いつものようにベランダで煙草を蒸かしながら、現れた黒猫の喉をゴロゴロと撫でているところだった。そんなわたしの日常の中に、突然そいつは降って出たのである。
「やあ、名前久しぶり、」
言葉を失った。ボロアパートとはいえ仮にも此処は3階である。
よっ、と言いながら華麗な動作で彼がわたしの家のベランダに着地すると、驚いた黒猫が逃げてしまった。
「い、ざやさん…」
久しぶりに呼ぶ名前に、唇が違和感を覚えた。何故こんなところに、と思ったわたしはそれからふと、さっきの独り言を聞かれていなかっただろうかと思い、羞恥から咄嗟に彼から目をそらす。
「どうしてここに?って顔してるね、」
「そりゃまあ…3年ぶりとかですから…」
会話の内容から、先程の独り言は聞かれていなかったのだと判断し、安堵したわたしは内心小さく息を吐く。
「…久しぶりにこの辺を通りかかったものだからさ、名前が元気にしてるかなって、気になって、」
嘘だ、と思った。
彼はおそらく、もう東京になんて、まして忌々しい池袋になんて戻ってくるわけがなかった筈なのだ。根拠はなかったが、ただ漠然とそう思う。
悶々とわたしが考えこんでいるのを察したらしく、臨也は笑みを深くし、話題を変えるべくそういえば、と声を上げる。
「あんなに俺のことを嫌っていた君が野良猫に俺の名前を付けて可愛がってくれるなら、3年も君の前から姿を消した甲斐があるってものだねえ、」
やっぱり聞こえていたらしい。
それに気づいた自分の顔にさっと熱が集まるのがわかる。
彼が池袋や新宿から姿を消して3年が経つ。最初は泣いてばかりいたわたしも時の流れには逆らえないようでいつしか泣くこともしなくなり、自分の生活を守れるまでに成長していた。
そんな折、現れたのが先刻の黒猫だった。
『みゃあん、』
初めてその猫が現れた時、その真っ黒な出で立ちと気まぐれな所作に咄嗟に彼を思い出した。
『…臨也さん?』
自分でも馬鹿げた話だが、わたしのその猫への第一声がそれだった。
猫の方も、よくわからないといった様子でこちらを見返していたが、わたしの部屋の室外機の上が気に入ったらしく、時折姿を現わすようになった。
そして、今日もまたその場所に訪れた猫の喉を、撫でてやっていただけなのである。
「なんだっけ、『猫の方の臨也はかわいいね〜』だっけ??」
「…もう、やめてください、」
ニヤニヤと懐かしい笑みを浮かべた彼が顔を覗き込んでくるので、ふいっと目をそらす。
何も変わっていない、本当に何も。
「……名前に呼び捨てされるなんて思ってもなかったから、俺どきっとしちゃったよ、」
「…………もう!やめてくださいってば!」
そう言いながらぐいっと臨也の肩を押すと、彼は少し驚いたような顔をしてよろめく。
「え、」
咄嗟にその腕を引いてしまった。だってそんな顔を見るのは、初めてだったから。
わたしが腕を引いたことで、その場に再度留まった臨也はふう、と小さく息をついた。
「…実はまだ少し、痛むんだよね、」
そう言いながら臨也は、忌々しそうに自分の足を見やった。そこでわたしははたと思い出す。そうだ、彼は足を負傷していた筈だ、と。
「君の家のベランダに侵入しないといけないし、リハビリちょっと頑張ってみたんだけど、まさか非力な名前に押されてよろけちゃうだなんておもわなかったよ、」
段々とバツの悪そうな顔になる臨也は一瞬だけ、見たこともない自嘲的な笑みを浮かべた。
そんな顔を、わたしは知らない。
「あ、の、臨也さん、「あれ?もう呼び捨てにしないの?」……え?」
「さっき言ったじゃない、どきっとしたってさ、」
「あ、あれはいつもの軽口かと…」
知らない、わたしの知っている折原臨也はこんなことを言う人間ではない。
「俺のことを大嫌いとしか言わなかった君が、まさか俺のことを忘れないでいたなんて思わなくて、俺も少し動揺してるらしいんだけど、」
どうしてわたしは自宅のベランダで追い詰められているんだろう。ぼんやりとした頭で考える。
臨也がいなくなってから始めた煙草は、煙をあげながら長さをすり減らしていく。だが、その煙草は臨也の靴でもみ消されてしまう。
「煙草も、猫を可愛がることも、もうやめなよ、」
「…そんなことを言いに来たんですか、」
「そんなわけないだろ、」
「じゃあなんで、」
「…理由なんていいじゃない、君の大嫌いなはずだった男は今、君に会うためだけにこの部屋に存在している、それだけでしょ、」
その言葉にゆっくりと顔を上げる。わたしは、自分の無い頭を最大限フル活用してその台詞の意味をゆっくりと噛み砕く。
「そのことを踏まえて、君は俺に言わなければならない台詞があると思うんだけど、」
「…」
「名前、」
3年前とは何処か響きの変わった自分を呼ぶ声に、意を決したように顔を上げた。
性格の悪いこの男が、何もかもを捨ててわたしのことを選んだように、わたしもいろいろなものをすてて、彼を選ぶのだ。
「おかえり、臨也。」
「…うん、ただいま」
すっかり火の消えてしまった煙草を踏み潰し、猫の居なくなってしまったベランダで。暑くて、茹だるような熱気の中で、わたしたちは、キスをした。
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