ディミ♀レト♀
2020/09/23
 女というのはとても不便ね。俺がうっそりと呟くと、先生はぱちくりと目を瞬かせて、どうしてだい、と心底不思議そうに囁いた。俺はその声が羨ましくて、愛おしくて、同時に少しだけ、恨めしい。この人はいっとう大切に育てられて、いっとう純粋に育って、女のきらびやかさも男の醜さも知らずにこの歳まで女として生きていたのだ。いや、でも、女のきらびやかさも、男の醜さも知らずに生きているって、果たしてそれは女として生きていると言えるのかしら? もしや先生は、母の股から滑り落ちた瞬間の赤ん坊のように洗礼されていて、同時に無垢な存在なのではないかしら? 赤ん坊というものが、俺は好きで、同時にひどく恐ろしい。だってそれは、俺が触れればすぐにくしゃりと砕かれてしまう。まるでティーカップに落としたシュガァみたいに。そうして俺はやっぱり、その赤ん坊が作られるまでの過程というものを考えて、ひどく陰鬱な気分になる。俺の力は、きっと誰よりも強いです。そこらの男と比べても、きっと俺は指一本でその男の骨を折ることが叶うでしょう。けれど、やっぱり、女というのは弱い生き物なのです。いいえ、逆に、強いのでしょうか。だって、虫や、動物の中では、雄よりも雌の方が体格がよくって、力も強くって、そうして交尾の最中、雄を食べてしまう雌というのも、いるわけですから。でもそれは人間以外の話。俺は悲しいことに人間で、そして恐らく先生も人間なので、俺達は雄に蹂躙されるしかないのです。ねえ、本当に、ねえ先生、この世の仕組みというのはいっとうくだらなくて、死んでしまいたいと思うものだな。俺は貴方以外に純潔なんて捧げたくない。貴方以外に破瓜を散らされ貴方以外の子を孕むだなんておぞましい。いっそのこと、俺もどこかの虫のように、交尾中に男を食べてやろうかしら。ああ、でも、男を食べるだなんて、ぞっとしないな。だって男なんて、固くって、筋張っていて、ちっともおいしそうじゃない。確かに俺は、味覚こそすっかり失ってしまっているが、けれど、おいしいと思う心を忘れたわけではない。きっと男の肉というのはどろりと溶けていて、そのくせ舌の上で石ころのようにのたうち回って、腐ったようなにおいがするに決まっている。そんなものを食べたいだなんて思う人間がこの世にいるだろうか。先生、先生、先生。俺はやっぱり、貴方が食べたい。とある種族の虫は交尾中に雌が雄を食すという。ならば、交尾中に雌が雌を食す種族のいきものがいても、なんらおかしくはないのであろうか。そうしたら、きっと、俺、なんでも耐えられるよ。貴方以外に触れられて、この膣に指や汚らしい欲を入れられても、きっと耐えられる。貴方以外の子を孕んだって、きっとその子を愛することができる。それに、ね、先生、何より、何より。貴方が俺以外に蹂躙される様を見なくていいというのは、これ以上ないほどに甘美な誘惑ではないでしょうか。貴方は一生、俺の胎で過ごすのです。貴方は俺以外に触れられないし、その子宮は一生男の精液を知らないまま朽ちるのです。ああ、こんな甘美なことはない。だから、ねえ、先生。べれろと、むき出しの手に舌を這わせる。
「食べてもいいか」
 ああ、こんな問い、なんの意味があるのでしょう。貴方の答えなんて分かっている。だって貴方は女神様だもの。女神様というのは、いつだって処女懐胎。男を必要とせずにたった一人で神子を産むのです。でも神子だとしても、貴方の胎を俺以外が蹂躙するのは我慢ならない。ねえ先生、ずっと純潔でいておくれ。ずっと処女でいておくれ。だあれにも汚されないまま、ずっと俺のおなかの中にいて。
 いいぞと先生は笑う。なので俺は、ぱっくりと頭から、爪の先まで、先生を食べてあげました。生物学者さん、どうか図鑑にこう追記して。人間というのは、交尾中に雌が雌を食らうこともあるのだと、そう。俺達の愚かな恋物語を、どうか、どうか。


おんなのこ(ディミ♀レト♀)
2020/08/30
※ディミとレト先生先天性女体
