5



「久しぶり…」

海に向かってただそれだけを呟いた。
まだ海水浴日和ではない季節なので、海には誰もいない。

一度だけ強く瞼を瞑って、開けると涙が出そうになった。
海の香り、舌がしょっぱくなる感じ。
彼がここにいると思うとどうしようもなく苦しくなる。

燐は一旦花束を砂浜に置いて、ズボンの裾を捲くった。
それが終わると砂花に置いていた花束を持って海に流そうと足を海につける。
冷たい、まだ夏ではない季節の海は酷く冷たく感じて胸が苦しくなる。
こんな冷たい海に彼が眠っているのかと。

するとパシャリと水の跳ねる音が聞こえて、音のほうへ見ると自分とは違う足がいつの間にか隣に立ってた。

「よお」

「あんたは…」

剣を教えてくれた師匠でもあるシュラだ。
暑くなってきたといってもまだ半袖は寒いというのに、シュラはそれ以上に水着のような格好をしている。
燐は流そうとした花束を抱えなおして驚いた表情でシュラを見つめた。

「そんなしみったれた顔して墓参りか?」
「普通そういうもんだろ」

「あいつだったらそんな顔しないね」

あいつ、は誰だか分かっていた。
だから何も言えず、ただ黙ることしかできないから、持っていた向日葵を海に流そうと屈む。

「…っ!」

バシャッ、と荒い音を立てて冷たい海の水を顔に掛けられた。
反射的に顔を庇って、両手を離してしまった向日葵は海の上に浮かぶ。
一体何をするんだ、と睨むと彼女も怒りをあらわにした顔で燐を睨みつけ、また海を乱暴に蹴って冷たい海水かけてくる。

「いつまでそうしている気だ」

女性なのに、迫力のある低くドスの利いた声で言われた。
これで何度目だろうと燐は言われた数を思い出そうとして、だが途中で馬鹿馬鹿しくなってやめた。

「いつまで“奥村燐”でいる気だ」

「何言ってんだよ。俺はずっと燐だったろう」

そうだ、自分は奥村燐だ。
そう言い聞かせた。

本当は違うのに。

「ウジウジウジウジ…いつまでも兄貴に縋ってんじゃねえ!!」

怒鳴りつけるシュラはまた海水を蹴り上げる。
今度は庇うことはしなかった、そのまま冷たい海を受けて半分以上濡れた状態になってしまっていた。

「お前は“奥村雪男”だろっ!!」

燐は…いや、雪男は黙った。
眼鏡の無い視界はぼやけて、シュラの顔もどうなっているのか少し見えにくい。
だが目に力を入れると幾分かマシになって、彼女が酷く辛そうな顔をしていることにようやく気がついた。

「死んだのはお前じゃない、燐のほうだろ」

「違う、死んだのは…雪男のほうだ」

「だったら…」

シュッと喉元に長い何かを突きつけられる。

「抜いてみろ」

喉元に突きつけられた何かは、降魔剣「倶利加羅」だった。

「あいつが死んでから、私が保管していた」

抜いてみろと促される。

「お前が奥村燐なら、抜いた瞬間炎が出るはずだ」

挑発するように、鞘の抜かれていない剣先で顎を上げられる。
それをゆっくりと掴むと、シュラはあっさりと降魔剣から手を放しこちらを観察するように見つめた。

「……」

鞘に手を掛け、それを抜こうとするが既の所でピタリと止まる。
分かっていたのだ、これを抜いても自分には炎が出ないと。
だがそれを目の前にすると現実に引き戻され、自分は奥村燐、兄ではないと突きつけられるのが怖かったのだ。
自分には兄にあった悪魔の象徴である牙も尾もない。
だって自分は奥村雪男、炎を受け継ぐことなく生まれた弟だからだ。

「…いつまでも兄貴のフリをするんじゃない」

抜かない事に答えを出したと判断したシュラが口を開いた。

「もう一年だ」

そうだ、燐が亡くなってもう一年経っていた。
雪男はそのうちの半年間、兄である燐になっていた。

燐と同じ格好をし、同じ口調にして、燐が死んだという現実から必死に逃げていた。
死んだのは弟だと言い張った、死んだのは何も守れず今ものうのうと生きているあの愚弟だと自分に嘘をついた。

