世界のあらゆる輪郭がぼんやりとした薄暗い空間で私は目を覚ました。なにもかもが曖昧になっている。何度もあぶり出しのように浮かんでくる複数の影、白衣のような色合いから初めは病院にでも担ぎ込まれてCTスキャンでもかけられたのかと思ったが、どうもちがう。体がいうことを聞かないのだ。足の指から頭のてっぺんまでなにひとつ動かせず、意識だけがそこにある。
もどかしさが、奇妙な襟巻のように喉に絡み付く。私の意志とは無関係に唾を飲み込む音だけがやけに大きく響いた。
夢?明晰夢ってやつ?それとも金縛り?
現実か夢かすら曖昧なまま、私はどうすることもできない。この空間は広がっているのがグラデーションの変化でわかる。ただ私自身のいる場所はかなり歪められているようなのだ。とても細長いのだ。細長くて狭くて苦しくてろくに身動きがとれないところに閉じ込められている。まるで棺桶の中に幽閉されているような気分になる。閉塞感をはっきり感じることができるから、まさか誰かに拉致されたんだろうか?
意識だけもがいているうちに手脚が自由を取り戻したようなので、ゆっくりと伸ばしてみる。感触がある。硬い金属のようななにかに私は押し込められているらしい。
ここから出ようと手を伸ばそうとすれば、それに呼応して全体像が動く。よかった、体自体も自由を取り戻したらしい。水を利用した細かい仕掛けのからくりのように、ひとつひとつ注意深く、ほんの微かな音を立てながら、それは順番に反応していく。耳を澄ませば、それが進行していく方向を聞き取ることができる。
あいかわらず、あらゆる世界はぼんやりとしている。まさかこれがJADEさんがいってた男が如来眼に覚醒するデメリットだろうか?白岐みたいにまともな世界じゃなく魂がみえる世界が見えるようになるんだろうか?それとも目に負担がかかりすぎて視力が下がるとか?近視になったことがないからわからないが、ド近眼になったらこんな感じ、という浮遊感の中に私はいた。
「素晴らしい」
私は凍りついた。真横から声がしたからだ。横をむくとそこには黒い影だけがあった。
「実験は成功だ」
「まさか成功するとは」
「適合する個体が現れたのだ」
「素晴らしい、実に素晴らしい」
次は反対側から複数の拍手がする。やはり影だけがある。私の中にあるのは恐怖だった。
「私の言ったとおりでしょう?」
女の声がした。影が一様に沈黙する。私は戦慄した。禍々しい光を放つ、金の目の女がいたからだ。
「DNAは人間の地図であり、4種類の文字で書かれた長い文書なのよ。文字はACGTの4種類しかない。細胞の中のタンパク質たちが、読み解いて、その指示通りに儀式を進める。理論上は可能だったじゃないの。なにも不思議なことではないわ」
「だが今まで上手くいかなかったではないか」
「それはDNAという魔道書には、偽文書がたくさん紛れ込んでいるからよ。正確には、ノンコーディングDNAと呼ばれるものなんだけど。その偽情報に騙されることなく、適切に人間を生み出すにはそれなりの技術が必要というだけ」
「なんだそれは」
「DNAはノンコーディングDNAと遺伝子出できているわ。本物の情報のことを遺伝子、ノイズのことをノンコーディングDNAと呼ぶというわけ。この遺伝子という魔道書を読み解くことに慣れた、狂信的なタンパク質さんたちに比べれば、私たちはその読み取りに慣れていないわ。だからこそ、いろんな機械を使って、この魔道書の解読を試みてきたんじゃないの。我々の悲願のために」
女は笑う。
「その結果、遺伝子解析機を作り、解析したい遺伝子全体にわたって、一気に情報処理させた。長いものを一つ一つ正確に読むよりも、エラーが少なく、そして早く、遺伝子を読み取ることができるようになった」
「たしかに。たくさんの種類の生物の遺伝子を、一斉に読み解くことができるようになった」
