「《遺跡》にいる灰色のスライム......男子生徒を眷属にして君を死に追いやる手紙を届けていた邪神の名前がわかった。アブホースの落とし子だ。ずいぶんと肥大化しているようだから、あの《遺跡》ができた頃から迷い込んできたのか、連れてこられたのか」
報告書を片手に瑞麗先生はいう。
「はい?ショゴスじゃなくてですか?」
「ああ、私も驚いているよ。よほど本体に食われたくはないらしい。遠路はるばるこんな所にまで逃げてくるとは。本体の真似事をしてはいるがね」
私は息を飲んだ。どうなってんだ、あの《遺跡》。どこまでクトゥルフ神話に汚染されてんの?そりゃイスの偉大なる種族が好奇心抑えきれなくて私をこの學園に送り込むわけだわと感心してしまいたくなる。
アブホースは灰色のアメーバめいた外なる神である。 この存在は幻夢境の地底深くにあろう、地下世界ンカイに潜んでいると言われる。
居住地のンカイの最奥に留まり、徒に落とし子を産み出し、産み出した落とし子を即座に貪るだけを繰り返している。 何者かが現れた場合でも、その姿勢は崩さないが、気紛れにコンタクトを採る場合もある。 だが、直後にアブホースもしくは、産み出した落とし子が襲い掛かる事もあり、常に注意する必要がある。
地底の空洞にわだかまる巨大な灰色の水溜まりのような姿をしており、その中からは絶え間なく灰色の塊が形成され、それが這いずりながら親から離れていこうとする。アブホースから延びている無数の触手は、そういった自らの落とし子をつかんで貪り食う行為を絶え間なく続けている。
氷河期が訪れる前はハイパーボリア大陸という、今は海底に沈んだ大陸のヴーアミタドレス山の地底の最深部に棲んでいたが、現在では北アメリカの地下にあるン・カイの一部と化していると言われている。
アブホースは知性を持っており、テレパシーで会話が出来るが、 地上や人間に関しては疎く、興味も持っていないようである。
皮肉っぽい精神の持ち主だと言われるが、 遭遇して無事に戻ったものがほとんどいないために、詳細は不明である。知られている限り人間の崇拝者はおらず、地下世界の一部の生物が礼拝していると考えられる。 自らの住処から動く事はまったくなく、召喚に応じる事はまず有り得ない。
だから本体がお出ましになることはない。だから瑞麗先生は落とし子だと思ったのだろう。
アブホースの落し子は外なる神アブホースから産まれた落とし子の奉仕種族である。別名〈外なる神の痕跡〉。
アブホースから産み落とされた落とし子は様々な形のものが存在しており、泥のなかをのたうつ存在である。アブホースから遠くに離れた場所にいる落とし子ほど大きく成長しており、アブホースの浸かる湖から脱出できない落とし子は様々な場所にあるアブホースの口に呑み込まれ、また違う落とし子を産み出す糧にするのだといわれている。
その様々な形というのは本当に様々であり体の一部や肉片などの未完成と思われるようなものから怪物の姿、人間、不定形など同じ落とし子は存在しないと言い切れるかもしれないほどである。その形態によってどのような動きをするかが変化し、動きやすい形態をしているものだけがアブホースの捕食から逃げ出すことができるのだろう。
彼らはアブホースの潜む湿っぽい洞窟に潜むだけではなく人間界やドリームランドにまで逃げ出すものもいるというが、そんなときにはアブホースの落とし子だと気がつくことはまずない。
たまたま逃げ出したアブホースの落とし子が寄生した人間か動物が《天御子》の実験体になりこの《遺跡》にやってきたと考えるのが残当だろうか?
それともアブホースの本能たる食性を植え付けるために注射でもしたんだろうか?
