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ディミレト
2020/12/09
 知らない場所のはずなのに、どこか懐かしい気がして立ち止まる。少し後ろを歩いていた先生は突然立ち止まった俺の背中に額を激突させ、痛そうにさすっていた。それを申し訳ないと思う暇もなく、俺は食い入るようにこの地を見渡していた。別に、懐かしさを感じることは何もおかしくない。この地に訪れたことは別に初めてでもない。だが俺は、この場所に強烈な懐かしさを抱くと同時に、途方もない違和感を抱いた。ここはこんなにも渇いた空気を含んでいただろうか。もっと、そう、雨に濡れ、地面がぬかるみ足がもつれるようなところではなかったろうか。赤くなった額を押さえていた先生は、俺の尋常ではない様子に眉をひそめてどうかしたのかと俺に問うた。そう、そうだ、この地において、俺は先生にだって強烈な違和を感じている。どうして貴方は俺の隣にいる。どうして無防備にさらされた俺の背に短剣を滑り込ませない。どうして、貴方は、暢気に額をさすって俺を心配そうに見上げている。
 目を見開いて、先生に振り向く。強烈な違和は恐怖と拒絶に姿を変え、今や俺は先生のことを得体の知れない何かにしか思えなかった。無意識に後ずさり、冷や汗をびっしょり掻きながら先生を凝視する。先生は首を傾げながら、「ディミトリ?」と俺を呼んだ。どうして、どうしてそんな優しい声で俺を呼ぶ。どうしてそんな風に俺を見る。だって、先生、貴方は、あの時、俺の首を。いや、何を考えている、先生はいつだって俺に優しく声をかけてくれただろう、愛しげに俺を見詰めてくれただろう、間違っても、俺を敵として見るような、そんなことは。
「先生」
 からからに渇いた口が、勝手に言葉を紡いでいた。おかしい、おかしい、どうして俺は先生にこんなにも恐怖と憎悪を抱いている。先生は、青獅子の学級の担任で、俺を導いて、助けてくれた恩人だというのに、どうして、どうしてこんな、おかしい、疲れているのか、冷や汗が、震えが止まらない、処刑される前日だって、目を潰された時だって、俺はこんなにも恐怖し憎悪したことはないというのに。
「俺を、この地で殺した覚えはないか」
 俺の言葉に、先生は目をまあるく見開いた。緑色の目がぴかぴかと神様みたいに煌めく。俺は、先生はきっと何を言っているんだと俺を訝るだろうと思った。疲れているのかと俺を気遣うと思った。そうであってくれと、願った。
 しかし先生は、不思議そうに、心配そうに下げていた眦を、別の感情で緩め、先生はゆったりと、穏やかに笑った。それは、ああ、その、目は、この地で、雨に濡れるタルティーンの平原で見た、あの時の、
 顔を蒼白にさせて呆然とする俺に、先生は歌うように言った。
「もう随分昔の話だ」


ディミレト
2020/12/09
 彼の外套は真っ黒で、つまるところ暗闇に溶け込むと夜目が利きやすい俺の目でも彼を見つけることは容易ではなかった。よくよく目を凝らして、まるで世界から隠れるように夜の暗がりの一部になっている先生を探す。きらり、と何かの拍子に先生の白緑色の髪がきらりと光って、それでようやく俺は先生を見つけることが叶った。先生、とほっと息を吐きながら、闇に足を踏み入れる。緑色の目がぱちりぱちりと数度瞬きをし、不思議そうな顔をして俺を見上げた。
「どうして」
「どうして、って、いなくなったら探すに決まっている」
 少しだけ呆れながら眦を柔く下げると、さらに先生は首を傾げて俺の目を見詰めた。暗がりで、先生の目と髪だけが星のように瞬いている。
「どうして」
「だから先生、いくら先生が不老不死に近い存在になったとはいえ、心配なものは心配なんだ。探すに決まっているだろ」
 苦笑しながら先生に手を伸ばし、たところで、それが空を掴んだことに目を見開く。先生の目は相変わらずぴかぴかと光っていて、まるで俺を断罪するように煌めいている。先生の目が細くたなびき、俺の知らない感情を灯す。あれ、そういえば、先生を日の光の下で見たのは、いったいいつが最後だっけ。
 先生、と悲鳴のようにその名を呼んで、駆け寄ろうとした瞬間、先生の真っ赤な口が、何かを諦めるように歪んだ。諦め? いや、きっと、その感情は、