※モブディミ♀、モブレト♀要素あり

 何が悪かったかと問われれば何もかもが悪いとも言える気がしたし、何もかもが悪くないとでも言えるようなそんな気がした。すん、とマフラーに埋めていた鼻を啜れば、泣いているのかと顔を覗き込まれる。俺を覗き込む真っ白な頬に痛々しいガーゼが貼られているのを見て、腹の底からもう飼い慣らしたはずの獣が牙を剥く。先生はガーゼなんていらないと言った。真っ赤な血を鼻から滴らせて、頬を鬱血で真っ青にさせながら、それでも淡々と、まるでいつも一緒に帰り道で酔っているファストフード店でハンバーガーを食べているかのような、そんな声で俺に言った。それで、なんだかもう、どうしようもなくなってしまった。あんなにも自分の中の獣が口から迸り醜い姿をさらしていたというのに、先生はそれをまるで見ていなかったのようにそう言う。俺が作り出した肉片も、まるで道ばたに落ちている木の葉と何も変わらないという風に。触れた先生の肌はとても冷たいくせに、べっとりとこびりつく汚らしい白い欲望だけが生ぬるくて、俺は半狂乱になりながら先生の肌を自分の制服の裾で拭った。ディミトリ、痛いよ、と言われるまで、俺は先生の肌が血が滲むほどすりむけていることに気がつけなかった。
 着替えようって言ったのに、先生はいらないと言った。こんな格好では通報されてしまうよと言ったら、じゃあ歩いて行こうと手を握られた。あんなにも冷たかった先生の肌は、今はじんわりとあたたかい。あの日とおんなじだ、と思った。先生の手はいつだってあたたかい。伯父とは違う。先生の手を握って、あの日のことを考えた。俺が先生に助けられた日のこと。ドロドロとした、暗い闇の中でひときわ流星のように輝いて、女神のように助けてくれた先生。先生だって、ただの女子高生だったのに。柔らかな身体と、高い声しか持っていなかったのに、俺のことを王子様のように助けてくれた先生を、今度は俺が守るんだと思っていた。だって、先生はどこかぼうっとしていて、男の欲望なんて知らなくって、女の姦しい欲望なんて知らなくって、まるで咲きたての白百合のように清廉な人だったから。だから、だからずっと守っていようと思っていたのに。その白百合を散らさぬように、したかったのに。その結果がこれだなんて、本当に笑えない。雪がちらつく灰色の空の下、一粒涙を零すと、先生は振り向いて、泣かないでディミトリと俺に口づけた。先生の口からは、ほんのり血の匂いと、精液の味がした。
 つらかったろうと抱き締めた。お前の方がつらかったろうと背を撫でられた。痛かったろうと頬を撫でた。お前の方が痛かったろうと髪を梳かれた。ごめんなさいとその薄い胸に顔を押しつけた。なんでお前が謝るんだと小さく笑われた。
 先生の騎士ごっこをしていた自分が愚かしくて堪らなかった。自分は先生に助けられたのだから、今度は自分が先生を守るんだと意気込んでいた自分が馬鹿馬鹿しくて笑い出したくなった。先生の上にのしかかって、腰を振る汚いいきもの。人形みたいにぼんやりしながら揺さぶられるがままになっている先生を、下劣な笑みで舐めるように視線を這わせる汚いいきもの。それを見た瞬間、もう、何もかもがどうでもよくなった。先生は、こんな風に俺を助けなかった。ちゃんと、助けてくれたのに。神様みたいに綺麗に、助けてくれたのに。俺はそんな風には先生を助けられなかった。ぐちゃぐちゃにして、めちゃめちゃにして。結局、自分は獣なのだ。下劣な男に穢された自分だって、同じように汚くなってしまったのだ。その中で、先生だけが宝石みたいに輝いている。男にどれだけ犯されても、穢されても、神様みたいに輝いている。
 先生はずっと手を握っていてくれた。あの男たちの血でぬめる俺の手を離さなかった。汚いだとか、穢らわしいだとか、そんなこと一言も言わずに、静かに包み込んでくれていた。それに、もう、どうしようもなくなる。汚いと言って欲しかった。近づくなと言って欲しかった。死んでしまえと言って欲しかった。だって、俺は先生と同じになれない。俺は先生みたいに、綺麗に生きられない。ならば死んでしまいたい。貴方と同じになれないなら、死んでしまいたい。
