HALの胃袋はブラックホールに繋がっている。食べる速度を落した。しかし、彼は、決して口を休めないのである。勾配を上る機関車のように、喘ぎながらも、着々と進んでいくのである。育ちざかりの七面鳥のように眼をむいてがつがつ食いまくる。
HALはまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのデータプログラムを飲み干し、残骸をあたりにまきちらした。そしてそれは、そうでもしなければ生き残れないくらい退屈な時間だった。
HALは目覚めている間ずっと、何らかの食べ物を手にしている。彼の存在そのものが、食欲に飲み込まれてしまったように思える。彼はひたむきに食べる。呼吸するように休みなく、ものを飲み込み続ける。
唇は鍛え抜かれた陸上選手の太もものように、たくましく動く。腹がどっぶん波打つくらいに飲み続ける。その大食は愉快にワナビーを驚かした。そんなに食べるとスタイルまでフロッピー型になりそうだ。
モリモリたべる。 若いひとのたべ方はなんと気持のよいものだろうと感心してワナビーはそれをながめていた。大ぶりにたっぷりと、胃のなかに充実感をあたえるものでないと満足しないのだ。
「そんなにお腹すいてるんだ、HAL」
「当たり前だろ!お前と別れてからなんにも食ってねーんだからな!食欲なんてわくわけねーだろ、大事な大事な半身の消滅の危機だっていうのによォ!」
「あはは......そうか、そうだよね、うん。僕も同じだよ、HAL」
「だろー!ワナビーも食うか?」
「ううん、僕はまだいいよ、人間でいたいからさ。ご飯食べなくてもよくなっちゃったら、いよいよ僕は人間じゃあなくなっちゃうからね」
「へー、そうかいそうかい。そりゃ残念でござんすね」
HALは不機嫌そうに顔をゆがめるのだ。
「初めての離別フラグを体験したってのに、あいかわらずワナビーはどっちつかずの宙ぶらりんなままってことがよーくわかったぜ!」
「そう怒らないでよ、HAL」
「あ?」
「僕ね、今回よくわかったんだ」
「なにがだよ」
「HALがいなくなった世界なんて、ダメだってよくわかったよ。君がいなくなった瞬間に僕はなにも出来なくなってしまったんだ」
「お?」
「だからね、この一連の事件が終わったらさ、HALと一緒にいってもいいよ、僕」
HALは目をぱちくりした。
「まじで?」
「うん」
「ほんとに?」
「うん」
「あとからやっぱなしはダメだぜ?」
「わかってるよ」
HALは笑顔になった。
「ワナビーなら言ってくれると思ってたぜ!」
今、まさに胸の底にしんと沈んで動かない塊がワナビーの中にあるのだ。むせぶばかりの深い愛着を覚えていて、それは記憶と言っても良いくらいの無味乾燥なさほど思い入れがあるわけでもないものばかりだったワナビーの人生の中で、大切で大切でたまらないものなのは間違いなかった。それは食ってしまいたくなるような風景に対する愛着にも似ているのだ。
急流を下るボートにたとえるなら、ワナビーは今舵をとるのに忙しくて、両手がはなせないのだ。だからHALにオールを渡している。もしHALができないというのであれば、ボートは転覆し、ワナビーたちはみんなきれいに破滅するかもしれない。ボートから降りるのなら、もっと前に、流れがまだ静かなうちに降りるべきだった。急流下りを楽しもう。そして滝の上から落ちるときは、一緒に派手に落ちよう。そんな刹那的ではあるが確固たる関係性が2人の間には完全に構築されているのだと、ワナビーは自覚するに至っていたのである。
今まで何度も漆黒の闇の中で細いはしごの高みに登りつめて、一緒に地獄のカマをのぞき込むことがあった。目まいがするほどの熱気を顔に受けて、真っ赤に泡立つ火の海が煮えたぎっているのを見つめてきた。
そのたびに恐ろしくなって目を背けてきたが、ワナビーはHALの喪失の危機にひんした時耐え難い恐怖を感じたのである。自我の喪失にも直結しかねない恐怖だった。
「もう嫌なんだ、僕は。それと比べたらずっとずっとましだよね」
「......これで、グレイ・コードの実働部隊は壊滅したってわけだね」
「フェッチ事件の実行犯に対する報復はこれで完了したってわけだ」
ほの暗い満足感がワナビーを満たしていた。安っぽい感情ではあるが、これまでワナビーはすべてを捧げてきた。復讐するために。自らの手を血で汚し、人の心を捨てて獣のように。やられたら、やり返す、目に目を、歯には歯を。その納得のためだけに動いてきた。
復讐を繰り返したところで、憎しみの連鎖が続くだけだと姉は言っていたが、復讐心を糧に生きることを否定はしなかった。一矢報いることを理解してくれたからだ、納得はしていなかったが。
復讐とは開いた傷口と同じだ。見返すなんてばかみたいだな、とワナビーは思っていたのだ。見返すということは、相手と同じ価値観を共有するということだ。ピラミッドの存在を肯定するということだ。直接手を下してこそ全てはワナビーの思う通りに肯定される。
胸に沸騰する狂おしい復讐の一念を圧伏していることが出来なくなった瞬間から、いつかはきた未来だった。だがこうして実際にきてみると
なんとも呆気ない最期じゃないかと思う。
敵を憎む人間は討たずに生かしておくべきで、折あるごとに、恐怖と苦悶と人生の酸味をなめさせてやる方が敵討以上の敵討になる。その見極めはこれからやるのだ。アナザー状態となっているグレイ・コードの幹部や工作員、実働部隊のこれからはワナビーが握っているのだから。彼らの生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識したとき、ワナビーは優越感に満たされた。
初めて感じた達成感でもあった。
人を短時間で従わせるにはそれなりの荒療治が必要だ。羊を統率するには牧羊犬がいればいいが、浅薄な少年たちに言うことを聞かせるのには銃が必要であるといっていたのは、他ならぬグレイ・コードの連中だ。覚悟はあったはずだ、いつか報復として同じ目にあう覚悟が。
「やっと終わったんだね、HAL」
「グレイ・コードに関してはな。まだ親玉がまだだが」
「ああ、そうか、そうだよね。大元を叩かなきゃ何も変わらないんだ。終わりはしないんだ」
今日という日が永遠に続きますようにと、願わずにはいられない高揚感のまま、ワナビーは頷いた。日照りのときの雨のようにあり難い忠告だ。居心地のいい陽だまりをみつけた鳥のような心境のままで、頭だけは冷徹に現状を把握する。
「グレイ・コードの拠点を破壊する前に、ライトニングの暴走を止めなきゃ行けない」
「そうそう、リンクヴレインズの喪失はお前のまともな生活の喪失だからな」
「マインドスキャンが制御できない世界なんて、絶対に嫌だ」
動くとすぐに消えてしまいそうな、かすかな満足感を抱きしめて、燃えるような使命に燃える。ワナビーの幸福はもともと危ういバランスの上に成り立つ閉鎖された空間なのだから、せめて自分から守らなければならないのである。