∴ 夜を渡る




※現パロ



さらさらと頬をなでる風が心地の良い夜のことだ。
夕飯をすませ二階の自室でのんびりデッキ調整をしていると、じゃり、と玄関の方から砂利石を踏みしめる音が鳴った。
誰だろうか。
時刻は既に八時を回っており、良識あるものなら訪問を控える時間帯である。
ほんの少しの不安と湧き出した好奇心を胸に、十代はそっと網戸を開けて窓から顔を出す。
と、見覚えのある人影が戸口の脇に取り付けられたインターホンの前で、所在なさげに佇んでいるのが見てとれた。
橙色の外灯に照らされ普段より深い色合いを出す特徴的な青い髪。
それも斜め上方へ元気よく跳ねた癖っ毛の持ち主など、十代の知り合いには一人しかいない。

「…ヨハン?」
「あ、十代!よかった、どうやって呼び出そうかと思ってたとこなんだ」

声をかけるとヨハンはぱっと顔を上げ、ほっとした様子を見せた。
思わぬ来客に、十代は窓枠に手をかけ身を乗り出す。
方向音痴の彼がここまで無事にたどり着けたことにも驚いたが、ああ見えて存外常識的な友人がこんな夜分にやってきたことにも驚いていた。

「一体どうしたんだよ?」
「まぁそれはいいからさ、とにかく降りてこいよ!」

近隣に憚ってか、両手で口元に囲いを作ったヨハンが小声でせかす。
頭に疑問符を浮かべながらも、十代は椅子にかけてあった赤いパーカーを羽織って、言われた通り階下へ向かう。
素早く、かつ慎重に階段を下り、リビングで洗い物をしている母の横をぬき足差し足で通り抜け、やっとのことで玄関の戸を開ければ、そこには高級レストランのウエイターのように片腕を曲げ恭しく一礼するヨハンの姿。
ポロシャツにハーフパンツ、サンダルというラフな出で立ちとのミスマッチが何ともいえない可笑しさを醸している。

「これはこれは旦那様、ようこそ私めの夜会へ!」
「…は?」

なんちって、と茶目っ気たっぷりにウインクを寄越してきた友人を、十代はぽかんと見つめた。

「いやぁ、何か急に散歩したくなってさ。せっかくだからお前も誘おうと思って」
「はぁ」
「何だよノリが悪いなぁ。夜の散歩もオツなもんだぜ。で、どうする?」
「どうって…」

期待に輝く翡翠を受け、十代は困ったように眉を下げる。
というのも、都会にいた頃は仕事が忙しく構ってあげられなかったからと、こちらに来て以来、両親が少々過保護になっているからだ。
こんな時間に出かけるとなると決していい顔はしないだろう。
十代とてもう高校生であるし過干渉に苛立つこともあるが、懸命に家族の時間を作ろうとする両親の気持ちを、そうそう無碍にはできなかった。
けれど、それでもやはりヨハンの誘いは魅力的だ。
やや逡巡してから、結局十代は靴箱の上に置かれていたメモ帳とペンを掴み、出かける旨を書き残した。





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周囲を田畑に囲まれた、車一台通るのがやっとの道を二人並んで歩く。
月明かりも街灯も無い夜道は十メートル先すら見通せず、ヨハンの持つ手のひらサイズの懐中電灯だけが頼りだ。

「何処に行くんだ?」
「気の向くままさ。まぁ時間も時間だし、一時間くらいで帰れるようにはするけど」
「…迷子は勘弁してくれよ?」
「あはは、そいつは保証できないなぁ」

ひとしきり笑ってから、ヨハンはふと歩調を緩め空を見上げた。
十代も足並みを揃えるかたちでならうと、黒から紫へグラデーションのかかった生地に、ぼやけた星がぽつぽつ点在する夜空が視界に広がった。

「十代ってさ、星とか詳しい方?」
「いや?全然」
「だよなぁ。ロマンチストって感じじゃないし」
「"ロマンチスト"ってなんだ?」
「…まぁそれは置いといて。今日はあんまりパッとしない空だけどさ、冬になるとすげぇ綺麗なんだぜ」
「へぇ…」
「冷たく澄んだ空気が星との距離感をぐっと縮めるし、何より華やかでさ。青白いのとか橙っぽいのとか、いろんな色が見られる。しかも、ここらは他に光源もないから月や星の明るさが際立つんだ。わかりやすいのだとオリオン座…砂時計みたいな奴な。あれなんかすごくはっきり見えるぜ」

