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「何?西園が抜かれただと?」
目の前で怪訝そうに眉を顰めている兄に、啓介はやおら頷いた。
事の発端は先日、深夜と呼ぶには遅すぎる時間帯に赤城で粛然と行われたバトルにあり、前々から赤城を走っている姿を偶に見掛ける事のあった白のS2000が、何処だかの走り屋に意図も簡単に抜かれたと言う。
その西園というのは涼介が引き抜きも考えていたまでの男で、それがこうも表沙汰になってしまえばさすがの涼介でも思うところがあったようだ。
眉を上げた涼介は手先の動作を止めて目で詳細を求めていた。
噂の根源がそこらの走り屋風情だと言うのならまだ軽く聞き流して終われる範囲内の話だが、そうもいかないのは件のS2000がちょっとした草の根有名人であるからな訳で。
「相手は黒のAWだとよ。兄貴何か知ってるか?」
「いいや、この辺りでは聞かないな」
「だよな」
先程よりも何となく重たい空気の漂う室内に啓介は、自分から切り出した話題なだけに何だか妙に居た堪れない気持ちになっていた。
「どんな奴が運転してんのかな」
「かなりの巧手である事は間違いないだろう」
バトルの成り行きに至るまでの情報が今一つ回って来ないのでどう言った経緯なのかまでは判断し兼ねるが、それでも速い車が抜かれたとあれば黙って居られないのが走り屋の悲しい性なのだ。
「啓介」
「え?」
「悪い事は言わない、止めておけ」
「何がだよ」
「どうせお前の事だから、例のAWに勝負でも吹っ掛けるつもりだろう」
「…心配いらねぇよ。地元でやらなきゃいいんだろ?」
「そう言う問題じゃない」
「じゃあどういう問題だよ」
「察しが悪いな、面倒事に首を突っ込むなと言いたいんだ。況して相手が何処の誰かも解っていない」
地元御法度だとでも言いたいのかと考えたが、どうやらそうでは無いらしい。
これ以上の有無は言わせないとばかりに、涼介が読んでいた新聞を畳んだかと思うとソファーから腰を上げた。小気味の良い音を立てて新聞がテーブルに置かれる。
「啓介、海にでも行こうか」
「…は?」
「ここ最近は暑い日が続いたからな、偶には少し足を延ばすのも悪くないだろう」
口角を上げて微笑む涼介の突拍子も無い提案に、啓介は疑わしげにその腹を探るも特にこれと言った他意は見つけられない。
「どうしてまた」
「嫌なら良いんだぜ」
「誰も嫌とは言ってねぇよ」
納得のいかなさそうな啓介は、ややあってから渋々と身支度に取り掛かった。
夏場の暑い太陽の元に晒されたFCを暖気する必要も無く、手持無沙汰な涼介は今しがた京一から送られて来た短いメールに再び目を通す。
この涼介と言う男が、訳も無く海へ行こうなどと言い出す筈が無い事は啓介とて十分に承知している。それが一体どの様な意図であるのかは理解し難いのはさて置いて。
「あぁそれと」
「なんだよ」
まだ何かと言いたげな啓介は、それでも視線だけ動かして涼介を見遣った。
「水着は用意しておけよ」
「うん?」
何処と無く含みのある言い方に小首を傾げた啓介だが、例である兄貴様は何も言おうとはしない。諦めた啓介が視線を戻す事によって会話は切り上げられた。





天気も良く、雲一つ無い快晴とは正にこの事だろう。海岸沿いにFCとFDが二台連なって駐車され、着くなり早々勢い良く階段を下って行った啓介はさながら子供の様に燥いで居た。
普段クルマを走らせている啓介からは滅多に御目に掛かることの出来ない様子に、涼介の頬は自然と緩む。
「兄貴!泳がねぇの?」
「先に入ってて良いぜ」
「おう」
夏の代名詞とも言える其処は、子供から年寄りまでの幅広い年齢層の多くの人間で賑わいを見せている。
照り付ける日差しに一瞬眩しそうに目を細めた涼介が、啓介が海に飛び込んだのを目視で確認するなり頻りに周囲を見渡して何かを探し始めた。
どうやら現在地からでは御目当てのものが確認出来ない様なので、注意を払いながら海岸沿いを歩く事暫し。
視界の端に捕えたのは一見して他と何ら変わりない定食屋であった。それらしい店なら近辺にもぽつぽつと見えているが、涼介は音も無く口角を上げると其処へ向けて足を踏み出した。
背中を少し屈めて暖簾を潜り、入り口の引き戸を開けると美味しそうな匂いが鼻を突く。
「いらっしゃいませ」
客の注文を取っていた若い女性が顔を上げ、大きな声で涼介を出迎えた。歳は自分と然程変わらないであろう。
「お一人様ですか?」
「あぁ」
「カウンターのお席でも宜しいでしょうか」
「構わない」
丁度昼時で混雑しているのか厨房付近のカウンター席に案内された涼介は、年寄りと学生に挟まれたその場所に腰を下ろす。
どうやらホールスタッフは彼女一人のみの様で、忙しなく店内を駆け回っている。広いとも狭いともつかない広さの店内で一人では大変だろうと自然と彼女の背中を目で追っていると、振り向き様に一瞬だが目が合った気がした。
些か気不味くなり、不自然な挙動で目の前に置かれているお品書きに目線を移した。
不意に涼介が「すいません」と叫んで店員を招くと、「今行きます」と元気な声が返ってきたのでそれが何だか可笑しくて。
小走りで隣に来た彼女に、
「貴方のお勧めは?」
「え?」
「個人的にお勧めの料理をお願いします」
「そうですね、私はこちらのうな重定食が好きです」
「じゃあそれを一つお願いしようかな」
「有難う御座います」
彼女は愛想良く微笑むと、慌しく厨房へと引っ込んで行った。
老夫婦の二人営業なのか、厨房の中にはそれらしき影の他は見当たらない。
「となると、やはり彼女か…」
テーブルに肘を突き、指を組んだ涼介は瞼を伏せて呟いた。この店のすぐ横に停められたそれは、凛とした佇まいで静かに主の帰りを待っていた。黒のフォルムを輝かせて。
先の京一から送られて来た内容には、この海岸沿い付近の並びにある定食屋に、それらしいクルマを見た奴が居るとの事で。
別にどう言う腹積もりがあった訳でも無いのだが、些か気になるそのドライバーを一目お目に掛かりたいとこうして出向いた次第である。
そして、一体どんな人間が運転しているかと思えば、まだ若い女性オーナーだった事に驚かなかったと言えば嘘になる訳で。
予想していたよりは幾分か早く目の前にサーブされた定食に、「頂きます」と割り箸を割ってそれをつついた。





