かこのはなし
2013/04/14 00:50

まだ俺が幼かった日のこと。鳥一匹いない静かな海に、その人はいた。

『ねぇ、お兄ちゃん何してるの?』
“知らない人に話しかけちゃダメよ”。出かける際、心配性の母が口を酸っぱくして言っていた言葉は好奇心を前にあっけなく敗れた。当時の俺は、興味本位をまるで隠そうともせず、こちらに背を向け桟橋へ腰掛けていた彼に声をかけた。
『――ん?何って、釣りだけど』
ふりかえったその人は、手に持った自作らしき釣竿(竹の棒の先端に糸をくくりつけただけの簡素なものだ)を見せながら、見知らぬ子供の唐突な問いに律儀にも答えてくれた。
『うそだぁ。だってその釣竿、針がついてないじゃないか』
ずっと見てたから知ってるよ。幼い俺が子供特有の馴れ馴れしさでアピールすれば、彼はくすりと笑って『ありゃ、ばれてたか』と舌を出す。
『ねぇ、どうしてそんなことしてるの?

『さぁな、君は何でだと思う?』
『えっ……』
思わぬところで問い返され、ちょっとした探偵気取りだった俺はまごついた。少し考えて、『……ひまだから?』と推理もなにもない答えを返すと、彼は人差し指を左右に振り『それも一つの答えだ』と笑った。
『理由をつけるのはいつだって周りの仕事なのさ』
『……よくわかんないよ』
大人の言うことはいつだってわかりにくい。はぐらかされたような気がしてしょんぼりと肩を落とした俺に、彼は優しい目を向けた。
『それでいいのさ。意味はあるかもしれないし、無いかもしれない』
『なにそれ』
『君次第ってこと。……俺はここで、釣りを続ける。それを時間の無駄とみるか、ロマン溢れる挑戦とみるか』
――君はどっちだ?
そう問われた気がした。
『……ま、どうせなら夢ある想像をした方が楽しいと思うけどな』
肩を竦め彼は歯を見せ笑う。幼心に眩しい笑顔だった。楽しいこととつまらないこと、どちらがいいかだなんて、そんなの決まってる。
『ぼくも……ぼくも、楽しい方がいい』
『……そうか。なら、その心をずっと忘れるな。大丈夫。お前なら絶対できるぜ、十代』
柔らかく微笑み、彼は俺の頭に手を乗せた。俺は大きな手のひらに撫でられるがまま、猫のように目を細めて心地よい感触に浸っていた。彼に会ったのは、後にも先にもこの一度きりだ。

それにしても、なぜ彼は俺の名を知っていたのか。水中に繋がる糸を見つめ考える。そもそも彼は一体何者だったのだろう――今ならきっと、ロマンに満ちた回答ができる気がした。





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