュウと口笛を吹き、十代はちっとも怖がっていない様子で肩をすくめた。 「顔を外してやったんだ。むしろ優しいくらいさ」 手の甲をさすりつつ、ヨハンはしれっと軽口に応じた。その表情に先刻までの弱々しさは既にない。ヨハンは膝を折り、少年が気を失っていることを確かめると、それきり彼には目もくれず、男たちが持っていた袋の方へと一直線に向かった。 目的はもちろん――。 『ヨハン!!』 『るびび〜!』 「みんな…!よかった、本当によかった…」 ヨハンは精霊たちに駆けより、抱擁代わりに彼らの宿るカードを一枚一枚愛おしそうに撫でた。囚われの身であった家族を取り戻したことで、ヨハンはようやく強張っていた表情を穏やかなものにした。 「感動の再会に水をさして悪いが、こいつらどうする?」 しゃがみこみ、気絶したジョシュアの頬をつついて遊びながら十代が訊ねた。ヨハンは再び表情を引き締め、それから路上に転がる四人を順に見て、どうしたものかと頭を悩ませる。大事に至らなかったとはいえ、ジョシュアおよびこの男たちには散々な目に遭わされた。正直、一発殴ったくらいでは腹の虫は到底おさまらない。 (……だが) ヨハンは唇を真一文字に結び、しばし沈黙する。 そして、疲れたように頭をゆるくふり、 「放っておく」 と溜息交じりに答えた。 「…いいのか?」 問い返した十代は、反対こそしなかったものの複雑そうな顔をした。 ヨハンとて完全に納得したわけではない。それでも、こうするのが自分にとっても十代にとっても最善、と判断したゆえの決断だった。 「こいつらだって、こてんぱんにやられて懲りただろうさ。こっちとしてもこれ以上の面倒はごめんだ」 ちらとジョシュアの方を見やり、ヨハンは目を伏せた。 ――ジョシュアの計画は緻密とは程遠く、はっきりと杜撰なものだった。本当に偶然、ヨハンがこの地に滞在していることを知って、急遽犯行を企てたのだろう。そんな無謀とも言える企みを実行に移したのは、仮に失敗しても大したことにはならない、という自信の裏返しとも考えられた。 (ゴロツキ用のエサに、“宝玉獣デッキ”なんて足のつきやすいものを挙げたのが良い証拠だ) 世界に一組しかなく、しかも正当な所有者が知れ渡っている――そんなプレミア品を表に出さず売りさばくのは並大抵のことではない。あのゴロツキが特殊な売買ルートを持っているとは思えないから、おそらくジョシュアが何らかの形で斡旋するつもりだったのだろう。となると、彼の後ろ盾は相当大きな影響力を持っているということになる。こんな不祥事の揉み消しなど造作もないはずだ。 「下手につつくとこっちが藪蛇、か」 同じ結論に至ったらしい十代が苦々しく呟いた。それに頷き同意を示すと、ヨハンは釈然としない思いを消化するように押し黙った。ちょうど足元に転がっていた注射器を踏み割り、石畳に広がる液体と、その中でいくつもの小舟のように揺らぐ硝子片をじっと見つめる。悔しいが、一介のデュエリストである彼らにできることはここまでだった。 「行こう十代、もうここに用はない」 「…あぁ」 ――こうして、ジョシュアの一件はやりきれなさの残る後味の悪い結末を迎えた。 * 「うっ……」 ヨハンたちが立ち去って数時間後、すっかり日が落ち暗くなった頃にジョシュアは目を覚ました。他の三人は先に目覚めてどこかに行ってしまったようで、路地に残っているのは彼ひとりだけだった。 ジョシュアはふと自身の身なりを検め、腕時計や指輪といった高価な装飾品があらかた無くなっていることに気付く。十中八九、男たちが持ち去ったのだろう。しかし、そんなことはもはやどうでもよかった。今、彼の心を支配しているのはたったひとつの感情――復讐に燃える、怒りの業火だ。 「…あと少し…あとほんの少しだったのに…!許さない、絶対に許すものか!あの悪魔めぇ…!!」 思い出すのも憎らしい、鳶色の髪とオッド・アイを持つ赤いジャケットの男。 名は確か――ジュウダイとか言ったか。ぼんやりとした意識の中、宝玉獣のヨハンがそう呼んでいたのをおぼろげに覚えている。 「ジュウダイ…世界中どこにいようと、必ず見つけ出して殺してやる!!」 『そんなこと君にできるのかい?』 「どんな手を使ってでもやるさ」 『君がやったってバレたらどうするの?』 「あいにく隠蔽はうちのお家芸でね。それに万一バレたとして、警察なんかどうとでもでき…………?」 そこまで答えて、ジョシュアははたと状況の奇妙さに思い至った。 今この場にいるのは自分だけのはずだ。ざっとあたりを見回しても人影らしきものはない。だというのに、なぜ独り言に返事が返ってくる――? 『それは困るなぁ。十代の身体は僕の身体でもあるのだから』 男のものとも、女のものとも取れぬ艶やかな声が、ジョシュアの頭上で響いた。 間違いなく、自分の他に誰かいる――! ジョシュアは勢いよく顔を上げ、声のした方に目を向けた。しかし、目に映るのは星のない暗い夜空だけで、やはり他に誰もいない。 「何なんだ一体…!出てこい、どこに隠れている!」 