ウォルウールを出発する船の中の空気は最悪だった。
なぜかというと、帝都が存亡の危機に瀕しているという緊張した状況なのに、バカなことばかりをして全く緊張した様子を感じさせないウェンとアースを見る使者の冷ややかな視線のせいだ。
その使者の視線のせいで船内の他の団員も重苦しい沈黙を保っているのに対して、アースは使者の機嫌をとろうとしている。
戦線から帰ったら一杯飲もうぜ、とか、いい店を知ってるから今度紹介する、とか。
戦線から帰ったら〜しようぜ、とか、結婚するんだ、とかは間違っても言ってはいけない典型的な言葉なのにアースはやたら使者に絡みまくり、フラグを連発している。
正直使者はかなりめんどくさそうな顔をして、時折ウェンに助けを求めるように視線を投げかけてくる。
雨に濡れた子犬とは程遠いうるうるした目で見られても何とも思わないのでもちろんウェンは無視を決め込む。
しかしそろそろ本気で使者がきれそうなので助け船を出すことにした。
「アースいい加減にしろよ。みんな今のうちに休みたいんだからあんまりかまってやるなよ」
使者はよくやった、と親指をたててながらアイコンタクトを送ってきた。
ウェンもアイコンタクトで、これでおあいこだと伝えると、アースを連れて……というより引きずって甲板に出た。
東の空から濃紺の空が迫ってくる。もうじき完全に日が落ちるだろう。
穏やかな水面をぼーっと眺めていると、水平線に微かだが小さくウォルウールの姿を見ることができた。
「よく見とけよ」
アースは手すりに肘をついて笑いながらウェンに言った。
どうしてか理由を聞くと、アースは簡単なことだと鼻で笑って答えてくれた。
「それが故郷の見納めになるかもよ」
「縁起悪いこというなよな」
ウェンはアースに笑いながら返した。
故郷を拝むのが最期には絶対にならない。そう気持ちだけでも強く持っていないと本当に最期の故郷の姿になってしまいそうで怖いから。
せっかく帰ったのだから母親の顔を見てくればよかったなと後悔した。
けれど見ないでよかったかもしれないと思った。
父親が戦死した場所に行くなんて言ったら絶対に泣いてしまうだろう。
母の泣き顔を見るよりは、無事に戦線から戻ってきて、父と同じ場所で戦ってきたと言って怒られながらげんこつ食らうほうが何倍も気分がいい。
隣のアースが静かだ。さっきまでうるさくて使者に迷惑をかけていたのにいったいどうかしたのか様子を伺ってみると、顔色が真っ青だった。
九龍の右腕として数々の実績を上げてきたアースでもこれから向かう戦場は恐ろしい場所なのだろう。
「……黙ってたけど。実は俺、もう限界なんだ」
青い顔でアースは絞り出すような声でつぶやいた。
帝都の命運がアースの手にかかっているといっても過言ではないのだ、重圧に押しつぶされて不安になる気持ちは理解できる。けれど弱気になっていてもしょうがない。
あまりに頼りない弱弱しいアースの姿が頭にきて、ウェンはアースの胸倉を勢いよくつかんだ。
「おいアース、あんた仮にも指揮官になるんだろ、あんたがそんな顔してたら部下まで不安になるだろうが!!」
ウェンがそう力の限り怒鳴った瞬間、アースは青い顔を上げてゆっくりと首を横に振った。
それは老人のように弱弱しい動作だった。
思わず掴んでいた胸倉から手を放すと、アースは目を見開きおぼつかない足取りでウェンから距離をとって、口を手で押えながら海を覗き込んだ。
その瞬間嫌な予感が脳裏をよぎった。
背筋に電流が流れ、とどっと冷たい汗が吹き出した。背中がべたべたして気持ち悪い。しまった、やってしまった。こうなった以上もう手遅れだ。
今更ながらウェンは自分の浅はかな行動をひどく後悔した。
「……まさか船酔い?」
重苦しい空気を吐き出すようにウェンは一言言葉を漏らした。
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