「心配も何も、お前が食べてしまったじゃないか」

 俺はもう、お前の腹に収まっているじゃないか。

 は、と鋭く息を吐きながら覚醒する。びっしょりと汗を掻いたまま、朝日に照らされる天上を呆然と見上げた。蛍光灯がはめられた白い天上、窓の外に立ち並ぶ高層ビル。緩慢に身体を持ち上げながら、ぼんやりと窓の外を見る。テレビを見ながらそのまま眠ってしまったのか、俺の身体はソファに投げ出されたままで、つけっぱなしのテレビからは救国王生誕記念日で遺跡となっている城に観光客がなだれ込んでいるニュースを伝えていた。そ、と潰れた右目をなぞる。先生を食べてもこの右目は戻らなかったな、と思い出すと同時に、そういえばどうして俺は先生を食べてしまったんだっけ、とぼんやり思った。


よう分からんディミレト
2020/11/11
「本当は、約束なんてどうでもよかったのかもしれない。俺はただ、もう一度だけでもいいから会いたかったんだ」「神様だとか、悪魔だとか、先生だとか、さまざまな音を俺は持ったけれど、終ぞ人間とは呼ばれなかった」「ならば俺が呼ぶよ」凛とした声だった。それでいてどこまでも空虚な音だった。無理もない、もうこの人は人ではなくなってしまった。数百年の時を生き、約束も忘れ、ただただ生きているだけの神様になってしまった。
「大丈夫だ、かならず、会いに行くから」
なんて残酷な言葉だろう。そうして、なんとうつくしい言葉だろう。それがあったからこそ、彼は狂わずに生きてこれたのだろう。自死を選ばずに生きてこれたのだろう。呪いというのも烏滸がましい、愛の言葉によって、彼は縛られ続けていたのだ。
「もう一人にしないから」
涙に濡れた先生の頬を撫でる。先生は王が死んでから泣いたのだろうか。分からない。分からないが、俺はまたこの人に出会って恋をした。前世のことなんて思い出せない。自分が王だったことなんて思い出せない。それでも、またこの人に出会えた。またこの人に恋をできた。それはなんだか、どんな物語よりもうつくしい戯曲である気がした。
「ずっと一緒にいよう、先生」
触れた唇は血の味がした。こくり、こくりとその血を飲んで、俺たちはながいながい口づけをした。神話にしては薄汚れた人間の感情でまみれ過ぎている、かといって恋物語にしては長すぎる。そんな一つの物語が終わり、また新たな物語が始まる。人の人生と同じだ。唇を離すと、先生が笑った。神様でもない、悪魔でもない、とても人間らしい顔で。
数百年を経て、ようやくこの人は人間になれてのだった。
「行こう、ベレト」
人間となった愛しい人の名を呼ぶ。自分が異形となったのか、それともベレトが本当に人に戻ったのかは分からない。すぐに分かることかもしれないし、何十年もしなければ分からないことなのかもしれない。でも、どちらでも構わないと思った。己が異形になったとしても、ベレトが人間に戻ったとしても、やることは変わらない。二人で、生きていくだけだ。
手始めに星を見に行こう、と言った。ベレトは蒼穹を見詰めながら、星だけは昔と変わらない、と呟いた。星と同じように、変わらぬものもこの世にある。それはベレトの身体もそうであるし、かつての王との約束でもあった。そうして、俺とベレトの関係でもある。ベレトの手を取り、微笑む。