「だからこそグールや深きものの血を受け継いでいる者の遺伝子を手に入れられた」
「ハスターリクを制御できるようになった」
「遺伝子を改変する研究所ができた」
「それを私は待っていたの。この子はまさに私の悲願よ。龍脈の活性化により生み出されたこの魔眼のためにどれだけ一族の女たちが子を産むために死に絶えたと思っているの。私は嫌よ、死ぬなんて嫌」
「だがその個体もまた女ではないか」
「馬鹿ね、私がこの子を生み出してなお生きているという事実が重要なのよ。愛する男の子供を育てるという当たり前の暮らしを私たちは許されなかったのよ」
高笑いする女に抱きしめられる。影達はあいかわらず私の頭の上でくっちゃべっているが専門用語だらけでわからない。
ハスターリク......また随分とマイナーながらド直球な邪神が出てきたものだ。
ハスターリクは「微生物の集合体」の姿をした、グレート・オールド・ワンの1体である。 通常は病原菌に寄生し、寄生したそれを爆発的に増殖させる能力があり、一説には14世紀の腺ペスト、他にはエボラ出血熱と言ったパンデミックの大半は、この存在が原因とされている。
〈感染するもの〉と知られ、疫病の原因となる微生物のような旧支配者である。遺伝子そのものを改変してしまうため、どうなってしまうか……お察しの通りである。
ちなみに名前は似ているがハスターとは関係ない神性である。
ハスターリクは宇宙や異次元に存在する微生物の集合体であり、病原体とくっつくことで混沌と影響を広げる。遺伝子情報を組み換えることが簡単にできるためにあらゆる怪物を作り出すことが可能になる。遺伝子の研究者たちにとっては喉から手が出るほどに求め、崇拝していてもおかしくはないだろう。あるときはゲリラ化した勢力を鎮圧するためにハスターリクを召喚しようと試みた集団がいるそうである。
しかしハスターリクは完全に制御することはできないため、召喚者にも感染することもあるという。それを完全に制御しただと?ちょっと待てや。
つっこもうとしたが声が出ない。
ハスターリクはたしかに細菌の邪神である。創作された時代には、まだ、ウイルスという存在が明らかにされておらず細菌扱いだったためだ。ただ、今の時代にこいつらの話をまとめて落とし込むなら、遺伝子操作ができるDNAの集合体ってことになる。
なにそれやばくない?
細菌は生物で細胞膜によって外界と隔てられたものだ。病原菌と言われるものは、これに属する。体内の種々の物質を栄養源にしつつ増殖し、血中などにも侵入する場合があり、感染症の多くが、細菌によるものだ。
一方のウイルスは、生物かどうか、意見が分かれている。大変小さいため、人間の細胞の中にまで押し入ることができる。細胞のシステムを「間借り」して、自分の遺伝子を増殖するのが、ウイルスという存在なのだ。逆に言えば、細胞に侵入しなければ、ウイルスは増殖できない。不完全なDNA運搬体なのだ。
細菌の集合と考えられていたハスターリクだが、それらの細胞に変異を促すウイルスの集合だと考えたほうがいい。
ハスターリクと思われる病原菌の集合を遺伝子解析すると、特定のウイルス由来のDNAが共通して検知される、という結果が生じる。このウイルス由来DNAこそ、ハスターリクの本体ということになるだろう。
《黒い砂》、江見睡院の中にいる正体不明の生命体と何らかの関わりがある気がする。
......ハスターリクの駆除が不可能だよな、こいつらの話が正しいなら。
中枢となるサーバーをダウンさせれば勝利するパターンと違って、ハスターリクの実態はソフトウェアだったということになる。つまり、それ(ウイルス由来DNA)がインストールされたマシン(細胞)を全て排除するまで、そこでウイルスが増え続けるわけだ。
......どうせよと?