かつての夜空を重ねているのか、ヨハンの声は夢見るような響きで大気を震わす。
彼の言葉を通し、十代もまたまだ見ぬ冬の星々を思い描いてみたが、どうにもうまくいかない。
そもそも彼は、頭の中であれこれ想像できるほど空を知らなかった。
彼の中で空と言えば、高層ビルに囲まれたマンションの一室から眺める箱庭のように切り取られた一角だけだ。
自分にはヨハンの見ている世界を理解することができない。
些細なことと言ってしまえばそれまでだが、十代にはそれがとても悲しいことに感じられた。

「だからさ、その時はまた誘うよ」

一緒にいろんな景色を見よう。
ふいに約束された"共有"の機会に、十代ははっとしてヨハンを見る。
闇夜にきらめく翡翠は唇に微笑みをたたえ彼方を見つめたままだ。
むずむずと、何か言いたいような、それでいて口に出さず大切にしまっておきたいような、よくわからない感情が込み上げる。
十代は二、三度口を開いては言葉を探してそのままつぐみ、かわりに友人の肩へ軽く握りこぶしを当てることで、ようやっと約束への回答とした。




ぐえっぐぇ、ゲコゲコ、グググ。
ジー、ジー、りりりりりり。
オォーン、オォーン…。

蛙に、虫に、犬の遠吠え。
そしてそれらに混じる二人分の足音。
会話が途切れると、案外夜の世界がにぎやかなことに気づき十代は驚く。
するとそれを察したように、「さしずめ自然の合唱団ってとこかな」とヨハンが人さし指を振ってリズムをとってみせた。

「あいつらなかなか良い声してるだろ」
「ああ。田舎の夜って静かなイメージあったから、ちょっと意外だけど」
「ふふふ。でも、不思議とうるさくは感じないんだよな」

確かに、めいめい好き勝手鳴いているものの彼らの声は心地良く、暗い夜道を歩くには頼もしいとすら感じる。
闇に紛れ姿は見えなくとも、そこかしこに満ちる生き物の気配。
耳を澄ませば、風に揺れ葉をすり合わせる草の音だって聞こえる気がして、十代はふらりふらり、身の丈ほどに伸びた草が群生する水田へと引き寄せられていく。


「あ、あんまり端っこは歩かない方がいいぜ」
「え?」

どぽん。
周囲の音を一切かき消すようにして響いた音に、十代は文字通り飛び上がった。

「な、なんだぁっ!?」

田んぼの中に、何か大きな石でも落っことしたような。
小さくさざめいていた虫たちの声も今の件でぱったり途絶えてしまった。
十代が目を白黒させてヨハンを見やると、

「お前の足音に驚いたウシガエルが飛び込んだんだよ」
「ウ、ウシガエルぅ…?」
「ああ。それもかなり大きい奴だな。…にしても…ぶっ…十代ビビりすぎ!」

言って、ヨハンはけらけらと笑い、うっすら涙まで滲ませている。
些か大袈裟な反応だったことは十代自身認めるが、あからさまにからかいの種にされているというのは非常に面白くない。
しかも相手が対等と信じるヨハンであれば尚更だ。

「何だよ、ちょっとびっくりしただけだろ!」
「はいはい。あーあ、せっかく忠告してやったのになぁ」
「あーもう、笑うなってば!」
「わかったわかった。くくく…!」

暖簾に腕押し、馬耳東風。
ヨハンは心得ているという風に手をひらひらさせるばかりで、抗議の声など耳に入らないらしい。
残念ながら、十代のささやかな矜持など彼にとってはどこ吹く風、取るに足らない細事のようだ。
あまりにあんまりな扱いにむっとして、十代は頬を膨らませた。
その仕草がいかにも子供っぽく、ますます事態の悪化を招いていることなど当の本人は知る由もない。

「いつまで笑ってるんだよ」
「あはは、悪い悪い。まぁそう仏頂面すんなって」

あくまでも屈託なく、な?と笑顔を向けられ十代は言葉に詰まった。
ヨハンに自覚があるのかは知らないが、断ることに躊躇いと言いようのない罪悪感を覚えるこの顔に、十代はめっぽう弱かった。
半ば根性でへの字口を続けるも、駄目押しのように「ほら笑った笑った!」と促されてしまえば、十代のちっぽけな意地などあっさり降参である。
眉を下げ、負けたよという意味を込めて見つめると、よろしいとでもいうように翡翠の瞳が得意げにきらめいた。

結局のところ、十代はヨハンと一緒なら何だって楽しいのだ。