綺麗に平らげたところで、左腕の時計を見遣ると時刻は既に14時を回っていた。好い加減なところで切り上げて戻らないとそろそろ兄離れの素振りも見せない弟分が煩い頃だろう。しかしいつになってもそう切り出す事の出来ないそれは自分にも反省点がない訳でもない。
重たい腰を上げた涼介が、レジカウンターへ向かうと例によっての彼女が手馴れた手つきで会計をこなしていく。
その手際の良さに思わず感嘆してそのままこの場を後にしてしまうところであったが、それを思い止まらせたのは女の制服の胸元に覗いた鍵と思わしきそれだった。
「失礼ですが、隣に停めてあるクルマは貴方のですか?」
「はぁ、そうですけど…」
「先日赤城にいらした方ですよね」
彼女は一瞬はっとした表情で双眸を開いたと思えば、今度は目線を涼介の肩口へと逸らして気不味そうに口を開いた。
「…ご用件は」
「とんだ無礼を申し訳ない」
「あれは貴方のお友達?随分と不躾極まりない人間ですこと」
「それは悪かったな。俺は赤城レッドサンズの高橋涼介と言う者なんだが」
「あぁ、高橋涼介って貴方の事だったの」
「因みに、バトルの感想は?」
「大した走りもしない癖に、口先だけは御立派な戯け者のプライドをへし折ってやるのは最高だったわ」
「大した奴だな。第一印象裏切りやがって」
「人は見掛けによらず」
「そうとも言うな」
「て言うかその為だけにわざわざ此処まで?」
「そうだ。悪いか?」
「悪くは無いけど阿呆らしいったら無いわ」
「そういう顔をしてくれるな」
眉間に皺を寄せて渋い顔をしている女に、涼介は僅かに苦笑する。
思った以上の器だった。
「まあいい、お前の事が気に入った。名前は?」
「生江ですけど」
「生江か。良かったらまた赤城へ来ると良い」
「それはどう言った腹積もりかしら」
「他意は無いさ。純粋に歓迎するよ」
「…そう」
生江は未だ怪訝そうな表情で涼介なる男の他意を探っているがそれらしいものは見当たらなかった。本当に歓迎されてそれで終わりだとはとても思えないけれど。
ややあって仕方無く納得したように生江が軽く頷き、掌の上で行き場に困っていたレシートを御釣りと共に差し出した。
「また御越し下さいませ」
「また来るよ」
含みのある表情を残して涼介は店を後にした。一瞬風通しの良くなった扉がやがて閉められ、遠ざかる足音に生江は肩で息を吐いた。
掴み所の無い男と言うのが第一の印象で、はっきりとまでは解らないが大方奴も相当腕の立つ走り屋なのだろう。昨日の今日で出回った噂を鵜呑みにするとか、そういった意味では最近の走り屋事情も無下には出来ない。
別に自分が走り屋の真似事をしているつもりは無いが、あの手のクルマで峠を走っていれば同業と思われるのも何ら不思議な事では無い。実際に今までにも意味も無く押し付けられた勝負を幾度と無く繰り広げて来たのだから。
峠の世界は、もう少し穏やかなものだと思っていた頃もあったがどうやらそれも見当違いな話である事に気付かされたのはつい最近の事で、一見して温厚そうな人柄でも腹の底にあるそれが必ずしも穏やかなものでは無い。
その手のクルマを見掛ければ、一目散にバトルがどうのと言い出す輩が想像以上に多すぎやしないだろうか。血の気が多いと言うか何と言うか。
それでもあの高橋涼介なる男には、何だか妙に惹かれるものを持ち合わせているらしく不思議と通例程の嫌悪感は感じられなかった。
もう直ぐお昼休みが回ってくる。愚図って居ても仕方が無いと生江はテーブルの後始末を始めた。
普段の行いというのは知らずと表に出るものだ。御盆の上に丁寧に割り箸が並べられ、その隣に申し訳程度に折られた紙ナフキンが置かれているが些か妙な畳み方に引っ掛かるものを感じた生江は、それを手に取り通常の大きさに開いたところで今度こそ頭を抱えた。
走り書きで綴られた見覚えのある出だしの八桁の番号のそれを見て苦笑い。自分が気付かずに捨てていればあの男はどんな顔をしただろうか。
そんな妙案が浮かんだところでそれを実行しようとはどうにも思えないんだけれど。
手の中で浮つくそれを再び折って渋々エプロンのポケットへと収めた。
「御丁寧ですこと」
生江は鼻で嗤い、それでも幾分か楽しそうにまだ僅かに熱の残る御盆に手を掛けた。

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