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 私は、どうやら凄いことをしてしまったらしい。ふらふらと月山富田城を歩いていると、いつも向けられる眼差しに息が詰まりそうになる。

 私に対する、好奇、憧れ、怖れ、それと、期待の眼差し。大きな大きな中国の支配者、毛利元就その人なのだと私を見る。皆、私に夢を見ているのだ。期待ばかり膨らんで、私がそれに答えられると思っている。前世、つまらないただの一般人だった女が今、国ひとつ背負っているなんて、おかしな話だと私は思った。

 ぱらぱらと、読むわけでもないのに本のページをめくる。めくってもめくっても、内容はさっぱり頭に入ってこない。本を読むのが目的ではなく、最早めくることが目的になりつつある。私は一体何をしているんだろう。本当は、こんなことをしている場合ではないのに。

 そろそろ、全てを背負う覚悟を決めなければいけない。私が中国の支配者になった。つまり、私がこの中国の運命を握っている。今までよりも大きな責任、大きな期待、それに応えていかなければ。

 私は開いていた本を音をたてて閉じた。それを机の隅に置いて、私は今朝方届いた文をひらいてもう一度目を通す。ふと、後ろからそれを覗き込む気配に気付いた。

「晴久、気配を消して近づくのは止めよ。人の文を覗き見とは趣味が悪いのではないか?」

 私が首だけ動かして顔を見ると、晴久は肩をすくめてみせた。

「気配を消すのは癖だ。砂の海に一人でいるとな、自分が風に溶け込んでいくんだよ、自然に。それに文が見たくて覗いたわけじゃない」

「調子に乗っていると首が飛ぶぞ」

 私が首を斬るしぐさをすると、晴久は怖い怖いと口を動かした。晴久はまったく怖がっている様子はない。私は文を机に広げて、ため息をついた。

「……まあ良い。丁度そなたに用があったのでな。呼びつける手間が省けたというものよ」

 首を傾げる晴久の前で、広げた文の一文を指でなぞってみせた。それは、志道からの郡山城の様子が事細かく書かれた報告書。なぞった部分は今後の予定。

「少輔太郎が元服したいと申しておったのだ。もともとさせるつもりで用意させていたのだが……我はそれが見たい」

「お前まさか、今から郡山城に帰るとか言わねぇよな?」

 晴久はとても嫌そうな顔をした。卓上の文をしばらく食い入るように見つめて、彼はもう一度私を見た。

「ああ。そろそろ帰らねばならぬと思うてな。ちょうど良い機会ゆえ……」

 少輔太郎の元服は、本当にちょうどいい機会だった。何か帰る理由が欲しいと思っていたから。志道は何も言ってこないが、あちらも忙しいに決まっている。いつまでも私がこんな所でだらだらとしていていいはずがない。

「あのなぁ、雪山はお前が思ってるよりずっと危ない所なんだよ。そんなところにお前を行かせられるわけないだろ?」

 諭すように、晴久は私の肩をつかんだ。私は何故彼が私の心配をするのかわからなかった。寧ろ、私がいなくなった方が尼子家の再興の為には良いだろうに。

 彼は失ったものを取り戻したいとは思わないのだろうか。権力が欲しいとは思わないのだろうか。国の主から家臣へと成り下がったのに、何も思わないはずがない。幼少のころ、権力を、領地を欲したものによって城を追い出された私は身をもって知ったのだ。人は自分の利益の為だけに生きる。晴久は、いったい私の何処に利益があると見出したのだろう。

「何故そなたが我の心配するのだ?」

 私が聞くと、晴久はとても驚いたような顔をした。しばらく沈黙があった。いったい晴久は何を考えているのだろう。私が首をひねると、私の肩をつかんでいた晴久の腕の力がすっと抜けた。

「……俺、14年前からずっと、松寿の兄さんやってるからさ……普通、心配するだろ」

 途切れ途切れに言って、困ったように晴久は笑う。晴久が私の兄になると言ったのは、たしか私がまだ4つだったの時のことだ。彼もまた6つか7つの時のこと。そんな時のことをよく覚えているなと私は感心した。

「ああ、あれか。ただの子供の口約束であろう。……そなたも懐かしいことを言う」

 私がそう言うと、晴久はムッとした顔をして私を見た。何か言おうと口を開いたが、途中で止めて大きく息をはいた。

 どうやら晴久は情のある人間のようだ。そう言えば私に刃を突き立てた時も、急所は外していた。あれはやはり手元が狂ったわけではなかったのか。

 彼は、本気だったのだろう。私の義兄になろうとしてくれたのだろう。でも、私はもうそんなものは必要なかった。いや、欲してはいけなかったから、冷たい言葉を吐いた。誰かを特別視すると、失った時辛いから。私はもう、一人で生きていくと決めたから。

「心配など無用よ。今年は雪も少ない。現にこうやって文は届くのだ、帰れないこともあるまい」

 私は晴久を安心させるため、笑顔を作った。晴久はまた大きくため息をつく。私は上手く笑えていなかったのだろうか。彼は髪をかき上げる。

「どうしても行くって言うなら、俺もついていくからな」

 晴久は、機嫌が悪そうに言った。予想していなかった言葉に、私は一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。理解してから、もやもやとした気分になる。私が突き放しても、彼はついてくる。私が毛利元就であるためには、晴久を生かしたのは失敗だったかもしれない。

「……好きにせよ」

 それでも、私は彼を拒むことができなかった。私のすべてを犠牲にしてでも、この中国を守っていく覚悟を決めなくてはいけないのに。私は自分の物なのに思い通りにならない自分の心を必死に押さえつけて、目を伏せた。


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