ジョシュアは虚空に向かって苛立たしげに叫んだ。 『隠れるも何も、目の前にいるのだけれど…まぁいいか。どうせ君とはこれきりだろうし』 姿が見えないと言うのに、相手が肩をすくめるような動作をしたと肌で感じ、ジョシュアは何だか気味が悪くなった。怯みそうになる心を隠そうと、ことさら大声でまくし立てる。 「訳の分からないことをべらべらと…お前は誰だ!さっきから何を言っている!」 『僕かい?僕はねぇ――君の大好きな悪魔さ』 「…あく、ま?」 思わぬ単語が飛び出し、ジョシュアは目を丸くした。彼自身“悪魔”という言葉を使っているものの、それは言葉のあやであって本当に実在すると信じているわけではない。確かに、この状況は超常現象の類で片付けた方が相応しい気もするが――それを認めるには、彼はまだまだ常識に囚われすぎていた。 『そう。君はね、蝶に誘われ本物の悪魔に出会ってしまったのさ』 「は…ばかばかしい!」 ジョシュアが吐き捨てるように言うと、悪魔は『君が信じようと信じまいと、僕が悪魔であることにかわりはないさ』と嗤った。 ――この人を喰ったような態度。忌々しいあの男にそっくりだ。 脳裏に今最も憎い存在が浮かび上がり、ジョシュアはぎりりと拳を握りしめる。長く形の良い爪が手のひらに食い込み、腕全体が細かく震えるほどの力を加え――それからふっと、彼は拳を緩めた。 ――落ち着け。ここで逆上して冷静さを失っては相手の思う壷だ。 「…お前も僕の邪魔をしにきたのか」 ジョシュアはひとつ咳ばらいをしてから、気を取り直してたずねた。 『心外だねぇ。僕個人としては、むしろ君を応援してあげたいくらいなのに』 「応援…?」 想定外の言葉に思わず眉が寄る。 『ああ。僕はヨハンが大嫌いでねぇ。君があいつを手籠めにすれば、今後あの憎らしい顔を見なくても済むだろう?』 「……」 ふふふ、と楽しげな声が天を舞った。 ジョシュアは困惑していた。敵かと思えば、はたまた味方だと匂わせるようなことを言う、自称“悪魔”とやらの目的がまるで掴めない。こいつは一体、何をしに自分のもとへ訪れたのだろうか。 『――けれど』 思考の海に沈みかけたジョシュアを、それまでとは打って変わった神妙な声が引き戻した。 天を仰ぎ、次なる言葉を辛抱強く待つ彼に、 『君が十代を傷つけるというなら、話は別だ』 悪魔は、背筋の凍るような声でそう告げた。 ――その一拍のち、ジョシュアの身体を突如酷い倦怠感が襲った。 (なんだ……?) まるで足元から力を根こそぎ奪われていくような――。立っているのも辛くなり、ジョシュアは膝をつこうと目線を足元にやった。そして、驚愕に目を見開く。 (な、な、何だこれは――!?) いつの間にか、ジョシュアを中心として地面に直径一メートルほどの黒い円ができていた。逃げ出そうにも身体は金縛りにあったように動かず、声を上げることすら叶わない。事態が呑めず混乱していると、暗闇は底なし沼のようにずぶずぶとジョシュアの身体を呑みこみはじめた。この中に沈んだとして、自分がどうなってしまうのかなどジョシュアには見当もつかなかった。それでも、全身を包む悪寒がまざまざと危険を知らせている――! 『愛しい十代ならともかく、好きでも何でもない君を一生見張るなんてご免だからね。悪いけど、別の次元に送らせてもらうよ』 言って、悪魔は面倒くさそうに息を吐く。 ――天から響く謎の声に、突如出現した底なしの闇、挙句の果てには別の次元――常識を覆す超常現象の数々を目の当たりにし、ジョシュアは錯乱寸前だった。ありえない、これは夢だ、現実のはずがない。そんな逃避をしている間にも、闇は首元にまで迫っている。 (あああああ…!た、助け……!) ジョシュアは辛うじて地上に出ている顔を上げて、そこにいるだろう悪魔へと必死に訴えかけた。両目を見開き、どうかやめてくれと静止を求め――しかし、懇願むなしく。ほどなく彼の身体は、すっぽりと頭まで完全に呑みこまれてしまった。 (…!……!…、……) 遠のいていく意識の中、ジョシュアが最後に耳にしたのは――さようなら、という無慈悲な別れの言葉だった。 * 誰一人としていなくなり、まるで何事もなかったかのように静けさを取り戻した暗い路地。そこに唯一残った人ならざる者――悪魔は美しい漆黒の翼を畳むと、少年が消えた地点のちょうど真上に降り立った。そして、その場所が何の変哲もない地面に戻っているのを確かめるように視線をあちこちすべらせる。しばらく悪魔はそうやって佇んでいたが、やがて納得のいく結果を得られたらしく、視線を上げて大きく伸びをした。 『…これでよし、と。やれやれ、今日は片付けが多くて流石に参ったね。早く十代のところに帰ろうっと。――それにしても。十代ってば、僕がこうして君のために動くと見越したうえで、ヨハンには聞き分けの良いふりをするのだから…。酷い男だよ全く』 ――まぁ、そんなところも好きなんだけどね。 悪魔は夢見る少女のような瞳で呟くと、翼をひろげて夜の闇に飛び去った。 |