憑依學園剣風帖37

今、美里の目の前で槙乃が《鬼道》を無効にして、深きものから人に戻すことが出来る呪文を唱えている。初めこそキリスト教の美里に遠慮してか、槙乃はあんまり見ても気持ちいいものじゃないと見せたがらなかった。だが、黒魔術に傾倒しているミサをみても、美里は邪教徒だと蔑んだりはしない。ここは信仰の自由がみとめられた現代日本だ。自分の先祖のように禁教時代の苦悩を祖父から聞かされていた美里は、気にしないでといった。むしろ興味津々だった。

じつのところ、どのみち利用客に見られないで武器を装備したまま隠れている場所がボイラー室しかなかったので同じだ。槙乃は目の前で今まで誰にも見せてこなかった《アマツミカボシ》の狂信者たる所以をみせてくれた。槙乃本人は仕方なくなっているから直視できたともいえる。

「ねえ、槙乃ちゃん。槙乃ちゃんは、《アマツミカボシ》の信じていた神様を信じているわけではないのでしょう?なら、どうして槙乃ちゃんに《力》を貸してくれるんだと思う?」

それは美里の純粋な疑問だった。美里は《力》が自分の信仰によるものだと信じているからだ。槙乃はしばし考えた後、口を開いた。

「たぶん、何とも思ってないと思います。路傍の石、取るに足らない存在。私たちがミトコンドリアを気にしないように、かの神にとっても私はそうでしょう。だから《力》を貸してくれている訳では無いです。今回のように敵対勢力と戦う機会が多いから、たまたまでしょうね」

「守ってくれている訳では無いの?《アマツミカボシ》が信者だったから」

「《アマツミカボシ》が守ってくれているのだと思います。かの神は強大すぎて私が《力》を借りるとなると自我が吹き飛んでしまい、体が耐えきれずに崩壊しますから。やっぱり邪神ですからね」

「そうなの......」

「《アマツミカボシ》の時代はその神にすがるしかなかったわけですから、なんというか、ですね」

槙乃はいうのだ。《アマツミカボシ》の《力》をつかうたびに、風がふくたびに誰かから呼ばれているような気がすると。逆らえないような強い力だ。春の風は大好きなのにそれがちょっと怖いと。

「そもそもこの呪文だってキリスト教の祈りとは根本的にちがいますし」

槙乃曰く。自分の脳をプッツンさせてテンションを異常な領域に固定するために良さそうな言葉をリズムよく口にしているだけ。お行儀よくそれっぽい事をおごそかに詠唱しているのは最初だけで、しまいには邪神の意識とシンクロして、意味不明な事をわめきちらすのはそのため。教科書を読みながら、一語一句間違えずに正しい発音で、なんてのは《アマツミカボシ》の信じる神には通用しない。そもそも人間が発音することが不可能な神の名前だから。

槙乃がやっている退散の呪文は本来、招来した人間が「ではそろそろ神様にはお帰りをお願いするという事で、なにとぞひとつ」的なアレであって、正義の味方が邪神を追い払うような呪文ではない。土下座して頭を床にガンガン叩きつけながら、みっともなく慈悲を乞うのが本来の退散呪文。神の前から全力で許してくれと見苦しく叫ぶのが退散呪文。成功すれば神は招来した魔術師に関心を失う。

「実際、逃げながら唱えてるでしょう?私」

それは美里にとって言葉を失うほどショッキングな内容だった。神様を信じているという事は少なからず助けてくれるという前提があるからかもしれない。だが、槙乃は助けてくれない神様を信じているという。それはまるで無条件に信じている両親からネグレクトされ始めた絶望に似ている。美里がもし神様にそんな態度をとられたらきっとまともではいられないはずだ。なんてつよいんだろう、と美里は思った。

「葵ちゃんにはあんまりいい話じゃないですよね、ごめんなさい」

「ううん、ちがうの。驚いただけ」

だからこそ《鬼道》を無効にできるんだろうな、と美里は思っていたのだ。この瞬間までは。



ごごごごご、と芝プール全体がゆれはじめた。みんな驚いてプールに上がろうとする。人並みに逆らいながら私たちはプールに向かった。プール中央で水柱がいくつも吹きあがっている。いつもは蓋がしてあるはずの排水溝が水圧に耐えきれず吹き飛ばされ、鍵ごと鉄の蓋が空から落ちてくる。

