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 あれから二年が過ぎ、兄上は無事安芸へ帰ってきた。兄上は約束通り、私たちを郡山城へ引き取った。

 それからの私たちの生活は平穏そのもので、相変わらず月夜丸は兄上に対して無愛想だったけれど、それなりにうまくやっていたと思う。大きな戦もなくて、幸せだった。兄上の子供たちと遊んだり、月夜丸の勉強を見てやったり、杉様と散歩をしたり。何より、兄上と一緒にいられるのがうれしかった。

 兄上は優しい。一緒にいると、私がまだ戦国時代の厳しさなんて何も知らない『千』だった頃に戻れるような気がした。時々、自然に笑顔がこぼれるようになった。でも心の奥は、何となく私は笑ってはいけないような、そんな気がしている。

 私は松寿丸なのだと、私の中の誰かが言う。私は毛利を守るために存在しているのだ。多くの人がそれを望んで、生き残るため私もそれを受け入れたはずだ。それなのに、どうして私はこんなに幸せな気持ちになるのだろう。ずっとこの時が続けばいいと、私は決してかなえられない願いを願った。

 幸せな時は一年ほど続いた。そして、私はついに人生の大きな節目に立った。

 私が15歳の1月15日。その日はとても寒かった。

「松寿丸……いいのかい? 元服したら、本当に後戻りできなくなるよ」

「兄上。その話は聞き飽きました」

 私が元服すると決まってからずっと、兄上は何度も同じことを私に問う。決心が揺らぎそうになるので私はなるべく聞き流そうとしているのだが。

「つらくても、苦しくても、後悔しない?」

 本当に真剣に兄上は私に聞く。後悔しない人生なんてあるものか。私は目線をあわさないように、ふいと顔をそむけた。聞きたくない。私を心配する優しい言葉に、決心が揺らいでしまうから。

 私は自分にけじめをつけるため、元服をすると決まった時に長くのばしていた髪をバッサリと切ってしまった。もう戻れないし、戻らない。大丈夫、上手くできるはずだ。この世界に生きている武士の子は皆通る道だもの。普通の人より、上手く生きていける自信はある。

 兄上は私の態度にようやく諦めたのか、ふうと長く息を吐いた。息は白く湯気になって消えた。

「松寿丸が男として生きるのをやめたいって言ったら、たぶん一番困るのは私なんだろうね」

 ぽつりと言った兄上は何となく悲しそうだった。家臣たちになんて言われるか、分かったものではないから。私が女になって、私が嫁いだ先が毛利に刃向うことになったら、私が毛利の味方をするかわからないから。きっと兄上はそんなことを考えているのだろうと思う。それでも私に元服を進めないのは兄上の優しさなのだろう。

「私は自分勝手だよ。守る力もないのに、口先ばかりで。私は自分の妹一人守れない……」

 また兄上の口から白い息。私はこういう時どのような顔をすればいいのか、分からなかった。困ったように眉を顰めればいいのか、大丈夫だと笑えばいいのか。私は下を向いて顔を隠した。

 そっと、兄上の手が私に伸びてきた。二、三回私の頭を撫でる。なんだか懐かしい気がした。顔を上げると、兄上の少し切なそうな顔があった。

「松寿丸は、きっとこれから辛かったり苦しかったりする思う。でも、これだけは忘れないでほしい。私も、父上も母上も皆、あなたの幸せを願っているんだよ。だから……これを」

 そう言って、兄上が取り出したのは砂糖を煮詰めたような色をした、櫛だった。飾り気のないそれを私にしっかり握らせる。

「必要のないものだと思うかもしれない。でも、大切に、いつも持っていて。母上から父上に、父上から私に……そして私からあなたに、ずっと続いてきた家族のあかしだから」

 手の上にのったそれを私は眺めた。綺麗な色、淡く光っているようにも見えた。

「我が、いただいてもよいものなのでしょうか……」

 父上が兄上にくださった形見だろうに、と思っていった。それなのに、兄上は優しく笑う。

「それは、あなたのための物だよ」

 私は兄上の言葉の意味がよく分からなかった。この櫛は鼈甲なのだろうか、優しい肌触りがする。小さいけれど、これが家族のあかし。嬉しかった、いつでも皆側にいてくれるような気がして。暖かい春の陽ざしのような色。私の心まで温めてくれるような、そんな気がした。

「ありがとう、兄上」

 私がお礼を言うと、兄上はにこにこと笑った。

「さあ、そろそろ松寿丸は支度をしないと。……もう、飛んでいる蛍だって見に行けるようになるよ」

 懐かしい約束だ。もうあれから10年以上たったのに、まだ覚えている。兄上が立ち上がったので、私も立ち上がる。外の空気はきりりと寒かった。

 私はそっと櫛を握りしめた。


 この日、私は松寿丸から毛利元就に名を改めた。こうなることは予想していたのに、なぜか心は名を呼ばれるたびにざわざわと落ち着かなかった。


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