全寮制の学園も長期休暇たる夏休みになれば私も帰らなければならなくなる。江見翔の設定的に母親に顔を見せるために帰省しなければ不自然極まりないからだ。江見睡院の家は岡山県にあり、彼が行方不明になってから18年間《ロゼッタ協会》のフロント企業たる不動産が管理していたらしい。私はここを拠点に天香学園の生徒としての生活を送りながら、3ヶ月にも及ぶ潜伏生活についての報告書をまとめていた。傍らにはイスの大いなる種族から預かっているオーパーツを使った通信機器だ。
「五十鈴さん、ひとつ聞きたいんだけど」
「なんでしょう?」
「イスの大いなる種族の技術力なら70メートルのボーリング調査って可能?」
「ええ、可能ですがそれがなにか?」
「出来るならやる価値あるわね。自由研究でやろうと思うんだけどね、水月湖っていう福井県にある湖を。実はアタシの世界だと水月湖の年縞(ねんこう)がいずれ世界基準になるのよ。《ロゼッタ協会》やアナタ達イスの大いなる種族には有益な情報じゃないかと思うんだけど」
「世界基準ですか、それはすごいですね。しかも70メートル?待ってください、それは何年分になりますか?」
「えーっとたしか5万年分だったかな」
その言葉に無線で繋がっている五十鈴さんの向こう側にいるであろう部署がにわかに騒がしくなった。
「今すぐ行きましょう」
「えっ、今から?」
「はい」
私はあわてて旅行カバンに荷物を詰める準備を始めた。五十鈴の行動力から考えて迅速を目指して困ったことは1度もないのだ。
五十鈴たちが色めきたったのは、年縞が《ロゼッタ協会》にとってそれだけ大事なものだということだ。
年縞とは、長い年月の間に湖沼などに堆積した層が描く特徴的な縞模様の湖底堆積物のことで、1年に1層形成される。縞模様は季節によって違うものが堆積することで、明るい層と暗い層が交互に堆積することでできる。
これがなぜ必要なのかというと、世界中の遺跡を探索する宝探し屋の商売を考えたらわかる。市場に未知の出土品を出すことは出来ない。最低限いつの時代のものかを知らなくてはならないのだ。そこで使われる手段の一つが「放射性炭素年代測定法」。生物の体に含まれ、時間の経過とともに一定のペースで量が減少する「放射性炭素」の残量を測定し、年代を逆算する手法だ。
しかし、この放射性炭素年代測定法では時代によって数百年から数千年のズレがあるのが悩みだった。生物の体に含まれる放射性炭素は、もともとは大気中の放射性炭素を取り込んだものだ。時代によって大気中に含まれる放射性炭素の量にバラツキがあるため、全く同じ生物でも、時代によって体に含まれる放射性炭素の量が異なるからだ。
このズレを修正するためには、「年代ごとの正確な放射性炭素の量」がきっちりと整った「ものさし」が必要となる。この「ものさし」となるのが年縞なのだ。
年縞は1年に1層形成されるため、いつの年代のものなのか正確にわかりやすい。その年縞に含まれる葉の放射性炭素の量を測定することで、正確な年代と放射性炭素の割合の関係が明らかになる。
私の世界だと水月湖の年縞は考古学や地質学における「世界標準のものさし」として、年代測定の精度を従来より飛躍的に高めた。それがいま使えるとしたら。《ロゼッタ協会》が飛びつくのは無理もなかった。
ちなみに年縞がつかわれるのは年代測定だけではない。木の年輪のように1年で明暗1対の縞が出来ていくので、縞模様を数えることでその縞が何年前にできたものかが分かる。そして、その縞の中には湖周辺から飛来した木の葉や花粉などが含まれている。それらを調べることで、その当時に生息していた植物の種類やその移り変わり、また、その植生から当時の気候や環境も分かってくる。
その他にも、火山灰からは火山噴火活動や黄砂からは偏西風の風向きの変化、また、堆積層の変化からも洪水や地震の履歴を知ることが出来る。
こうした研究は、地球温暖化の解明や自然災害のメカニズム、人類史の解明など、今後の研究成果に期待が寄せられている。ちなみに水月湖の年縞の研究は1990年には始まっているが、国際的に認定されるのは2012年。2004年の今から8年後である。私の提案は五十鈴さんだけでなく、《ロゼッタ協会》を動かすだけの威力があったらしい。
気づけば旅行に来たというていで、私は母親役のスタッフと福井県にきていたのだから。
