「…ブラックコーヒーは飲めないんじゃなかったか?」 優しい声に顔を上げれば、静雄がマグカップを片手に隣の席に腰掛けるところだった。驚きに目を見開く。たまたま外からお前がいるのが見えてよ、という言葉になる程と思う。窓際の席を陣取り、ぼーっと外を見つめてどのくらい経っただろうか。 「…時々、飲みたくなる時があるんですよ、」 遅い時間のコーヒーは眠れなくなるというのに。 それははっとしたい時、生きてきた道を振り返りたい時、そうしてひとりではそれができない時。 「…昔、好きだった人がご馳走してくれた、びっくりするくらい苦くて、でも美味しいコーヒーがあって、それを忘れられません。」 だからこうしてわたしは時折、あの日のコーヒーの味を追い求めてコーヒーショップへ立ち寄ってしまう。あの日の味を超えることは、たぶん無理なのだろうとわかっていながら。そうしてその事実に救われている。あんなに苦くて手厳しくて、寂しくて痛々しい味よりも、優しい今日のコーヒーにほっとする。明日からまた、生きてゆけると思う。 窓の外のネオンが滲み始めていた。突然のそれに、自分でも驚く。言葉にすることで、考えていたことはひどく現実味を増したらしい。 わたしは泣いていた。 隣の静雄がそれに気づき、慌ててポケットの中をまさぐっているのが横目に見える。 「…すみません、大丈夫なので…」 「……そうか、」 慌てて自分の鞄からハンカチを出した。そっと瞼を抑えれば、アイシャドウがハンカチにうつり、きらりと煌めくのが見えた。 いつからか、あの日は遠い思い出に変わり果てていた。いつまでもこの席に座って、あの日の味を探すわたしは何処にも行けていない。それなのに、あの日がどんどん風化していることを実感した、今隣にいる男が、臨也ではないという事実がそれをまた助長させる。 ぽろぽろと涙が止まらなくなったわたしの手をきゅ、と握って、静雄がそろそろ行くか、と呟く。わたしは黙って頷くことしかできない。 夜は短いのだ、泣いている暇などない、まして、あの男を思い出して泣いている暇なんて、本当はない。 がたりと席を立つ。静雄が優しく手を引く感触にまた泣きたくなりながら、わたしは思い出を、またこの店に置いて行く。そうしていつか今日も、思い出になるのだ。 さようなら臨也さん、わたし、もう行きますね。 |