――ガチャ、と部屋の向こうで玄関の扉が開く音が聞こえて、目が覚めた。カーテンも閉めていない暗い部屋の中で視線を彷徨わせて、サイドテーブルに置いてある時計に目をやった。時間は深夜、ちょうど日付をまたぐ手前だ。今日は遅い帰りだな、なんて思いながらシーツの上で四肢を伸ばして身じろぐ。その時、ガシャン、と大きな物音が聞こえてきた。
その音で完全に目を覚まし、ベッドからゆっくりと上半身を起こす。そうして扉の向こうに意識をやると、部屋の向こうでは物を倒す音やら何かを投げつけるような音が聞こえて来る。
――珍しい。今日は荒れてるな。
普通なら不法侵入者かなにかだと疑うだろうが、あいにくこの部屋は高層マンションの最上階の部屋だ。セキュリティもしっかりしているこの部屋に、主である彼以外が部屋に入ることはない。
暗い部屋の中でじっとしながら音が鳴り止むのをしばらく待つ。すると数分も科内に音は鳴り止み、人が動く気配も消えた。それを確信してからベッドから足を下ろし、そっと寝室の扉を開けた。
扉を少し開くとゴトン、と何かが扉にぶつかる音がした。その音を追って視線を下ろしてみると、リビングに飾っていた花瓶が床に倒れ転がっていた。それを避けながら中途半端に開いた扉を開け、暗いままのリビングに目をやる。
「稀咲……?」
部屋の中は荒らされた、と言うほどのものではないにしろ、綺麗に整えられていた部屋は変わり果てていた。床には小物が転がっているし、よく見ると花びらのようなものが落ちている。辿って行くと玄関に繋がる扉の付近に花束が無残に転がっていた。
暗がりに慣れた目で辺りを見渡してみると、ソファに項垂れるように座っている稀咲を見つけた。スーツのジャケットを脱いで、珍しくネクタイやシャツのボタンを外している。そうして乱れた髪をそのままに膝に肘を付いて俯く稀咲にそっと近づいた。
目の前に来ても、稀咲はなんの反応も示さない。そのままおもむろに腕を伸ばし肩に触れようとする。しかし。
「触んな」
肩に触れる直前で抑揚のない低い声でそれは咎められた。すぐさま伸ばした手を引っ込め、再び稀咲を見下ろす。でも相変わらず稀咲はそれ以上の反応を示さない。
改めて部屋に視線を向けてみると、ふと鈍い光を放つ小さなものに気づいた。近くには小さな正方形の高級そうな箱も転がっていて、それをなんとなく拾ってみる。
鈍い光を放っていたのは、銀の小さな指輪だった。指輪には高級な宝石が嵌め込まれていて、すぐになんのための指輪か理解した。
「もうただのゴミだ」
指輪を指で挟んで見詰めていると、ふと背後で稀咲がそう吐き捨てた。振り返ってみるが、稀咲の様子は変わらない。
「ふうん……」
視線を再び指輪に戻して、特別興味を示すことも無く相槌を打つ。そうして綺麗に輝く指輪を掲げて、その鈍い輝きを見つめた。
「なかなか良い指輪ね。さすが稀咲、センスが良いわ」
おどけるように言えば、稀咲は片手で顔を覆いながら少し顔を上げる。
「ならお前にやる」
「酷い。お下がりの指輪を与えるなんて、なかなかに最低ね」
ふふっと笑って稀咲に振り返る。少しは調子が戻ったようだ。そうして再び稀咲に歩み寄り、指はソファの前に設置された硝子のテーブルに向かって乱雑に投げ捨てる。カラン、とガラスの上で音を響かせて転がるそれはあまりに滑稽だ。けれどそれを気にする者はいない。そのまま稀咲の隣に腰を掛け、顔を覗き込むように首を傾げる。
「……なんでだ」
ふと、稀咲が力なく呟いた。いつもの稀咲からは想像がつないような、ひどく弱々しい声だった。
「なんで……俺は望む通りの姿になっただろ……」
「……」
譫言のように繰り返す稀咲。きっとこの言葉の意味を正しく理解できるのは当の本人と、それを聞くただ一人の女にしか分からないだろう。ただこのためだけに、十年という長い年月を駆け抜けてきたのだ。綿密に、完璧に示されたレールの上を、正しく歩いてきたのだ。
項垂れる稀咲を黙って見つめながら、女はその譫言に耳を傾ける。
「手に入らねぇなら……もう要らない」
そう呟く稀咲を、女はただ黙って見つめていた。その瞳になにを映していたのかは、女にしか分からない。
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