かつて、一緒にいようと言えなかった。
かつて、共に生きようと言えなかった。

今はもう、それを知っているのは、金髪の王子と、緑の髪を持った女神だけである。


よう分からん先生の独白ディミレト
2020/10/22
「当たり前のことだが、全を救うことなんて不可能だ。善を救うということは全を救うことと同義ではない。だいたい、救った相手が善である確証はない。だから、全を救うなんて無理なんだ。全を救うということは善も悪も救うということで、つまるところ殺人があったら遺族だけではなく犯人も救うと言うことになる。その場合、遺族は本当に救われたと言えるのだろうか? 自分の大切な人を殺した人間が救われたことは、遺族にとっては耐えがたい苦痛なのではないだろうか。自分の大切な人の命を奪った人間がのうのうと生きているというのは、救われがたい苦痛なのではないだろうか。俺はそのように考えていた。お前は大切な人を殺した組織の一端である彼女を許しただろう。それは、常人にはできないことだ。確かに、結果としてお前は彼女を殺した。けれど、同時に救おうとしただろう。それは反射的、目の前で馬車に轢かれそうになった見ず知らずの女の子を助けるのとは全く訳の違う、相手が彼女であることを分かって、尚且つ考える時間があったのにそうしただろう。俺には自分がお前と同じようなことをできるとは到底思えない。巷ではどうやら俺は女神の再臨だのなんだのと騒がれているらしい。誰にでも分け隔てなく接し、どんな極悪人にも慈悲の御手を差し伸べる神そのものだと。俺は自分のことをそんな大それた人間だなんてとてもじゃないが思えない。確かに俺は、誰にでも分け隔てなく接しているのかもしれない、どんな極悪人にも慈悲の御手を差し伸べるのかも知れない、しかし、誰にでも分け隔てなく接するということは、誰のことも特別だと思っていないことと同義だ、どんな極悪人にも慈悲の御手を差し伸べるということは、相手の罪、いや、相手そのものを見ていないということだ。一個人として相手を尊重せず、ただの物体としてしか認識していないということだ。確かにその姿は神じみているのかもしれない。しかしそれは果たして、慈悲と呼べるのだろうか。相手を認識せずに差し伸べる手に意味などあるのだろうか。ああ、そうだ、そこなんだよ、ディミトリ。俺はお前に手を差し伸べた。確かにそうだ、そうであるはずだ。だが俺は、お前がディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドだから手を差し伸べたのだろうか。俺はエーデルガルトにも手を差し伸べたかもしれないし、クロードにだって手を差し伸べたかも知れない。今となっては確かに分からない。俺はあの時青獅子の学級を選び、お前たちを選んだのだから。でも、もし、あの時黒鷲の学級を選んでいたら。金鹿の学級を選んでいたら。俺はきっとお前の手を取らなかっただろう。それが俺は何よりも恐ろしい。お前たちを救わなかった未来があるのかと思うと背筋が凍る。何が分け隔てなく接するだ、何がどんな極悪人にも手を差し伸べるだ。俺はただ、自分が属する組織の人間しか助けないだけだ。確かにそれは人間としては当然のことなのかもしれない。誰かにとっての正義は誰かにとっての悪で、誰かにとっての悪は誰かにとっての正義だ。それと同じようなものなんだろう。善は救えても善だけは救えない、それはつまるところ全は救えないということ。なあディミトリ、俺は確かに、あの日、あの時、ソティスから神祖の力を与えられた。周りの人間も俺を女神の再臨だと宣う。しかし、しかし。俺は、俺はどうしても、自分がひどく醜い、ひどく恐ろしい化け物に見えて仕方がないんだ、ディミトリ」