人間に限らず同類を食べる行為は狂牛病なんかの病気を引き起こしたり精神を冒したり遺伝子レベルで忌避しようと本能がインプットされている。だが化人にそんなものはないため、ありえる。
どのみちゾッとする話ではないか。私はそいつらに捕まりそうになったんだから。エロ同人どころの話じゃなくなるのは間違いない。
「未だに君あてに手紙が届いているそうじゃないか。葉佩が内容を確認していると聞いていたが、内容が内容だけに私に相談してきたんだ。あの場所にこいとあるとね」
提示された裁断されたパピルス。初期の頃より小さくなっているのは手持ちがなくなってきたからか。
「いくかい?」
パピルスを手にした私はうなずいた。
「江見睡院さんの棺桶になにも入っていなかった時点で嫌な予感はしていたんです。私はいきますよ、瑞麗先生。これは江見翔くんのためでもある」
「はあ......まあ、いうだけ無駄だとは思っていたが、しかたあるまい。かならず葉佩といくんだ、いいね。一人ではいくなよ?かつてのように」
私は笑った。
「わかってますよ、そんなこと」
「翔チャンお待たせ」
いつもの出で立ちで現れた葉佩は、私が準備万端なのを確認するなり《遺跡》に潜ろうとする。
「あれ、他に誰か呼んでないの?」
「ん〜、今日はそういう気分じゃなくてさ。翔チャン一人だけ。寂しい?」
「え?いや、九龍が決めたんならいいけどさ」
「なら問題ないな。いこっか」
いつもの要領で縄ばしごを括りつけ、一先に降りていく。私もあとに続いた。
「翔チャンの話を考えているうちにさ、ど〜しても聞きたいことがあって」
「うん?」
「翔チャンさ、江見翔クンの体に入れられたときすんごい不安だったと思うんだよ。たった1日過ごした俺ですらしんどかったんだから」
「まあね、否定しないよ」
「月魅がいってたよ。転校してからずっと普通の男の子だと思ってたって。皆神山の震災からたった1ヶ月でそこまで演じられるって、やっぱりすごい努力があったと思うんだ」
「ああ、うん、まあね」
イスの偉大なる種族は人間を理解はしても寄り添ってはくれないのだと思い知る日々だったから思い出したくはないので言葉をにごす。
「俺が《宝探し屋》だって話したとき、真っ先に仲間になってくれたのは江見睡院さんに助けてほしかったからだよな?」
「そうだね。九龍が江見睡院さんと同じ《宝探し屋》だと知って、もしかしたらと思ったんだ」
「そっか......やっぱりそうなんだ。聞いてよかったよ。翔チャン、なんだかんだで会ったときから当たり前みたいに協力してくれるからさ。江見睡院さんに18年たった今、助けて欲しい理由がどうしても思いつかなくてもどかしかったんだ」
葉佩は伸びをする。
「それだけじゃない。なんかこう、さ、強い糸で結ばれた間柄でもないのに、物凄い信頼というか期待というかそういう、ムズムズするようなものを感じてたんだよ。うれしいけどなんでかな〜って気になったりしてね。やっちーや月魅みたいな好奇心でも、瑞麗先生みたいな見守るかんじでもない、無条件な信頼というか。怖くもあったんだ。《宝探し屋》であることが大事だったんだな」
「違うんだけどね」
「へッ?!どこらへんが?」
「私を保護してくれた宇宙人は時間の秘密を解き明かし、自由に時間跳躍する技術があるんだ。それが精神交換なわけだけど、その技術により彼らはあらゆる事象を観測できる。私は一部しか使わせてもらえないけど色々教えてはもらえたのさ。たとえばそうだな、私を助けてくれそうなやつが2004年9月に《宝探し屋》として現れるとね」
にやっと笑った私に葉佩は目を丸くする。
「じゃあ、今まで協力してくれてたのは......」
「江見睡院さんのこともある。でも、一番は葉佩九龍、君に協力したかったからなんだ。なんの理由もなく協力してもやりにくいだろ?だから私なりに理由を準備してみたんだよ。隠しきれてなかったみたいだけど」
あれ?私は葉佩をみた。
「なんでそっちむくんだよ、今のタイミングで」
「いやあ......俺どっちかっていうと追っかけるのが好きで追っかけられるの慣れてないというか。ド直球に褒められると恥ずかしくなるというか」
「いつものキャラどこに置き忘れてきたんだよ、九龍。ありがと翔チャンってなるところだろ、普通」