「ここが水月湖かあ」
ホテルに泊まった私は目の前に広がる湖に目をやった。
名勝「三方五湖」のひとつ「水月湖」は、年縞が形成される環境として「奇跡」と言われるほど理想的な湖だ。その理由は、直接流れ込む河川がない 。湖底に生物が生息していない 。時間が経過しても埋まらないため。湖底がかき乱されることがなく、美しい縞模様が形成される。また、断層活動のため湖が埋まることなく、水月湖では7万年もの間年縞を形成し続けており、これほど長い間連続している年縞は、世界でも他に例がないらしい。
うろ覚えだったが五十鈴は同僚たちに伝えていたようで、研究員扮する複数の人間がなにやら機材を持ってでかけていくのが見えた。誰一人反応しないのはさっき振りかけていた粉の効果なのかもしれない。数日かかるであろう調査に同行している私はとりあえず夏休みの宿題を終わらせにかかったのだった。
「メールを受信しました」
H.A.N.T.を広げてみると萌生先生からメールが入っていた。最後の引き継ぎだ。
「えっ、ちょっと待って。なにこの原稿の数。メールマガジンて個人宛じゃないでしょ」
そこには葉佩九龍の遺跡探索の進捗状況により自動的に送られるはずのメールマガジンを書いてくれ。推敲などはこちらがすると書いてあった。
メールマガジンは、発信者が定期的にメールで情報を流し、読みたい人が購読するようなメールの配信の一形態だ。
メールマガジンはそもそも双方向の配信システムを使用するメーリングリストとは異なり、購読者同士で情報交換ができないプッシュメディア方式の配信システムを使用することが一
たしかにメールマガジンを発行する場合、内容以外にも受信者の好みや環境の違いに配慮するなど、購読者の満足度向上に工夫が必要となる。でも葉佩九龍のためにピンポイント配信とかどういうことだ。
「諜報員として接触できないからってこんなことまでしないといけないんですか」
「この遺跡はかなり難しいからな。後方支援に徹する従来の方法だとまた俺達は仲間を失う。バディとして支えてやれ。さもないとせっかく準備したメルマガやらなんやらがすべて無駄になる」
ああ、やっぱり3日で行方不明になった葉佩九龍の前任者に責任を感じてるんだなと私は思った。
「わかりました」
まさか私はこのとき萌生先生がどん筆小説家の鬼編集者に変貌するとは思わなかったのだった。
数日後、岡山市に帰ってきた私はH.A.N.T.のメール通知で目を覚ました。
「メールを受信しました」
「メールを受信しました」
「メールを受信しました」
「ああもううるさいわね、なによ!」
H.A.N.T.を開いてみると全部葉佩九龍からだったものだから目が点になる。メールマガジンは一方的に送り付けるものだから返信は出来ないはずなのだが。調べてみたら私のアドレスに送られていた。怖い。
「はじめまして(顔文字のようだが文字化けしている)」
タイトルだけで頭が痛くなるメールは初めてだった。どうやら返事をしたかったが上手く送れないので《ロゼッタ協会》に連絡してメールを転送するよう頼んだらしい。
「いや止めてくださいよ萌生先生」
転送しましたの文言の向こう側に爆笑している萌生先生がみえた。頭を抱えた私はメールを打ち込んだ。
『No.999、KWLOONへ。メールマガジンは登録者に自動送信される機関誌なので、律儀に返事を返さなくても大丈夫ですよ。』
「これでよし」
「メールを受信しました」
「送った矢先にまた!?」
メールを読み返してみたが、やっぱり葉佩九龍はメールマガジンの意味がよくわかっていないようだった。
「......萌生先生にはやいとこ葉佩のデータ送ってもらおう。遺跡探索のステ足りるか不安になってきた......どんなステ振りしてるのよこいつ。つーか天香学園に派遣するとか《ロゼッタ協会》本気なの?頭大丈夫?」
いや、天香学園の遺跡の大体の内容や《天御子》の遺した《九龍の秘宝》について大和朝廷の巫女から聞いた話にかこつけて、あることないことすでに報告した私がいうのはなんだけども。そこまで考えて私は気づいてしまうのだ。
「......まさか《ロゼッタ協会》、あとは《九龍の秘宝》とってくるだけだからアタシに葉佩九龍の支援丸投げしてるとか言わないわよね?」