「死ににゆくんじゃないよ」
 ようやく着いた、目の前に広がる空と同じ灰色の海を前に、先生は振り向いた。のろのろと、絶壁の崖の下にある海に視線を向ける。そうして、その視界の中で、先生のプリーツスカートから伸びる足に、血の混じった精液が垂れているのを見て、目の前が真っ赤になった。堪らず、その身体を掻き抱く。わんわんと、子供みたいに泣いた。初めて伯父に犯された時だってこんなに泣かなかったのに。こんなにも怖くなかったのに。こんなにも、悲しくなかったのに。
「死ににゆくんじゃないよ」
 先生はそう繰り返して、俺の背中を優しく撫でた。子供みたいに泣く俺の背を撫でて、お母さんみたいに抱き締めてくれた。
「俺達、ようやく一つになれるんだ。この海に沈んで、溶けて、一つになれるんだ。おんなじ濃度になれるんだ。それって、とても素敵なことじゃないか」
 先生、先生、先生。貴方と俺は一つになんてなれないよ。だって、先生は俺と違ってとても美しくて綺麗だもの。どれだけ男に穢されようが、破瓜を散らそうが、清廉潔白な純潔だもの。俺とは同じになれない。俺とは一つになれない。
 そう涙を零しても、先生は違うよと小さく首を振る。
「男なんかに犯された程度で、俺達は汚れないよ。俺も綺麗なままだし、ディミトリも綺麗なままだよ」
 だって、俺達、女の子だもの。
 男なんかが穢せるわけもない、綺麗ないきものだもの。
 先生が静かに俺に口づける。精液の味は、いつの間にかしなくなっていた。優しい、先生だけの味が、俺の舌を確かに満たす。
 ああ、先生、先生、先生。
「大丈夫、何も怖くないよ。だって俺達、一つになるだけだもの」
 セックスなんかじゃない、もっと高尚なやり方で、一つになるだけだもの。
 先生の舌に自分のそれを絡ませる。あたたかい、熱い、優しい、甘い、幸せだ。
 先生、先生、先生、ベレト先生。
 俺を救い出した、救ってくれた、神様みたいに綺麗な人。綺麗な女の子。

 俺の、女神さま。

「ずっと、ずっと一緒だよ。綺麗なまんま、ずっと一緒だよ」
 先生の身体が、ぐらりと後ろに傾く。お互いを抱き締めたままなので、俺も同じように倒れる。ふわり、と、俺の髪と、先生の髪が宙を浮いて、手を繋ぐように絡まり合う。
 せんせえ、と子供みたいに呟いた瞬間、俺達の身体は冷たい海の中に叩きつけられて、そうしてすぐに何も聞こえなくなった。


「まずは帝国産のおいしそうなひき肉を用意しよう」(ディミレト)
2020/08/10
※青選択レト先生がいたけど帝国√を歩むことになったディミレト
※先生が子供産んでる

 母さん。母さん。母さん。俺は母さんのお腹の中がいっとうお気に入りの場所でございました。俺という存在を包み込み、守り、育ててくだすったあの胎盤の柔らかさ、今でも目を瞑れば鮮明に思い出せます。母さん、母さん、母さん、俺は本当はあの場所から出たくなどなかったのです。ですから、俺は貴方様の子宮が蠢き俺を押し出そうとしたとき、うんと嫌だ嫌だと駄々をこねたのです。そのせいで、貴方様の子宮は、俺の故郷は二度と使い物にならなくなってしまいました。あの楽園に戻ることが叶わないと思うと大層悲しいですが、しかし俺の楽園に這入る者は誰もいないと思うとどうしようもなく嬉しくなります。母さん、母さん、母さん。俺は母さん以外を知りません。俺は貴方の腹で育ち貴方の股から生まれ貴方の腕で育った。その他のことなど知りません。世界が広いことは知っていますが、しかし俺の世界はこの狭い森の中で完結しております。母さん、母さん、母さん。誰よりも強く、美しい、俺の母上。母さん、俺は知っております、貴方様が俺が眠っている間、俺のこんじきの髪を撫でながらひっそりと涙を零していることを。俺の蒼天の眸の奥に誰か別の人間を見ていることを。そうして、俺に留守番を言いつけている間、人を殺していることを。