26

 その日は、雲ひとつない晴天であった。澄みわたった秋の空、爽やかな朝の風。波も穏やかで絶好の航海日和。こんな日は普段の私ならば機嫌よく過ごせただろう。しかし、私の気分は最悪だった。

 おそらく長曾我部は今日海へ出るのだろう。昨日の夜からずっと騒がしい。今の気分を言葉で表すのならば、どんよりとか陰鬱か。それよりもっと、夜の山で霧が立ち込めた時の様。どうしていいのか分からなくて、私は此処に立ちつくすしかない。

 私が今まで好き勝手出来ていたのは、全て長曾我部のおかげなのだ。彼が良いと言ったから、私はどこにでも行けたし、何をしていてもよかった。でも、彼に駄目だと言われれば、途端に何もできなくなる。私は中国の支配者であっても、余所の国では何もできない、唯の人だ。

 人は権力に頼り過ぎている。それがあるのとないのでは大違いだから。私は弱い。私が毛利元就でなくなったなら、ただの私になったなら、私はどこまでも無力だ。


 もっともっと、強くなりたい。いつまでも弱い私は嫌だ。私は毛利元就にはなれない。父上にも、兄上にも、経久様にもなれないのだ。だって私の中には、どうしても殺し切れない私がいる。体内に異物を無理やり入れれば、拒絶反応がおこるように、心や精神もそう。私は私でしかあることができないのだ。

 私が目指した毛利元就が凛として強く見えたのは、それが自分の力で積み上げてきたものだったから。それを真似したところで、私自身が彼の人のように強くなれるはずがなかったのだ。いつか苦しくなって、それは崩れてしまう。実際に、私は毛利元就の生き方が苦しくて、逃げたくて、辛くて、ああやって長曾我部に泣きついたのではないか。私は彼のように強く、生きられなかった。

 毛利元就という存在に縋って、私は何か変わったか。否、何も変わってはいない。

 だから、今度は私自身が強くならなくてはいけない。形だけではなくて、根本から。心から、芯から強く。もう私が弱いからと、後悔したくない。できるはずだ、中国山脈での戦いのときだって上手くいったではないか。あの時私を突き動かしたのは、経久様との約束だったけれど、今度は、私が決める時。

 気付けば、城内は静まり返っていた。私は部屋の隅に置いていた包をひらく。優しい香りの緑の衣をさっと纏う。手袋も、脛当ても、欲しいものはみんな揃っていた。全部、新しい。新しい一歩を踏み出す私には相応しい気がした。薄絹の面紗をそっとつけて、私は立ち上がる。私が壁に投げつけてからずっと壁際に落ちていた手帳を拾い上げ、私は部屋を飛び出した。

 人の少ない城内を駆ければ、驚いた女中に呼び止められたが、無視して走り続けた。門番の横をすりぬけて、門をくぐると、城下へおりる長い坂。そして、正面に広がる海。それは、眩しいほどに煌めいていた。港のちょうど真ん中あたりに、大きな船が見えた。長曾我部の軍船だ。直した船は、浅瀬から移動して沖にとまっている。まだ、間に合うかもしれない。

 このまま戦が終われば、どんな結末であろうと、もう二度と此処での心安らぐ気持ちにはなれないのだと分かっていた。あきらめなければ、世界は変わるかもしれないと私は知った。変わったであろうところも、私は見た。変えたい、私が想像した結末を。あの瀬戸内をもう二度と血の海にさせるものか。

 私は駆けていく。坂を一気に下り、人でごった返す町を抜け、港まで全力で走った。港に人が集まっている。舟を出迎えた時と同じように、彼らは船を見送るのだろうと思った。その中から、私の姿に気づき、あの呉服屋の少年が私に声をかける。

「兄ちゃん! 鬼の兄ちゃん、もう行っちゃうよ!」

 その言葉を聞き、私は人ごみの中に飛び込んだ。人の間を泳ぐように人の波を掻き分けて、やっと人ごみを抜けると、丁度最後の小舟が岸から離れる所だった。

 いきなりあらわれた私に、人々はざわつく。小舟の上で銀の髪の男がこちら振り返った。ぱちりと目があう。彼は少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑って私に手を振った。それに、非常に腹が立つ。

 私は長曾我部が忘れていった手帳を思いっきり彼に投げつけた。分厚いそれは真っ直ぐに飛んでいって、長曾我部の顔面に上手い具合にぶつかった。

 ぐらり、舟が揺れる。兵士が慌てて舟を押さえる。ぐらぐらと船が揺れている間に、私は「発」を岸のギリギリに展開し、思いっきり海へ跳ぶ。踏み切った瞬間「発」を爆発させると、私は一瞬、空を飛んだ。

 舟の上で、顔をさすりながら起き上った長曾我部は私の行動にとても驚いた顔をして、反射的に腕を伸ばす。私はその腕の中めがけて、頭から飛び込んでいった。

 ぐわん、と舟が大きく傾いて、兵士が悲鳴を上げる。それでも舟は転覆しなかった。

「……っ、馬鹿やろう危ねえだろうがっ! あんた、怪我したらどうすんだ!」

 舟の揺れが収まって、ようやく長曾我部が口を開く。自分でしたことだったが、実は私もかなりドキドキしていた。まさか受け止められるとは、思っていなかったから。

「っ、そなたが、何も告げずに……出ようとしたのが、悪い」

 全力で走ってきたから、酸素が足りなくて上手く話せなかった。四国にいるうちに体力が落ちただろうか。私はなんだか可笑しくなって、ひとりで笑う。

 岸の方では、私が舟に飛び移ったことで大きな拍手が湧きあがっていた。振り返れば、少年が手を振っている。私はそれに手を振りかえした。

「おいおい、何のために黙って出てきたと思ってんだ?」

 長曾我部はもうどうでもよくなったのか、まだぼさっとしていた兵に舟を進めるように指示を出した。私が暴れないようにしているのか、彼はわたしの腕をしっかりとつかんで問う。

「本当についてくるのか?」

「我とて、ただ待っているなどできぬ」

 私の回答は、長曾我部も聞き覚えがあるようで、彼は大きな声で笑う。

「だったら死に物狂いでついてきな。遅れるんじゃねえぞ」

 その言葉が嬉しくて私は長曾我部に飛びつく。また舟が揺れてこっ酷く怒られた。

 海も空も青かった。彼の瞳と同じくらい、青い。私はさっき長曾我部に投げつけた手帳を懐にしまって、落ち着きを取り戻した小舟の上でその青をじっと眺めていた。四国の民の声援が聞こえる。これからのことは考えていないけれど、何とかなるような気がした。


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