「い〜だろ、たまにはッ!俺だって男の子なんだよッ!!」
「あははッ、なにそれ!」
「ちょっ、笑うとこかよ、翔チャンひでえッ!」
笑いの発作がおさまったあと、私はすっかり機嫌を悪くしてしまった葉佩を宥めなければならなくなるのだった。
そして。
「この先があいつが言ってたところだよ」
私たちの前には一際大きな両開きの扉がある。ここまで来ると何か粘着質な水っぽい音が聞こえてくる。開けてみると内部はまるで儀式の間だった。他の部屋と同じく、明かりはついていない。
石造りの四角い部屋の中央には何かが腐ったような強烈な腐敗臭がする台座がある。その向こう側は地盤をえぐったようにぽっかりとした大穴になっている。
その大穴を満たすように、悪習を放つ大量の水が波打っていた。その水たまりの中から灰色がかったスライムのような塊が縁から溢れそうになっている。
塊は身を震わせながら、絶え間なく膨らみ続けている。そしてそこから多様な形の分体が生み出され、あらゆる方向へ向けて這い出ている。まさしくそれは不浄の源と呼ぶべき存在。人知を超えた宇宙的恐怖の片鱗だった。
周りには誰もいない。葉佩は後ろを警戒しているが扉が閉ざされる様子はない。すると、どこからか声のような音を発して私たちの脳内に語りかけてくる。
「お前たちが今回の生贄か?違うのであれば、生贄を連れて来い。そうすれば助けてやろう」
その間もアブホースの落とし子は自らの落とし子を貪り食っている。
「誰かいなかった?」
「誰かだと?」
「この手紙を書いたやつ」
灰色の落とし子がズルリと産み落とされたかと思うと、そいつはたちまち一人の男を形成した。
「この男か?」
驚く私達にアブホースの落とし子は満足げに、大穴の底へと沈んでいく。床に空いたヒビから地中へと流れ込んでいき、姿を消した。後に残ったのはポッカリと空いた大穴だ。
「ついてくるがいい」
暗黒の《遺跡》を満たす灰色の塊が、突如発生した光の渦に包まれていく。この世の物とは思えない不快な呻き声が脳内に響いたかと思えば、先へ先へと促してくる。
その先に瀕死の男がいた。
「......翔」
男の声がする。魚の腐敗したような香りと排泄物のようなにおいがまざった強烈なにおいがする。
「どうして来たんだ......あれだけ来るなといったのに......」
葉佩はH.A.N.T.を起動している。私はなんの躊躇もなく氷結銃をぬいた。
「誰よ、あんた。江見睡院の中にいるのはわかってんの。しょうもない演技してないで出てきなさいよ」
「......状態異常あり、男子生徒より悪化してるな」
「やっぱりね。アブホースの落とし子に取り込まれた人間がまともなわけないじゃないの。それができるのはよっぽど精神力が強い人間だけよ」
にい、と男が笑う。
「なにがおかしいのよ」
「アブホースの落とし子、か。本当に我々をそう思っているのならば、とんだお笑い草だな」
「江見睡院さんだ」
「間違いない?」
葉佩はうなずく。《ロゼッタ協会》には江見睡院の生体認証が記録されているのだ。その体がほんものなのはこれで判明してしまった。
「ミイラだったはずの江見睡院さんがまるで生きてるみたいに行動出来るわけがないだろ。誰だ、お前」
葉佩が剣を抜く。
「知りたければ《遺跡》を暴け、《宝探し屋》。深淵にまでこなければ明かす気は無い」
江見睡院だったなにかが宣言した瞬間に、あたりに灰色の液体が溢れ出す。そして何体もの大型化人があらわれ、私たちに牙をむく。
「まずはお手並み拝見だ」
男はさらなる回廊を開いていってしまう。私は舌打ちをした。
「ごめん、翔チャン。もうひとり連れてくるべきだったな」
「大丈夫、ひとり5体仕留めれば何とかなるわ」
「よーし、やるか」
「そうね」
葉佩一人なら手加減する必要も無いか。
「九龍、銃火器持ってるでしょ?グロッグ以外貸して」
「えっ、マジ?」
「出し惜しみしてたら死ぬでしょ。さあて、やりますか」
葉佩からライフルや予備をうけとり、慣れた様子で装填する。
「私、やられる前にやるタイプなんだよね。敵に回したこと後悔させてあげる」
今まででいちばん怖かったと葉佩がいうのは、たぶん久しぶりに銃火器握れてテンションあがったからだと言い訳をしておくことにする。