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 しとしと、しとしと、春の雨。朝起きたら、日輪が拝めなかった。雨は嫌い、なんだか暗い気分になる。杉様はご機嫌が悪いのかしらなんて笑っていたけれど。

 春の雨がふる庭を眺めながら私は先日受け取った手紙にいま一度目を通す。月夜丸が多治比にやってくるらしい。いや、正確にはもう月夜丸ではない。彼は今年元服して元綱になったから。

 私が元服したから、大人というものに憧れたのかもしれない。年の離れた兄姉を持つと早く大人になるというし、あの子はしっかり者だ。大人になっても平気だろうとは思っていた。でも私はその時、どうせ最後には大人になるのだから、もう少し遊んでおけばいいのに、なんて思った。

 しとしと、嫌な雨。本当にこの雨の中彼は来るのだろうか。雨の雫が庭梅の花びらから一粒落ちた。なんだか綺麗。

「……夏負けて咲きたるはねず、久方の雨うちふらばうつろひたむか」

 せっかく咲いた庭梅の花が、雨で色あせてしまうよ。庭梅は儚くて、美しい花。この雨を美しいものにしてくれる、あの花が私は好きだった。

「それって万葉集?」

 景色に酔っていると、急に声が聞こえてきて驚いた。私は動揺を必死に隠して目線だけそちらにやる。見ると、しっとりと髪を濡らした月夜丸が、ゆっくりとした足取りでこちらへやってきた。

「勝手に入って来ちゃった。城の中はよく知ってるし」

 にっこり笑って言う彼に私は少し呆れたが、結局は家族だから別にいいか、という結論に至った。場所を移そうと私が立ち上がると、月夜丸はここでいい、という様にもう一度私を座らせた。髪が少し濡れているから、拭いてあげたいけれど、生憎今は何も持っていなかった。彼は私にぴったりと身を寄せて暖をとっているようだった。寒いなら場所を移せばいいのに、彼はどうしてこうなのか。

「月夜丸はまだまだ甘え子よ」

 べたべた引っ付いてくる異母弟に私は笑みがこぼれる。元服したとはいえまだまだ子供。甘えたい盛なのだろう。そして、彼は私が予想した通りの反応をした。

「僕はもう月夜丸じゃないもん。元綱です」

「知っている」

 子供っぽく怒った顔をする彼がおかしくて、私は彼の頭を撫でてやった。これが、兄上や家臣たちの前では一切そんなそぶりを見せずに、一人前の大人として振る舞っているのだと噂で聞いた。誰に似たのか人一倍プライドが高い。私は口元を袖で隠してこっそり笑った。

「……兄さまってさぁ、大内さまと気があったりする?」

 じっと私を見ていた月夜丸がいきなり話を変えたので、私は何のことだかわからずに首をかしげた。大内様って、中国の二大勢力の大内のことだろうか。兄上が仕えている、あの人。何度か会ったことがある。あまりはっきりとは顔を覚えていないのだけれど。

「あの人さぁ、歌とか好きなんだよね。雅っていうか派手っていうか。兄さまはあまり話さないの?」

「あまり……していないと思うが」

 何を話したか必死に記憶を手繰り寄せたが、戦の話か政治の話ぐらいしかしていないような気がする。私はいつも兄上のそばにいるので、兄上がだいたい話を進めてしまって、会話をした記憶がほとんどなかった。その口ぶりから、月夜丸ってもしかして社交的なんだろうか、なんて関心をしてしまった。

「兄さまは他人に興味なさすぎ。ま、あの人変人だから。これからも近づかない方がいいと思うけど」

 月夜丸の忠告がなんだかおかしくて笑ってしまった。大内の殿様は月夜丸に言わせれば変人らしい。どんなふうに変なのだろう、と少し興味を持った。

「それは気になるな」

「ちょっと、僕の話聞いてた?まったくもう……」

 月夜丸の機嫌が悪くなるといけないので、私は笑いながらも頷いておいた。


 月夜丸は明日の朝帰ると言ったので、私たちは暗くなってからも情報交換をしながら将棋を指していた。雷が鳴り、雨の音が激しくなったので、明日までにあがるといいけれどなどと話していると、騒がしい足音が聞こえてきた。尋常ではない様子で部屋に飛び込んできた兵士を落ち着かせて何があったのかを聞く。この雨の中必死に駆けてきた兵はぐしょぐしょになりながら、息を切らせていった。

「興元様が、急に倒れられ……御命も、危ういと」

 雷が、落ちてきたような衝撃が全身に走った。目の前が真っ白になって、私はふらりとその場に倒れこんだ。盤が揺れて、ばらばらと駒が畳に落ちる。月夜丸が私の体を支えてくれた。

 雷の音と、雨の音しか耳に入ってこなかった。私が元服したときの、ざわざわとした感覚がよみがえってきた。本当は、兄上が死ぬことを分かっていた自分がどこかにいたはずだ。だって、私の記憶の中に残る、中国の支配者は毛利元就という男だったから。元就が中国を治める、ということは……。

 吐き気がする。床に手をついて自らの体を支えようとすると、指先に駒がふれた。駒に彫られていた、玉将の文字が、私の目に焼き付いた。


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