龍脈5
まだ薄暗いというのに目が冴えてしまった如月は窓を開けた。放射冷却でもあったのか、一気に冷気が流れ込んでくる。今日はきっと冬晴れだ。
その辺じゅうが凍って、柱の裂ける音が聞こえたり、床の上も土間も歩くとバリバリと鳴り、寒さが皮膚を刺すように感じられて、その辺のものすべてがピンピン響きあうばかりに冴えわたって来る。
冬の夜が霧のような霜を挟んでからりと明け渡ったようだ。明けたばかりの空が、朝の冷気とともに新鮮に輝いている。快晴の風の強い朝だった。人々は白い息を口から吐き、それを風が散らしていた。
ずいぶんと早く起きてしまった。布団を押し入れにしまい、身支度を整えて廊下に出る。隣の客間から音はしない。まだ寝ているのかもしれない。足音を忍ばせながら如月は階段を降りた。
明かりがついている。どうやら愛もあまり眠れなかったようで、如月より先に起きていたようだ。すでに身支度をすませ、脱衣場の前で誰かに電話していた。残念なような、ほっとしたような気分だった。
「待ってください、待ってくださいよ、紗夜ちゃん。あの、早まらないでください。なにもないです、なにもないですから。ねえ、お願いですから話を聞いてくださッ......あああ......切られちゃった......」
時須佐槙絵から持っているようにと言われたらしい携帯電話を前に愛はあたふたしている。メールを知らせるデフォルト設定のままの着信音にうんざりという顔をしながら確認し始めた。
「......ああもう、アン子ちゃんまで......。情報早いですよ、もう......。ひーちゃん、一斉送信したなァ......ッ!」
ぐったりしている愛に如月は話しかけた。
「おはよう、愛。早いね。どうしたんだい?」
「あ、おはようございます、翡翠。あ、うるさかったですか?ごめんなさい」
「いや?気づかなかったよ」
「そうですか、よかった」
「僕の方が早く起きたのかと思ったよ」
「あ〜......その〜......あんまり寝れなくてですね......あはは。ところで翡翠。ひーちゃんになにか連絡しました?」
「ああ、したよ?」
「やっぱり〜ッ!うすうすそーじゃないかと思ってたのッ!なにさらっといってるのよ、翡翠ッ!?昨日はお楽しみでしたねメールが殺到してるんですけどッ!!なにいったの!?紗夜ちゃんにまでお泊まりお断りされちゃったんですけどッ!あたし、まだなにも......」
「昨日、いったはずだよ。僕は待たないし、君にはこの世界にいてもらいたいから、そのためならなんでもするって」
「外堀埋めるって意味だったの......?」
「僕が行動に起こしたから、みんな便乗してるだけで考えてることは同じだっただけさ。みんな、君に遠慮してたんだ。この戦いが終わったらさようなら、なんて嫌に決まってるだろ。いいよっていってくれるのは、次元を超えても君に接触できる人だけだ」
「知りたくなかったァ......」
「それはよくないことだな。知っておくべきだね。遅かれ早かれ、似たような流れにはなったんじゃないか?」
「マジか......マジですか......何度もいったじゃないですか。私がこの世界にいるのは《天御子》がこの世界にいるからですって」
「《如来眼》の継承者がいないから召喚に応じたんだろ?君がいなくなったら継承者が途絶えるじゃないか。なにも問題は解決してないよ」
「們天丸さんと同じこというし......」
「君がその問題を放置したまま元の世界に帰還するのはどうなんだって話だよ。君の良心は許すのか?」
「そ、それはァ......柳生を倒せば《宿星》に縛られる必要はないのでは?」
「目先の目的でいえばそうだね。でも《宿星》の戦いは柳生だけじゃないことは君が1番よく知ってるんじゃないか?」
「それは......そうだけど......あたし、そこまで責任もてないわよ......あっちの世界で待ってる人だっているのに......」
「次元に干渉できる君なら今すぐ帰る必要はないんじゃないか?10年もこちらにいるんだから」
「うううッ......」
「図星のようだね」
愛は頭をかかえている。
「いってる間に翡翠の家にお泊まりする流れになってるし......」
最後の着信をみて、愛は観念したのか肩を落とした。
「おばあちゃんまでえ......ッ!不純異性交遊はやめなさいねってそういう問題じゃないのに......。あたしまだ応えられないっていってるのにッ!」
「ほんとに迂闊というか、なんというか、そういうところが抜けてるな、愛は。雛川神社から僕の家に降ろしてもらったところをみんながワゴン車から見てたんだ。この流れになるのは目に見えてたんじゃないのか?嫌なら来なければよかったんだよ」
「陰陽寮についていった場合のいらぬ軋轢考えたら、消去法で降りるしかなかったのよッ!翡翠があのタイミングでいうもんだから、問い詰められて家に帰る選択肢潰されちゃったんだもん......!逃げたら逃げたでおばあちゃんが行方不明になったって大騒ぎしたら大変なことになりそうだったし、あの時は翡翠と話をしなきゃって頭でいっぱいだったしッ!」
「あいかわらず突拍子もない自体には弱いな、君は」
「誰のせいよ、誰の......」
「僕のせいだね」
「ああもう......」
「謝るつもりは無いからね」
「......わかってるわよ、それくらい」
「愛がタメ口なのはホントに久しぶりだな」
「敬語も忘れたくなるわよ、こんなんされたらさァッ!」
「仕方ないだろう?今の君に必要なのは楔だ。なんであれね」
「楔て」
如月は笑うのだ。
愛のために何かしてやりたい。そう如月が思うのは今までとなんら変わらない。どうして人は人に対してそう思うのだろう、と如月はふと思うのだ。自分の願いと愛の願いは同時には成立しえないから、何もしてやれないことを思い知ってもなお。
愛はそういう人間なのかもしれないし、好きだからしてやりたいのかもしれない。海が海であるだけで、よせてはかえし、時には荒れ、ただそこに息づいているだけで人にさまざまな感情を喚起させるみたいに、如月にとっては愛はそういう存在になっていた。がっかりさせたり、恐れさせたり、慰めたり、でも、もっと何かしたい。そう思うことを止めることができない。
しばらく会わないだけで何か大事なものが足らない気がして、胸が軽く疼くあたりもはや重症である。いや、今まで重症だったのに見て見ぬふりをしていただけなのかもしれない。だから余計に自覚した分歯止めが効かない。
愛が呆れたように、困ったように笑っている。そのかげりのない瞳で如月をみている。どうしてもそれを自分のものにしたかったのだ、と今ならわかる。
愛を見ているだけで、胸は重く厳しく締めつけられている。ふたつの壁のあいだに挟まれて身動きがとれなくなった人のように、そのまま進むことも退くこともできない。肺の動きが不規則でぎこちなくなり、生ぬるい突風の中に置かれたみたいにひどく息苦しくなった。これまでに味わったことのない奇妙な気持ちだった。でも悪い気はしない。
「だってそうだろう?過ぎて、振り返って、ああ懐かしいねなんて思い出の一コマになる程度じゃ、君は帰ってしまうじゃないか。いつまでも君がいない朝に怯えるのはごめんだからね、やるべきことはやっておこうと思っただけだよ。いつも君がやっているようにね」
「だからって不意打ちにも程があると思う......」
「不意打ちじゃないと意味がないだろ。君は不測の事態に弱いんだから」
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