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夜は短し(臨也)





たったひとつの、温度を伴う思い出がいつかのわたしを救うことになるということ、彼はわかっているのだろうか。


「…臨也さんみたいな性格の悪い人が寄越してくれる嘘みたいに美味しい一杯のコーヒーが、いつかわたしを救ってくれたりするんですよ、」
「……なにそれ、相変わらず名前の言っていることはよくわからないよ、」

思っていたことをそっくりそのまま伝えると、彼は困ったふりをして笑った。本当はさして困っていないことがわたしにはよくわかる。
だが、今日の彼が”特別”だということも、わたしにはよくわかっている。


閉店間際のコーヒーショップに人はまばらで、遠くでは小銭の音が聞こえる。
そんな閉店準備に入った店の様子が、この時間に限りがあることを思い出させる。

「こんな夜遅くに呼び出されてほいほいきちゃうなんて、君も大概馬鹿な女だよね、」
「…勘違いしないでください。わたしは、いつかのわたしを救うために今日ここにきたんですから、」
「だから意味がわからないってば、」

窓の外のネオンを数えていると、彼の視線を感じる。
おそらく目を合わせようとしているのだということはありありとわかっていた。
だけどわたしは、それをすることができない。

「わかってくれなくて大丈夫です、わたしだけが知ってればいいんですから、」
「…名前も随分ジャイアニズムな発言をするようになったね、誰の影響かな、」

だって本当のことなのだ、仕方がないじゃないか。
そして同時に、今のわたしでは、この感覚を彼に説明することができない。







「明日、」

不意に紡がれたその言葉にようやくわたしは顔をあげた。
このひとはいつだってそうだ、本当のことをいうときは少しだけ、悲しい顔をする。

「明日、」

反芻されたその言葉はふらりと漂って、行き場を失くす。
彼は恐らく自分の核心に触れることが得意ではないのだ。
そのことに気づいたのはおそらく最近で、だからこそわたしは次の言葉を待つことしかできない。

「…明日、俺は消えるかもしれない、」

何処へですか、と聞きたい気持ちをこらえた。わたしのくだらない好奇心で、彼の真っ黒な純潔を殺してはいけないと思った。

「君の言うことは相変わらずよくわからないけれど、」

そこで彼は一度言葉を切る。
彼が言葉を選ぶように会話するのは珍しいことであった。
焼き付けておこう、
不意にそう思った。

「俺もいつか死ぬ前に、この夜を思い出すんだろうなってことは、わかるよ、」

わたしたちの間に、決して言葉は多くなかったけれど、いつだって其処には温度があった。
何よりも悲しい言葉なのに、其処にはいつも通り、血の通った温かい体温がある。

「……いつか、また、」

其処まで言った彼は、不意にバツが悪そうに目をそらす。こんなことを言うはずではなかった、といった表情だった。


「…そろそろ行こうか、」

彼がレシートをひらりと振った。それが何だか白旗にみえたわたしの鼻の奥が、ツンとする。
それを隠すように残りのコーヒーを飲み干した。






彼とは自宅近くの十字路で別れた。
池袋の街は24時を迎えようとしている。

「じゃあ、俺はここで、」
「はい、」





わたしはきっと、いつの日か、思い出す。
この夜を。そしてこの男が居た、この、池袋の夜を。

その時、立ち上るのは穏やかな、コーヒーの香りが良い。


彼が最後のこの街の夜に、小洒落たバーでも住み慣れた自分の部屋でもない、陳腐なコーヒーショップを選択したこと。そしてわたしを、選んだこと。

その事実を思うだけでわたしは、たまらなく救われてしまうのだ。救われなくてはならない。

「じゃあね、名前。」


今はただ、そう思うばかりである。



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