失われた記憶

自然は何かに気を障さえだしたように、夜とともに荒れ始めていた。怒った自然の前には、人間は塵ちりひとひらにも及ばない。人間などという存在は全く無視されている。吹き落ちる気配けはいも見えないあらしは、果てもなく海上を吹きまくる。目に見える限りはただ波頭ばかりだ。がやがやと騒ぐ聴衆のような雲や波の擾乱により、風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、覆くつがえるかと思う位だ。あらし模様の雲が恐ろしい勢いで走っていた。


どーっと見さかいもなく吹きまく風の中、黒い嵐雲の捲き立つ空が山際のところでだけ物凄く藍色に光っている。遠くで雷の音がしていた。水滴がどんどん流れ、その向こうに街灯の明かりがにじんで白く光っていた。この夜の中では、全てが遠すぎて、信頼できないような気がした。
世界中に終末が来たようだった。


「これで終わりだよ、鬼塚くん!モンスターでダイレクトアタック!」

モンスターの強烈な一撃が叩き込まれる。鬼塚は苦悶の表情を浮かべたままうずくまってしまった。ライフポイントがゼロになり、赤く染まる音がした。


傾斜へ出かかるまでの鬼塚は、不意に自分を引摺ひきずり込んだ危険、に抗えない。それはなにか均衡のとれない不自然な連鎖のようで、気を取られて足を踏みはずした。そしてとても強く頭を打った。ばしゃあん、としぶきがあがる。

ゴーストは慌ててかけよった。

重いと呻きながら鬼塚をかかえて砂浜を歩き、いつの間にか晴れていたそこに横たえる。初めに意識が戻った時、何が何だか分からない顔をしていた。頭が引きつれるように、妙な痛みで満ちていた。

「鬼塚くん、生きてる?」

のぞき込んでみるが返事はない。

「鬼塚くーん?」

沈黙が続く。

「......お前は、誰だ?」

「......えっ、嘘でしょ、鬼塚くん?」

くっきりと痕跡を残している過去にまみれて現在が宙に浮いている。鬼塚が思った情景は、今思っているところで正しいのだろうか? バイト先は?家族は何人いた?何でこんなに遠く感じるのだろうか。混乱し、不安になった。すべてがはるかで、まるでいつか見た夢のように思えた。そして自分だけが空間にぽつりといる。何もかもと均等に距離をおいて、一人でいるような感覚が抜けない。

ゴーストは血の気がひくのだ。鬼塚は変わった。 雰囲気が明らかにおかしい。それを聞いてみるゴーストだが、鬼塚さえいつから、どんなふうになのかは思い出せない。 つらつらと画面だけが浮かぶ。

過去の記憶があいまいになっているらしい。目が悪くなってコンタクトを入れる、そういう環境に似ているようだ。だいぶたつのに鬼塚はまだゴーストを思い出せていないことを痛感したのか、ガシガシ頭をかいている。不安というよりも、何もかもがぼんやりと浮いていた。自分にまつわるすべてがとても遠いことのように思えたようだ。鬼塚はさっぱり覚えていなかった。別人の話かと思ったくらいだ。

まるでアンドロイドの壊れた記憶回路のように、 あひるの子の刷り込みみたいに、 頭を打って目覚めて、初めての記憶はゴーストだったのだ。
生まれ変わったようなまなざしでまだよくわからない、なじみのないこの世界にひとり立ったとき、何もかもが不確かで手探りの状態の不安な新しい鬼塚がいる。

「......とにかく、帰ろう鬼塚くん、みんな待ってるよ」

「......ああ」
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