「あれは......」

「どうやら《門》を開いたようですね」

水のベールの向こう側には洞窟がみえた。下半身が触手をより集めたようなグロテスクな形態に変化している女がいた。触手は虹色のウロコなような組織でできていて遠目には美しい人魚の姿に見える。なにやら一心に歌っている。

あの女が若き詩人がいってた女神だろうか。

ルルイエへの門を開く能力を持っているようだ。深きものたちはどうやら元人間らしいがあの女にあう度に徐々にクトゥルフとの親和性が高まり、深きものに加速度的に近づいてしまうらしい。女の周りでは人や動物を誘拐して食らったりしている深きものになりかけの女たちがいた。

生臭く、あちこちに粘液が滴っている。中央には魔法陣のようなものが描かれ、その周囲には数本の燭台が立てられている。祭壇がある。

あちこちから人影が飛び出してきた。それらはぬめる皮膚を光らせながら、私たちのところににじり寄ってくる。全身がテラテラとひかり、まるで魚のようなウロコで覆われていた。鋭い鉤爪がギラリと威嚇するように輝く。口元からは生臭い息を絶えず吐き出していた。

不自然な沈黙のなか、水音が途切れる。水柱が途切れ、蜃気楼の向こう側と空間が繋がってしまった。

ぴちょん、と天井の岩から落ちる水が海面に波紋を作る音すら聞こえてくる。深きものたちが辛うじて残っている陸の部分を伝って芝プールに次々と現れ、洞窟の奥へ女たちを誘拐しようとしてくる。

夕焼けにキラキラと、女が虹色に反射する。下半身はまるで複数の触手を撚り合わせたかのようだった。蛸のような触手、それらが絡み合い1つの魚の尾のような形状を作り出している。その触手は虹色のウロコをまとっていて、それは腕や首の方にまで広がっているようだった。

あれが水角?本来なら仕掛けてくるはずの新手の《鬼道衆》は、鬼の面すらつけず、熱帯魚になりかけの双眸をこちらに向けてくる。身の毛のよだつような美しさだった。

「......」

「槙乃」

緋勇に聞かれた私は首を振った。

「ダメです、みなさん深きものの《氣》に体が融合してしまっている」

「そんなッ......それじゃあ......」

「私は《鬼道》に体が馴染む前なら正常化できます。予防もできます。でもそれ以上は......」

女はおぞましい神の姿が記されている彫刻を抱いている。まるでタコに似た頭部、巨大な人間のような身体の先には鋭い鉤爪を備えている。背中からはコウモリのような羽を生やし、ゼラチン質の触手の隙間から鋭い眼光が覗いている。

「槙乃ができないならどうしたら......」

「倒すしかねぇのか、くそッ!」

槙乃すらできないなら、もはや深きものに変えられてしまった人達は殺すしかないのだろうか。美里は無意識に手を握りしめていた。

芝プールは槙乃の《力》により《アマツミカボシ》の《氣》に満たされている。美里たちが深きものに変えられてしまうことはないが、致死的な状況の彼らはどうすることもできない。

なにか、なにかまだ手はないのか。なにか美里にも出来ることはなにか。美里は懸命に考えた。

その時だ。美里の両手からほのかに青い光が漏れ出した。その光は徐々に、徐々に広がっていく。身体は青い光へと変わっていく。やがて光は波紋を描くように広がっていった。

体から溢れる光がプールを照らした。ぽつり、ぽつりと光の粒が水界面を叩く。まるで雨のように美しい光はいつまでも消えずに光り輝いていく。

「美里」

「えっ、えっ、これは......わたし、いったい......」

深きものたちが苦しみ始めた。どろどろに皮膚がとけていき、人間の姿形を取り戻していく。槙乃すら諦めた深きものの《鬼道》を美里は解呪してしまったのだとみんな気づいた。残ったのは種族としての深きものたちだけだ。

「なんかよくわかんねぇが、あいつらだけ倒せばいいんだな!よっしゃ、腕がなるぜ!」

「あとは俺たちに任せてくれ」

「すごいよ、葵ッ!あとはボクたちに任せて!」

「葵ちゃん、すごいです。ほんとに、ほんとに、すごいですッ!!」

本気でもうダメだと思っていたらしい槙乃に抱きつかれてしまう。それは時間がたっても色褪せることなく美しく輝いていた。

「よくやった、美里。倒れている人達を頼む」

「───────は、はいッ!!」

美里は紗夜たちと手分けして倒れている人たちの介抱に向かった。


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