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いつだったか、兄からアルタ前で時諏佐槙乃に声をかけたと聞いたときは驚いたものだ。兄は高校教師である。恩師の養女とはいえ、女子高生にナンパ同然に強引に声をかけたというのだから、下手をしたら事案である。槙乃が恩師にどうつたえたのか、今は家族ぐるみで付き合っているから事なきをえたとはいえだ。
「槙乃さんはね、長いあいだずっと変わることなく僕の意識の中心にいたんだ。僕という存在にとってのひとつの大事なおもしの役割を果たしていたといっても過言ではない」
10代の頃から赤ん坊の紗夜の両親のかわりに生きていく決意をした兄からそんなことを言われて、紗夜が浮き足立つのは自然な流れだった。
「この思いは、苦痛に満ちた今までの人生を生き延びていくための、基本的な情景のひとつとなった。その情景は常に槙乃さんの存在が伴っていた。苦しみあえぎながら大人になっていく僕を、常に変わることなく勇気づけてくれた。大丈夫、あなたには私がいる、と告げていた。紗夜がいなくなったら世界が終わるが、槙乃さんがいなくなったら、そうだな......僕は2度目の死を迎えることになるんだ。精神的な、という意味になるんだけど」
ここまで言わしめるだけの理由があることを紗夜は把握していた。時諏佐槙乃は1歳しかかわらないのに、とても大人びた少女だった。時諏佐家に養女としてやってきてから、厳しい後継者になるための指導を受けながら生きてきた、ずっと兄に守られながら生きてきた自覚のある紗夜とは真逆の人間だ。
親戚に優しいお姉さんがいたらこんな感じだろうかと想像したくなるくらいには居心地がいいのだ。兄が似たような感情を抱いているのはすぐにわかった。女の子の連絡先を聞くなんていつもの兄ならば絶対にしないからだ。
「だからこそ、今の僕にはこれほど危険なことはない。この息苦しい世界で、胸の中に巣食った感情が、化け物になって孵化しそうになる。槙乃さんは僕とはまったく違う世界で暮らしているんだと思い知らされるんだ。どんどん不自然になっていく僕を嘲笑うかのように、世界はまわりつづけているんだ。妄想と現実を絡み合わせて、胸に巣食った感情を処理できずに、体の中に化け物を育てていくのに、槙乃さんは笑っている」
「兄さん、それを人は恋というんじゃないかしら」
「僕が?槙乃さんに?」
「うん」
「ははは......紗夜も面白い冗談をいうようになったな」
紗夜はおそらく生まれて初めて特定の女の子が気になってしまいぐるぐるしている兄を後押しすべく懸命だった。槙乃の退院日とお祝いの食事会を話したのはそのためだ。
「よかった......よかった、無事だったんだな、安心したよ」
「ありがとうございます」
槙乃はいつものように笑っていた。
槙乃と会った途端にその変化が兄のなかであまりにもはっきりしていたから、紗夜は顔が綻んだ。
教師と女子高生という立場が2人を隔てているのなら、妹の友達と妹の兄、いや保護者という形で紗夜があいだに入ることで変えてしまえばいい。
兄は教師の仕事があるから時間を合わせるとなると、どうしても遅くになる。夜のカラオケやゲームセンターや映画やレストランなんかは未成年は補導になるので保護者同伴が大前提になる。大義名分には充分だった。
「紗夜ちゃんは、好きな人っていないんですか?」
兄がドリンクバーを取りに行ってくれているあいだ、槙乃がそんなことを聞いてきた。
「えへへ......実はいるんです......気になる人が」
だからこそ、兄の変化に気づけたともいえる。突如頭がクリアになっていた。ずーっと目の前を覆っていた霧が晴れたような感じだった。なにが起こったのかわからなかったけれど、ああ、兄は今世の中がこんなふうに見えているのだろうかと思ったほどだ。
今の紗夜は人生のすべての味をかみしめるような気持ちでいつもいた。病院の受け付け越しでしか会えなかったから、一方的な片思いだ。さよならしたあとの夕暮れの切なさはありありと思い出せる。2人でいられる短い時間の病院の匂い、歩く速度すら速すぎて、流れていくようだった自動ドア。
すべてを細胞に刻み込む勢い、何もかもに勝てる意味もない確信。勝つために、忘れてしまわないために時の一粒一粒を慈しみ、情報として体に取り込もうとする頭の働き。
恋によってあふれたエネルギーに見開かれた眼には、世界はそのままに美しかった。何もかもがよく見えて、はっきりしていた。一つ一つのものが、香り立つようにその存在の輪郭を際立たせた。
わくわくした気持ちが湧いてくるのが感じられた。目を閉じると目の前にマーブルのように渦巻くエネルギーの流れが見えた。ほんとうに今、何が起こったんだろう?と思ったものだ。兄を見てわかった。なるほど、兄が怖くなるのもわかる気がすると。そう思ったのだ。
「あの、槙乃さん。緋勇龍麻君て、どんな人ですか?」
槙乃は紗夜の片思いの相手が誰かわかっていたようで、色々と教えてくれた。その情報のひとつひとつを握りしめながら紗夜はイメージを固めていく。
「あの......お願いがあるんです。このことは、兄さんに内緒にしてくださいね。桜ヶ丘病院に出入りするってことは、あぶないことに首を突っ込んでいる子達だろうからかかわるなって言われてて」
兄の気持ちもわかるのだ。紗夜の《力》についていち早く気づいて、世間に向けてはかくしながら普通の生活を送るよう言われてきたから。保護者の視点でいえばそう考えるのも無理はない。それでも、もう遅いともいえるのだが。
「わかりました。約束は守りますよ」
「ありがとうございます。あ、そうだ。槙乃さんはいないんですか?好きな人。かっこいい人、周りに多いみたいだけど」
虚をつかれたように目を瞬かせた槙乃に紗夜は誰もいないんだなと確信した。そんなこと聞かれるとは思いもしないような顔をしている。
「私、オカルトの方が好きなんですよね」
趣味に没頭したいタイプなのは知っていたから予想の範疇だった。時諏佐家の跡取りとしてのプレッシャーや多忙な日々を思えば、少しでも自分の時間を大切にしたいというのはわかる。それだけじゃ収穫はないから紗夜はつつくのだ。
「じゃあ、どんな人がタイプ?」
「え?ええと......そうですね、ギャップがある人ですかね」
「ギャップ?」
「普段と打ち解けた後でギャップがある人だといいなあって思うかもしれない」
「怖い人が捨て猫保護してる、みたいな?」
「そうそう、そんな感じです。まあ......人を好きになるってそんな理性でどうこうなる話じゃないので、タイプを聞かれても難しいんですけど」
「槙乃さんのすきの傾向がそんな感じ、とか」
「そうですね」
「大人だ......」
「え?」
戸惑いがちにききかえす槙乃に紗夜は笑ったのだった。
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