全て全て知っております。だって俺は貴方様の子供なのですから。顔は全く似通っていなくとも、俺と貴方は血を分けた親子なのですから。俺は貴方の全てを知っている。しかし貴方は俺の全てを知らない。母さん、母さん、母さん。貴方が俺に留守を言いつけている間、貴方が俺が何をしているのか知らぬでしょう。母さん、母さん、母さん。久しぶりに帰った家で取る食事は美味ですか。脂が滴る肉は美味ですか。そうでしょう、そうでしょう、そうでしょう。母さん、母さん、母さん。俺が貴方が帰ってきていつも口にする肉をどのように調理しているのか教えてあげたい。まずは帝国産のおいしそうなひき肉を用意しよう。そうしてそれを愛情を込めて捏ねるのです。俺はいつも、それを捏ねている間、見たことのない父の顔を夢見ながら捏ねるのです。そうして微笑みながら、これを頬張る貴方を想像して恍惚となる。母さん、母さん、母さん。俺は全てを知ってします。父が今となっては滅んだ国の嵐を冠とする王であったことを。父が敗れ国が滅んだが故に俺達はこんな風に隠れて暮らしていることを。俺は全てを知ってします。でも、全てを知っている俺を貴方は知らない。だから貴方は俺が作るハンバーグをおいしそうに食べるし、おいしかったよと俺に微笑んでくださる。母さん、母さん、母さん、ねえ母さん。愛した男の、俺の父親を屠った国の肉は、さぞ美味でございましょう? でしょう、でしょう、でしょう。聞かなくとも分かります。言わなくとも分かります。だって、俺は今は亡き貴方の子宮で産まれ育った息子なのですから。ねえ母さん、ねえ母さん、ねえ母さん。もっと殺そう。もっと肉を用意しよう。もっと食べよう。そうすればきっと、俺達は永遠に幸せになれるのです。ねえ母さん。


赤子(ディミレト)
2020/07/27
 あんなことがあったというのに、皆に俺は優しかった。誰も俺を責めず、俺に怒鳴らなかった。あのフェリクスですら、痛ましげに眉をひそめるほどだったのだ。何も知らない国民は、当たり前のように俺を救世主だなんて言ってみせる。俺はそれに、取り繕うことがうまくなった笑みで応えてやるのだ。そうだよ、俺が国を救った王様なのだよ、と。
 村が焼けても人が死んでも時は平等に流れるし日は昇り沈み毎日が過ぎる。戦争で疲憊した国を立て直すことは尋常ではなく難しかったが、皆の協力もあって概ね順調に進んでいた。いや、概ねなんてものではない。むしろ何もかもがうまくいきすぎているくらいだった。少し怖いなと俺が零すと、ドゥドゥーは陛下のお力故ですとかしこまった。本当にそうだろうか。何か裏がある気がして、俺はしばらくまた眠れない日々を過ごしていた。そんな俺を傍で支えてくれたのは、国が落ち着いてから結婚した妻だった。お互いほとんど初対面みたいな感じで執り行われた、政治色の強い結婚ではあったが、俺は彼女と結婚したことを後悔はしていなかった。彼女はとても思慮深く、優しい人で、少しだけ彼に似ているところがあった。そのことに、少しだけ救われていたのかも知れない。
 彼女が懐妊したのは、俺との婚儀を済ませて半年後のことだった。彼女は王家の跡継ぎを孕めたという安心感よりも、自分の子供に会えることを心から喜んでいるようだった。男の子かしら、女の子かしら。そう言って微笑む彼女に、多分俺は救われていた。あんなにも数多の命を奪ってきて、救いたかった人のことも救えなかった俺でも、新たな命を育めるのかと思うと、うっかり泣きそうでもあった。涙ぐむ俺に、まだ産まれておりませんのにと彼女は苦笑した。母体にも胎児にも特に問題も起こらず、彼女の出産は何事もなく無事に終わった。勿論、子供一人を産むのだ、何事もないだとか、無事だとかは全くないのだろうけれど、どちらかの命が落とされることは決してなかった。出産に関して、どうしてこう男というものは無力なのだろう。くるくるとよく働く産婆達の横で、俺は右往左往していた。どんなことだって静かに耐え忍んでいた妻である彼女が、今までに見たこともない苦痛の表情と悲鳴を上げていたものだから何かをしてやりたかったのだが、邪魔になるとフェリクスに外に引っ張られた。男でもいい。女でもいい。紋章だって、あってもなくても構わない。どうか無事に産まれてくれと祈った。