「今一度確認するが、我々に牙を向いた場合、どうするのだ」
「そんなもの、自爆装置を埋め込めばいいに決まってるじゃないの。なんのためのショゴスよ。なんのためのアブホースよ」
その言葉に私は戦慄するのだ。こいつら白岐さんの中に鍵を仕込むだけじゃ足りないっていうのか。
「私たち人類のDNAのうち、34%までは、ウイルス由来のDNAで構成されているわ。生物は、常に、ウイルスを媒介としながら、体内のDNAを更新している。性交渉によって、女が男のDNAを取り込んでいるようにね。もちろん、それが致命的なエラーを生じる場合には、直ちに発熱などが生じ、正常な機能を取り戻すべく、異常をきたした細胞を排除するという現象が発生するわ」
さも当然とばかりに女はいう。
「しかし、すべてのウイルスが、私たちに直ちにそれとわかるエラーを吐くわけではない。私たちは知らぬ間に、特定のウイルスと共存し、ウイルス由来のDNAを増殖している。その場合、そのDNAは有害ではないので、排除する必要はないわ、ら他の生物だって、そうやって、環境内の生物と、複雑にDNAの受け渡しを行っているの。細菌は他の微生物との間でDNAを受け渡ししながら、環境との適応・進化を図っているのだから」
女は影にかたる。
「人間や細胞の「個体」という境界は、曖昧なのよ。その壁を破るのが、「ウイルス」という存在、その「ウイルス」が、他の生物たちに、秘密の暗号を書き残していく。まるで、正常な文書を、たった一カ所書き換えるだけで、魔道書に変えてしまうみたいに。いや、むしろ、他の遺伝子は、そのポイントが書き換えられる「その日」を待ち望んでいたのよ。それを記すわ、ここにね」
刻まれた銘板。それだけが妙な現実感を伴って私の前に現れた。
「そして、巫女にも墓守にも逃げられないように楔をうちこむの。どこにいても逃げられないような座標をね」
......天香學園の《遺跡》に眠る《九龍の秘宝》じゃないの、これ。じゃあ、この女がいってるのってまさか......。
「もちろん、アンタにも植わってるのよ。大事な私の───────」
身体のくたびれ方で見当をつけるしかない。身体はひどく消耗していた。こんなに疲れたのは初めてだ。まぶたを開くことができるようになるまでに時間がかかった。意識は一刻も早い覚醒を求めていたが、筋肉や内臓のシステムがそれに抵抗していた。
季節を間違えて、予定より早く目を覚ましてしまった冬眠動物のように。私はようやく目を開け、焦点をあわせ、シーツの縁を握っている自分の右手を眺めた。
世界が分解されることなく存在し、自分がまだ自分としてそこにあることを確認した。しびれは少し残っているが、そこにあるのはたしかに自分の右手だった。
まわりの話し声も普通の話し声として聞こえるようになった。声はまだ自分の声のようには聞こえない。心配しているのはわかる。
頭に風が吹き込むような感触があり、上半身が震えた。寒気が走った。目をぎゅっと閉じ、数秒してから、開く。 女の姿は消え、周囲の世界が復元している。
真っ先に目に飛び込んできたのは白い天井だった。
「翔クン!」
「よかった、翔さん目を覚ましたんですね。瑞麗先生、瑞麗先生、翔さんが!」
「......あれ、月魅?やっちー?ここは?」
「よかったよ〜、翔クンが目を覚ましてくれて〜ッ!瑞麗先生は大丈夫だっていうけどすっごい心配したんだからっ」
「え?」
「あれ、覚えてないの?」
「こらこら、江見は今起きたばかりなんだぞ。無理をさせるものじゃない」
間仕切りのカーテンをあけて瑞麗先生が入ってきた。
「調子はどうだい、江見。気分は悪くないか?」
「あ、はい。大丈夫です」
どうやら私は今保健室にいるようだ。
「吐き気は?」
ミネラルウォーターを渡される。口に含んでみるが違和感はない。ありがとうございますと返そうとしたが、持っていた方がいいと言われてしまった。
「みたところ顔色もいいようだし、体調は良くなったようだ。よかった」
「よかった〜」
やっちーは嬉しそうに笑う。
なにがあったのだろうか。無意識のうちに手は頭に向かう。痛みが走る。どうやらたんこぶができているようだ。
「君は更衣室で何者かに殴られ、意識を失っていたようだ。死体役だったせいで誰も気づいていなかったようだな」
「えっ」
「なにか心当たりはないか?」
「えーっと......窓」
「窓?」
「窓から音がしたんです。振り返ろうとしたら後ろからこう......」
「打ちどころが悪かったらまずかったな。体調が悪くなったらすぐに来なさい。いいね?」
「わかりました」
「一体誰が......」
私は首を傾げるしかないのだった。