未完ディミレト
2020/09/28
※嵐の王と銀雪√先生


 俺はここで死にました。と、目の前の男が言ったので、ああそうか、と俺は静かに頷いた。彼がここで死んだと言うのならばそうなのだろう。俺はぐるりと周りを見渡し、それからすぐに男に視線を戻した。男は眼帯をしていない。なるほどこの世界線の彼は眼帯をしていなかったらしかった。眼帯をしている彼と、していない彼と出会ったことはあるけど、どちらにしろどろりと死んだような目をしている。もう死んでいるから、師恩でいるような目をしているのは道理に適っているのだから、この場合、死んだような目、ではなく、地獄の底で煮詰めたヘドロのような目をと言った方がいいのだろうか。しかし俺が見るどの彼よりも、今回の彼はそのヘドロの下に真っ赤に燃えさかる苛烈の炎が見える気がする。彼は俺を見ているようで全く俺のことなんて見ていなかった。俺がどういった人物であるかも、彼は全く把握していないらしい。彼の世界に、もしや俺はいなかったのだろうか。その疑問に従って、俺が誰か分かるかいと尋ねると、彼は昆虫じみた動きで目を蠢かせた後、あの女を選んだ男だろうと呟いた。なるほど彼の世界にも俺はいたらしい。尤も、彼にとっては、「いた」、ただそれだけなのだろうけれど。あの女というのは恐らくエーデルガルトだろう。俺が選んだ学級の級長で、そうして大昔に起きた戦争を引き起こした張本人。俺が、そうか、君の世界の俺はそういった選択をしたのか、と呟いても、もう彼の目は俺を見てなどいなかった。時々顔を振ったり、髪を掻き上げたりする動作を見るに、どうやら彼には雨が降っているように感じられるらしかった。空を見る。星が瞬き、何もかもを引き裂くような三日月がぽっかりと浮かんでいた。
 俺はここで死にました。彼はもう一度呟いた。熾烈に光る碧眼が瞬く。俺は静かに、そうかと頷いた。どうやら雨の日タルティーン平原で死んだらしい彼は、ただ淡々と、俺には見えない槍を握りながら己の死について語った。俺は確かにここで死にました。そうして今も死に続けています。俺はあの女の首を狩るまで死ねないのです。自分の言葉に矛盾があることになんて気が付いていないように、彼はどこまでもまっすぐどこまでもいびつにそう語る。俺はふと、彼が彼女の首を刈り取れた未来があったのか少しだけ気になった。ここで死んだ彼に出会ったのは何も初めてではない。この彼の他にもう一人、会ったことがある。もっとも、その彼は俺と意思疎通というものが全くできなかったけれど。其れで言えば、彼はまだ正気を保っているらしかった。いや正気を保ったまま、狂っているのか。正気を失いつつ狂うより、正気を保ったまま狂う方がより難しい。俺は素直に、彼に尊敬の念を抱いた。
 見るところ、お前は俺の世界のお前とは違う選択をしたらしい。彼が俺を見ぬままそう言ったので首肯すると、でもお前は俺を選ばなかったのだろう、となじるでもなく、ただ淡々と事実を述べられる。それにまた頷くと、ならばどうやら俺とお前はとことん交わらないようにできているらしい、と彼はやはりなんの感慨も載せていない声で呟いた。俺と彼が混じる未来。そんなものが、あったのだろうか。いや、あったのだろう。だって俺が士官学校に初めて教師として就任する際、選択肢は三つあったのだ。彼を選ぶか、あの少女を選ぶか、それともあの策士を選ぶか。結果として俺は確かに少女を選んだが、しかし最後まではともにしなかった。結局俺は、誰の手も取らなかったのだ。そうして誰にも選ばれなかった。別にそれを後悔したり、悲しんだりする気は毛頭ない。俺は恐らく、もう一度やり直したとしても少女を選び、そうしてまたその手を取らない選択をしたことだろう。何故だと問われても、具体的な理由は何も述べられない。まるで公式に当てはめた数字のように、勝手に答えが出てくるような感じによく似ていた。そこに俺の意思が介入しているのかは、俺自身がよく分かっていない。ただ、それは彼も同じなのではないだろうか。きっと、俺が手を差し伸べたところで、彼がこうして数百年を彷徨う未来は免れなかったのではないだろうか。
 彼の亡霊、のようなものと出会うのは、これで三度目だった。一度目は、俺の世界の彼が死んでからすぐのこと。そうして二度目は、俺がフォドラの王を降りてこのグロンダーズの地に訪れた数十年前のこと、そうして三度目は、今夜。彼は一度目に会った彼よりも、二度目に会った彼よりも、よっぽど対話が可能な人物だった。恐らく一度目の彼と、二度目の彼と、そうして三度目の彼とでは、背負っているものが違うのであろう。よくは、知らないが。そう、よく知らないのだ。だって俺と彼は、ほとんど交流をしたことがなかった。彼だって俺を飽くまで他学級の教師としてしか見ていなかっただろうし、俺もまた彼のことを他学級の級長としてしか見ていなかった。
 彼は雫を振り払うのと同じ所作で俺を見やると、どうしてここに来た、と俺に静かに尋ねた。どうしてここに来た、数百年を彷徨う亡霊に、どうして会いに来た。

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