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 翌朝、カナエが起きた頃にはランの姿がなかった。父も仕事でいない為、今家に残ってるのはカナエと母とマリアしかなかった。


 最近の父はやたらと政治の話をするようになった。ドイツとソ連が接近して、1936年に結んだ日独防共協定が破れられる事を心配しているらしい。
 

 紅茶を啜りながらカナエは思った。確かに姉の言う通りなのかもしれない。自分がどれほど不平を言おうと、人種と血液は変えられない。




 「どうしたの?」


 外に出る前に、カナエの不安を悟ったようにアルマが聞いてきた。母はいつも自分の表情を読むのが上手だった。



 「ううん、何も」


 カナエは笑顔を作った。それでも心配が拭えないアルマは娘を自分の方に向かせ、しっかり見つめながら言った。


 「何か嫌な事があったらすぐに言ってね」


 自分とよく似た青い目と見つめあっているおかげで、カナエは幾らか心が癒されていくのを感じた。


 「うん、ありがとう」


 今度は本物の、いつもの明るいカナエの笑顔が現れた。それを見てアルマは満足げに頷き、軽くカナエの背中を叩いた。


 「行ってらしゃい、このお守りと共に」


 アルマが昨日パイパーさんがくれたバイオリンを見やった。カナエは気を取り直して、ケースをしっかり抱いた。



 「行ってきます!」


 晴れやかな顔で外に出て大学に向かうと、すれ違う人々は皆「あっ」と言った表情で見てくる。声をかけられる前にカナエは足早に歩き去った。


 道端で談笑している、黒い制服の兵士の一団の側を通り過ぎる時は、カナエは無意識にその中にパイパーの姿を探した。


 残念ながらパイパーらしい人は見ないが、こちらを見つめて大きく目を剥いた兵士がいるのだ。


 特にその人に気を止めず、苦い失望を抱えて背を向けた途端。



 「サクライ!カナエ・サクライ!」


 驚いて後ろに振り返ったら、先の兵士がこちらに大股で近づいてきているのではないか。しかも自分の名を呼びながら。


 ぎょっとしてカナエは何も見てなかった事にしようと歩みを急がせると、兵士も離れた分あっという間に追いつけてくる。



 「待ってよ!」


 恐怖心に煽られてカナエはわっとかけ出した。幸い履いている靴はたまたま運動しやすい物だったので、カナエは力が尽きるまで全力疾走した。


 坂の下まで一気に走って後ろをチラッと見ると、兵士の姿は消えていた。巻いたのかと思ってカナエは思わず胸を撫で下ろした。


 

 「何なんのあの人...」


 スタミナをほぼ全部使い切ったせいで、これから大学で行われる実習を熟せるか心配になった。

 
 とにかく早く行かないと、角を曲がった所で急に先の兵士が出て来たのだ。



 「やあ」


 あまりにも唐突すぎてカナエが悲鳴を上げる寸前、兵士は慌ててその口を手で覆った。



 「静かにしてくれ!何もしないからさ」


 手を離せと訴えるカナエの住んだ碧眼を見て、兵士はやっと手を離した。


 自分でも不思議な事に、この日本人の両目に吸い込まれて行きそうだ。



 「ワオ...」


 「何の真似ですか!警察を呼びますよ!」



 兵士はまじまじとカナエを食い入るように見据える。その視線から逃れようとカナエは素早く後ろに飛び退いた。



 「あいつの言う通り、あんたのその目
。すんげえ綺麗...」


 「何を」



 強い警戒心を露わにしているカナエを見て、兵士は夢から覚めるように、妙に厳粛な表情で敬礼してくる。



 「俺はマックス・ヴュンシェ。よろしくな」



 握手を求めようとヴュンシェは片手を差し出したが、カナエがまだ警戒している事に気付いて気まずそうに手を引き戻した。


 「パイパーの友人、と言ったら分かってくれるだろ?」


 試すように言うとカナエが頷いてくれたから、ヴュンシェは続いた。



 「あいつが昨日部隊に戻った時の顔知ってるか?なんかウキウキしててさ、いつもは見ない嬉しそうな笑顔をこうやって作ってよ」



 当時のパイパーを真似るように、ヴュンシェは並びの良い歯をニヤッと見せた。



 パイパーさんも自分とあって嬉しかったのか。そう思うとカナエは思わずバイオリンのケースをきつく胸に抱きしめた。


 熱い塊が胸につっかえていて、それによる息苦しさを少しでも和らげようとしたのだった。


 耳まで赤くなっているカナエを面白がって、ヴュンシェはこの大人しそうな日本人を揶揄ってみる事にした。


 
 「うちのパイパーは気に入ったのかね?彼のお気に入りちゃんよ」


 
 するとカナエは紅潮させている顔を上げ、躊躇いつつも大きく頷いた。


 その妙に子供じみた仕草がヴュンシェの胸をくすぐった事を、カナエは知る由もなかった。


 会って間もないのに、既に自分はパイパーの事を大好きになっている。



 「まああいつもあんたのことを気に入ってるみたいだから、邪魔はしないな」



 ヴュンシェは少し考えてこう言った。



 「新聞より本人の方がよっぽど美人だし」


 「え?」


 あまりに直球なことを言われてカナエは目を大きく見開いた。


 その目からは見るからに、警戒心を凝縮した氷が溶けて行き、温度を帯びる川に変わった過程がわかる程だ。



 自分から揶揄って、そして自分が目の前の人に敗れるとは。ヴュンシェは微かな後悔を覚えた。


 駄目だ、これ以上この人を見てると友達を裏切る事になりかねない。


 
 そう思ったヴュンシェは思い直して、先までペラペラ喋っていた人と別人かのように、手短くカナエに別れを告げた。


 「あんたも大学あんだろ。俺はここで失礼する、会えてよかったぜ!」



 風のように走り去ったヴュンシェは、声をかける暇もなく戸惑っているカナエを一人その場に残した。

 


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