 そうして、随分経ってから上がった産声に、俺は弾けるように立ち上がった。彼女がいる扉を開け放ち、彼女に駆け寄る。彼女はとても疲れた顔をしていたけれど、やわく俺に微笑んで大丈夫ですよと俺の手を握った。男の子ですって、今は産湯に浸かっておりますけれど、すぐにお会いになれますわ。俺はただただ、彼女の手を握ってありがとうありがとうと涙を零した。無事産んでくれてありがとう、死ななくてくれてありがとう、獣だった俺を父にしてくれてありがとう。子供のように泣く俺に、そんなことでは子供に笑われてしまいますわと彼女は苦笑した。けれど、彼女も同じように涙目だったから、同じようなものだろう。
 そうやって二人で泣き合っていると、不意に産婆に呼ばれた。振り向くと、どこか固い表情をした産婆がおくるみを抱えて立っている。その様子に、まさか何かあったのかと立ち上がる。
 髪が、と。
 産婆が呟くのと同時に、俺は弾けるようにそのおくるみを奪い取っていた。そうして、そのおくるみの中にいる、産まれたばかりの赤子に、産まれたばかりの息子に、目を見開く。
 金髪の父と母から産まれたのに、息子の髪は金髪ではなかった。両親と違う髪の色。それは別に差して気にする問題ではない。どちらかの血の筋のものに、金髪以外のものがあって、それがたまたま息子に出ただけの話だと思えばよい。
 ただ、その髪の色。
 忘れられるはずもない、橄欖石色の髪。神を思わせる、白濁とした緑。あの戦争の後、国を再度戦火に包ませた元凶である、女神と同じ色の髪。
 呆然とする俺の腕の中にいる赤子が、ぱちりと目を開けた。澄んだ緑色の目。彼と同じ色の目が、俺を見上げて、そうして、産まれたばかりの子供だというのに、はっきりと口を開いた。
「今度こそ愛してくれるよな、ディミトリ」
 あの日俺に結婚を申し込んだ、あの日俺に思いを断られた、あの日思いを受け取らない俺に憎悪を向けた、あの日国を戦火に突き落とした、あの日確かに殺したはずの彼は、先生は、そう言って赤子の姿で、にっこりと笑った。


「後悔したくないから」(ディミレト)
2020/07/27
 どうして、と尋ねると、彼はひどく驚いた顔をした。それは勿論俺がこの場にいることに対してのものでも、自分の犯行現場を目撃されたからでもなく、ただ単純にどうして自分を褒める言葉を俺がかけてくれないかについてのものだった。その様に、得体の知れない何かを感じて、俺はぞくりと背筋を凍らせる。俺は静かに、扉を開け放ってから止まっていた足を動かして部屋の中へと一歩踏み出した。そのまま一歩、一歩と進んでいくうちに、足の裏が嫌な感触を俺に教え伝える。何であるか、は、考えなくてもよいことだろう。この部屋の惨状を見れば子供でも分かることだし、何より深く考えた時、俺は自分が吐かずにいる自信がなかった。彼は近づいてくる俺に怯えることも、警戒することもなく、ただ首を傾げたままじっと俺を見詰めている。暗い部屋で青白く輝いている顔には、まるで人間味がない。まるでよくできたマネキンを前にしているかのようだ。それでも確かに、彼は生きている。肌のあたたかみだってあるし、呼吸で胸は上下するし、その目はじっと俺を見詰める。俺は、それを知っている。過去の彼は知らないけれど、俺と出会ってからの彼は知っている。だから、こうなったことに対しても、俺は実のところそこまでの驚きを得られなかった。少し考えれば、俺が実の親からどのような扱いを受けているかを彼が知ればどうなるかだなんて、分かるはずなのだ。なのに俺は考えなかった。いや、もしかしたら考えて、分かった上で、彼に自分の身の上を話したのかも知れなかった。この状況を打破する存在として、彼に話したのかも。もう、自分でもよく分からないことだけれど。
