If Story

▽ sideニコラス


主人から延泊の連絡が入ったのが昨夜日付が変わる頃。そして今、ニコラスは指定された時間通りにホテルの客室に向かっていた。

約束した時間であれば、スペアのカードを使い室内に入っても構わないと心得ている。

「失礼します」

一声かけて室内に足を踏み入れれば、中からは馨が常に身に纏う香りが漂い、ニコラスの鼻をくすぐってきた。

入ってすぐのクローゼットには馨のジャケットだけがハンガーに掛けられているものの、他の衣服は一切見当たらない。

浴室をちらりと覗き見れば、脱衣スペースには馨のベストやらシャツやらが脱ぎ散らかされたままになっていた。そしてサイズの小さな靴も転がっているのが確認できる。端に寄せることすらしない馨にはある種の潔さを感じる。

「ニック、こっちへ来て」

呼ばれるままに奥へと向かうと、そこには見るからに上機嫌の馨がソファに腰掛けていた。バスローブ姿であっても、まるで一国の王のような気品が損なわれないのが不思議なものだ。彼は生まれながらに人の上に立つ人間なのだろう。

「朝食は?」
「まもなくこちらに参ります」
「そう、良かったね葵。昨日ほとんど食べていないから、お腹空いたでしょう?」

馨は腕に抱いた息子を甘やかすように尋ねるが、ニコラスの目には食欲など無さそうなほど疲弊しているように見えた。

窓辺に散らばった葵の衣服、そしてガラスに飛んだ白濁の跡。乱れきったベッドのシーツ。ほとんど空になった潤滑剤のボトル。それらを見れば、昨夜は随分お楽しみになったのだと察しはつく。

今も葵はホテル備え付けのワンピース型のパジャマをなんとか身につけてはいるものの、ボタンは申し訳程度にしか留められていない。剥き出しの胸元や太ももは、ついさっきまで可愛がられていたことを如実に示していた。

ニコラスが馨と出会ったのは約五年前。前任が急に飛ばされたせいで、その代わりにと馨の秘書に任命された時は周囲にひどく同情されたものだ。

馨は頭がずば抜けて良い。肝も据わっているし、交渉術にも長けている。その点は誰もが彼をトップにふさわしい人間だと認めるが、問題はその気質と私生活だ。

馨が実の息子に異常なほど愛情を注ぎ、囲っている話は彼に近しいごく一部の部下の中では暗黙の了解となっていた。

だから秘書の仕事には、馨が息子と戯れるための時間を作ったり、環境を整えたりすることも含まれる。はじめはニコラスも大いに戸惑いはしたが、馨と葵の口付けを目の当たりにしても、何の変哲もない日常だと思うほどには感覚が麻痺してしまった。

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