∴ 橙をなぞる 「…それで?」 「おしまい。俺はこれ以降夢を見なくなった」 よっ、とステージに見立てた給水タンクから飛び降りる。結構な高さがあるが、臆するほどではない。 少しの浮遊感の後、軽い震動がつま先とコンクリートを伝う。 一連の動作を見ていたたった一人の観客――ユベルは、ふぅんとつまらなさそうに呟き視線をはずした。 遠くを見つめる瞳の色は、橙。 少し暗めの橙が茜色の空にとけ、普段より柔らかな色合いを出している。 ユベルは口数の多い方ではない。俺が黙れば必然的に沈黙がおりる。 長い語りでほてった頬を、冷えた風がなでていく。風除けになるもののない屋上は気温以上の冷えを感じさせた。 つい最近まで秋だったのにな。もうそろそろコートを引っ張りださねばなるまい。 並び立って橙色の街を眺める。特に会話もなく、そのまま数分。 先に口火を切ったのは俺だった。 「逢魔が時ってあるだろ」 唐突な切り出しにもユベルは動じない。片眉を少しだけ上げ、続きを促してくる。 「あっちとこっちの境界が曖昧になる、ちょうど今くらいの時間なんだけどさ」 「…」 「俺、あいつに謝りたかったんだ。だから時々、ここに来てた」 ここはこの学校で一番橙色に近いから。 懺悔にも似た告白。幼かった俺の罪。 こんな話をした意図に気づいたのだろう。 それまで静観していたユベルの顔は、今や盛大に歪められている。 「それはつまり、僕をそいつの代わりにしようってわけ?」 「…否定はできないな」 はじめてこの場所でユベルに会った時、本当に驚いた。 なんせ夢の住人が成長して目の前に現れたとしか思えないほど、ユベルの容姿は彼に酷似していた。 はっ、と小馬鹿にしたように笑いユベルは口角を吊り上げる。 「君のことは恨んでない。もう気に病む必要はないよ。…とでも言えば満足かい?」 そしてにっこり、と女の子が見たら赤面しそうな顔で、随分と意地の悪いことを言った。 「うっわぁ…こりゃ手厳しいな」 へらりと笑って頬をかくと、ユベルは不快そうに顔を歪めた。 「残念だけど、僕はそいつにはなれないし許しを与えることもできないよ。 大体、逢魔が時って思いっきり不吉な表現じゃないか。失礼な奴だね」 「細かいことはいいんだよ。…とにかく、ここで初めてお前と会ったとき決めたんだ」 「なにを」 「今度こそ間違えない、って」 言って、ユベルの左袖を掴み肘まで一気に捲り上げる。 まるで日に焼けていない生白い皮膚に浮かぶ、引っ掻いたような無数の跡。 それの意味するところが分からない年齢ではない。 「手、放してよ」 常に纏っていた余裕の色を消し、橙の瞳に獰猛な光が宿った。 無言で威圧してくるユベルを無視し、つ、と指の腹で傷痕をなぞる。 圧迫されいっそう白さを増した腕が僅かにはねた。 かっと屈辱に顔を赤く染めたユベルに手をひき剥がされそうになったところで、素早く口をはさむ。 「これ、次から俺につけてくれないか」 「…………はぁ?」 肌を刺すような険しさは薄れたものの、かわりに困惑の気配が増した。 まあ、当然だろうな。 「俺はさ、一方的に甘えるだけだった。自分の気持ちを押し付けてばかりで、あいつの優しさを汲み取ってやれなかった」 今思えば彼はきっと、俺を悪夢から守ってくれていたのだ。 夢の中くらい安らかでいられるように。明日からまた頑張ろうと思えるように。 なのに、俺の依存心が全部台無しにした。 現実から逃げ夢に傾倒していく俺を見て、彼はどんな気持ちだったのだろう。 ひょっとしたら自分を責めたかもしれない。彼は他でもない俺のために悩んでいたのだ。 こんな簡単なことに、長い間気がつけなかった。 「さっきは間違えない、なんて偉そうに言ったけどさ。正直言って自信がない。 だからさ、ペナルティーが欲しいんだ」 ユベルの腕を解放し、自分の左手首をさする。 「ペナルティー…?」 強く掴まれたことで痺れたのか、ユベルは指の感覚を確かめるように動かしながら呟いた。 「そう。お前がそいつを増やしたいと感じるようなことがあれば、それは選択を間違えた俺の落ち度だから」 訝しげな表情のまま固まっているユベルの手を取り、指先を俺の手首の上に置く。 そして軽く爪をたてさせ、そのまま真横に走らせた。 「…っやめろ!!」 我に返ったユベルは乱暴に手を振り払い、距離をとろうと後ずさる。 フェンスに背が当たり、カシャンと軽い音が空気を震わせた。 「俺は、本気だぜ」 開いた分以上に距離をつめ、鼻がくっつきそうな状態まで近づく。 ユベルも負けじとこちらを睨むが、目に力がない。 「気味が悪いね。狂ってるよ。たかが数回会っただけの僕に、どうしてそこまでするの」 吐き捨てるようにユベルは言う。 「うん、全く同感だな。俺もそう思う。…でもさぁ、仕方ねーじゃん」 傷だらけの左手に再び触れる。 びくりと体を震わせたユベルに心の中で謝罪し、労るようにそっと両手で包み込んだ。 「お前が一人で苦しんでるの、嫌だ。そう思っちまったんだから」 だからさ、諦めろ。 ふざけるなと殴られる覚悟で宣言すると、拳こそ飛んでこなかったものの、呆れやら怒りやらもろもろ孕んでいそうなため息を返された。 「あれに似ているとは思ってたけど…」 ポツリとこぼし、ユベルは自由な右手で顔を覆う。 「は?」 「何でもない。ただの独り言だよ」 話は終わりだと言わんばかりにユベルは口を閉ざす。 なんとなく気になり尚も言い募ろうとすると、「しつこい奴は嫌いだよ」と釘をさされた。 教える気はないらしい。 「ふーん…。ま、そういうことで俺、今日からお前の半身だから。傷つけたくなかったらせいぜい人生楽しめ」 「僕は了承した覚えはないよ」 「いいさ。お前がどう言おうが俺は勝手にやる」 本気だ、と迫ったときのことでも思い出したのだろう。 ユベルは苦虫をかみつぶしたような顔をした。 「…馬鹿なやつ」 「お互いさまだろー」 どんなときでも憎まれ口を忘れない姿勢に苦笑が漏れる。 痛みを全て自分に向け、決して人に向けなかった不器用で優しい馬鹿野郎。 今はこんな形でしか力になれないけれど、これから一緒に沢山馬鹿やって笑おうな。 橙色の穏やかな光を注いでいた夕日が、もう大丈夫だね、とでもいうように街の中に沈んでいった。 |