 もう手を伸ばせばすぐに彼に触れられるところになって、改めて部屋を見渡す。飛び散る血、肉片、床に転がる俺の親だったもの。じっと見ていたら気分が悪くなりそうで、俺は慌ててそれから目をそらし先生に向き合った。先生は相変わらず俺を見詰めている。あの緑色の眸で見詰めている。
 正直、俺は彼と自分の関係を形容する語彙を持たなかった。俺と彼は、出会ってから一ヶ月しか経っていないのだ。その出会い方だってまともじゃない。彼が突然俺の目の前に神様みたいに現れて、神様みたいなことを言って。そうして少ない時間をともにして来た。彼は頑なに俺をディミトリと呼んだ。俺ではない名前で呼んだ。ディミトリとは誰だと問うと、かつての自分の教え子だと彼は言った。自分と大して年が変わらないように見える彼に教え子という存在がいることには違和感を抱いたが、そんなことを指摘しだしては彼と話してはいられないのでまあそういうものだろうとあまり気にとめなかった。けれど、多くはない彼の言葉の中で、そのディミトリという教え子のことはなんとなく知っていた。ディミトリについて知っていた、というより、彼のディミトリに対する思い、みたいなものを、俺は知っていた。きっと彼だって自覚していない思いを、俺は知っていた。それは俺がディミトリに似ているからかもしれないし、もしかしたら俺ではなくとも誰にでも分かることなのかもしれない。後者だとしたら、その思いを自覚させずに放置した周りの人間は残酷だと俺は思った。確かにそれを自覚させなかったのは優しさ故のものなのかもしれない。でも、結果として彼はこうなってしまったのだから、やっぱり残酷なのだ。人の善意は時に悪意となる。今時子供だって知っている、世の不条理の一つだった。
 今回だってそうだ。彼は善意で行ったのだろう。いや、善意、ではないのか。きっと彼は、もうあんな思いをしたくないからこうしただけなのだ。ずっと昔に助けられなかった、「ディミトリ」を今度こそ助けようとしただけだ。俺は大きく息を吸って、もう一度、床に転がる自分の親だったものを見詰めた。俺を殴っていた腕はひしゃげて子供が壊した人形のようになっていたし、俺を蹴っていた足は肌から骨が飛び出て白く浮かび上がっていたし、俺を罵倒していた口は目と鼻と一緒くたにされて悪趣味なゼリーのようになっている。それらを静かに見据えて、俺は再度彼に視線を戻した。白緑色の神性ををまとった髪、緑色の純粋な目。子供のようにあどけない顔で俺を見上げる彼に、突如として俺は何故だかひどく笑い出してしまいたい気分になった。涙が出るほど笑って、目の前の誰も救えなかった救世主を抱きすくめたくなった。
「なあ、先生はどうして、俺の親を殺してくれたんだ」
 彼、先生はぱちり、と目を瞬かせた。そうして俺の青痣が広がる頬を優しく撫で、聖書でも音読するようにそっと口を開く。
「後悔したくないから」
 俺は堪らなくなって、先生の身体を抱き締めた。誰か言ってあげればよかったのに。かつて貴方が助けられなかったディミトリという男は、もうどこにもいないんだって。ディミトリとよく似た男を助けても、ディミトリを助けられなかった後悔をなかったことにはできないんだって。教えてあげればよかったのに。誰も教えてあげなかったから、この子供みたいに純粋な神様は、見てくれだけしか同じではない偽物のディミトリに囚われてしまった。
 貴方が俺をディミトリとしてしか見ていないことは分かっている。貴方が助けたのは「ディミトリ」であって「俺」ではないことは分かっている。それでも俺はそれを許そう。貴方の後悔をなかったことにするために使われただけであることを受け入れよう。
 安心して、貴方はようやく誰かに選ばれることが叶ったのだよ。
 口の中だけでそう言って、俺は静かに先生にキスをした。

  

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