萌生先生にメールを送ると「がんばれ」の一言だけが帰ってきた。《ロゼッタ協会》は効率的に仕事をこなすやつに仕事をどんどんふりわけるブラック企業によくある体質だと今さら私は気づいてしまったのだった。
「メールを受信しました」
「いってる傍からうるさいわね!アタシへのメールは日記じゃないわよ、この距離なしめ!あーもう着拒否してやろうかな......。葉佩んときだけ受信音声切らなきゃ」
皆守たちのメールは携帯電話に転送して、日中はH.A.N.T.を起動しないように自室に放置している私だが、葉佩九龍のメールもH.A.N.T.にだけ転送するよう設定しようと決めた。
「どうしよう、新学期が不安しかない」
あっという間にうまってしまった葉佩九龍のメールに私は顔を引き攣らせたのだった。
発信日:2004年8月9日
発信者:ロゼッタ協会
件名:探索要請
日本にて、超古代文明にまつわる遺跡の存在を確認。場所は東京都新宿区に所在する全寮制『天香(かみよし)學園高等学校』の敷地内。本メールを受信した担当ハンターは準備が整い次第、現地に急行せよ。尚、本件の関連資料は自動的にこのH.A.N.T.に転送される。
《ロゼッタ協会》遺跡統括情報局
「メルマガって普通こういうのだよなぁ」
《ロゼッタ協会》所属の宝探し屋になってから久しぶりに踏んだ日本の土地。《ロゼッタ協会》フロント企業のビジネスホテルに泊まった葉佩はベッドに寝っ転がりながらH.A.N.T.を眺めていた。
新米ハンターとして、9月9日は怒涛の1日だった。紅海から地下6KM下にある《ヘラクレイオンの神殿》から《イシスの碑文》を持ち帰るはずが、エジプト国内の砂漠に脱出した瞬間に敵対勢力に襲撃されたのだ。そいつらは《秘宝の夜明け》とかいて《レリックドーン》と読むテロ組織であり、超古代文明の秘宝をテロ活動に使おうと目論む宝探し屋集団だった。なんとか逃げ延びて案内役の老人サラーの記憶を頼りにオアシスを求めて砂漠を横断するという暴挙を仕出かして医療部と諜報部にボロカスに怒られた。まさか干上がっているなんて知らなかったのだ、仕方ない。
そして、救護へりで治療を受けていたら上記のメールが来たのだ。
新たな任務につくたびに担当者が変わるのだが、新しい担当者からのメールはこれだったのだ。
発信日:2004年8月9日
発信者:ロゼッタ協会
件名:担当者交代のご挨拶
《ロゼッタ協会》
IDNo.999
KWLOON様
いつも大変お世話になっております。《ロゼッタ協会》遺跡統括情報極の紅海と申します。本日は担当者変更のお知らせでご連絡致しました。
さて、これまで貴方を担当しておりました萌生が8月の人事異動でエジプト支部勤務となり、後任の私、紅海が貴方を担当させて頂くこととなりました。よろしくお願い申し上げます。
メールにて大変恐縮ではございますが、取り急ぎ担当者変更のご挨拶を申し上げます。
追伸《天香学園》潜入前に《ロックフォードアドベンチャー》の攻略をお願いいたします。
「......まさかのゲーム」
葉佩は笑ってしまう。
「いや、面白いけどさ」
あらすじはこうだ。ロンドンで探偵業を営むロックフォードのもとに、昔の友人レイブンウッドの娘タニスから依頼が舞い込んだ! なんとレイブンウッドは何者かに殺されたというのだ! レイブンウッドは有名な考古学の権威…ロックフォードはその点に狙いを定め捜査を開始するのだった!
H.A.N.T.を起動してゲームを始めた葉佩はなかなか嵌っている自分にちょっと負けた気がしていた。
ロックフォード・アドベンチャー〜失われた黄金の港〜は、《ロゼッタ協会》公式の新米ハンター育成プログラムである。
「セーブデータでアイテムもらえる意味がわかんないけどありがたいからいっか」
新米トレジャーハンターゆえに装備が貧弱な葉佩には非常にありがたいものなのだ。2時間でクリア出来るこのゲームはインディ・ジョーンズのパロディでできている。
「ここに出てくるサラーって子供、どっかで見たことあるような」
ついこの間まで一緒だった老人を思い出し、いやいやあの人じいさんだし、と葉佩はかぶりをふったのだった。
「まだ夏休みなんだよな、日本て。暇だ」
はやく新学期にならないかと思いながら葉佩は暇つぶしにゲームに勤しみながら担当者にメールを送りまくっていたのだった。