向日葵が海に流されるのを見た。
波に揺れて、そのまま遠くまで行ってしまうのはなぜか兄と連想させてしまう。

向日葵が似合うと言ったのは自分だった。
そして燐はどうしたらいいか分からないというような顔をして、だけど最後には笑ってくれたのだ。

「死んだのは…僕でいて欲しかった」

そうすれば楽だったのに。
兄を守れて死んだと安らかに眠れたのに。

雪男はそう呟いて膝をついた。
膝から海の冷たさが伝わる。
シュラに掛けられた海水が髪から顔に、それが染みて思わず涙が流れる。
けどこれは海の塩分のせいだけじゃないと、雪男には痛いほど分かっていた。

「勝手に一人で死んで…」

酷いよ。
シュラは何も言わない。
ただ泣き崩れる雪男を黙って見つめるだけだった。

兄である燐は雪男を庇って死んだ。
それはもうあっさりと、人間よりも強い悪魔のはずなのに燐は死んでしまったのだ。
降魔剣で心臓を刺されたの、雪男を庇って。
今雪男が握るこの剣で燐は死んだのだ。

「僕なんか庇いやがって…!」

雪男は剣を乱暴に抜いて、海に突き刺した。
剣を抜いても何も起こらなかった、炎は出ない。

雪男はただ泣いた。
何も出来なかった自分が情けなくて、自分を庇った兄が憎くて。
こんな気持ちを抱えるのが辛くて、自分が燐になったのだ。

「どうして、あのままでいさせてくれないんだ…」

ずっと燐のままだったら楽だったのに。
眼鏡を外せば顔は双子だったから完璧とは言えないが似ていた、今まで違うように見えたのは雰囲気のせいだ。
だから口調も真似て、態度も、服装も全部彼に変えたというのに。
炎も出ない、悪魔でもない、あの一生敵わないと思っていた兄でもない、そうやって突きつけられてしまえばそんな偽者、あっさりと崩されてしまう。

「あいつが…お前のこんな姿を望むと思っているのか?」

「思わないさ、こんな情けない姿…望むはずないだろ」

こんなことしても意味なんて無いし、ただ負った傷口を誤魔化すだけだ。
だが雪男にはこれに縋るしかなかった。

弟を殺して兄を生かす。
その方法でしか自分を救えなかったのだ。

「兄さんがいないなら、自分が生きている理由さえ見つけられない…」

涙が海に一粒落ちた。
燐が生きている時は幸せだった。
喧嘩して仲直りして抱きしめて手を繋いで言葉を紡いで、たくさんの生きている理由を見つけられた。
だが今は何もない。

「雪男」

唐突に名前を呼ばれ顔を上げる。
シュラは悲しいでもなく笑っているでもない、ただ無表情に雪男を見つめていた。

「立て」

表情と同じで無感情な声はなぜか酷く迫力があった。
言われたとおり立ち上がるといきなり肩を掴まれ何だと思う前に額に強い衝撃がくる。
頭突きされたのだ。

突然のことだったのでまったくの無防備だったそれは星が頭の上を飛びそうになるほどの威力に思えた。
目眩を覚えそうになるぼやけた視界でシュラの顔を見た。
ジュラはまだ額をつけたまま真っ直ぐに強い瞳で雪男を見つめ、肩を掴んだまま離さないでいる。

「それならあいつのように強く生きろ」

ググッと肩に指が食い込んで痛むが、雪男は身じろぎもせずにそれを受け入れていた。
目の前にあるシュラの顔は雪男を捕らえて離さない。

こういうところはあの兄と似ている。
雪男はそう思った。

兄は真っ直ぐに目を見る人だった。
それはもう見た瞬間捕らえられ、そのまま一生離してくれないんじゃないかというほど強い眼差しで。
だからどこかシュラと兄が被って見えたのだ。
まるで兄にそう言われているような錯覚に陥る。

「雪男、燐のように生きてみせろ」

それだけを言うと、シュラは肩を掴んでいた手を放し雪男を解放するとさっさと海から出て行く。
こちらに背中を向ける彼女は顔を少しこちらに向け、薄く笑った。

「それだったら、あいつらも燐も、心配しないだろ」

シュラはそういい残し濡れた足のまま雪男の前から去っていった。
一人残された雪男はただ呆然と立ち尽くすだけだった。

生きろと言われた。
強く、兄のように生きて見せろといわれたのだ。

それは雪男の中で初めて出た言葉だった。
兄になって生きると、兄のように生きる、では到底違う。
それは自分が出した答えよりも何十倍も難しく大変なことだからだ。

「どうすればいい…?」

燐は、燐は死ぬ前に「燃やさずに海に沈めて欲しい」と言った。
それはきっと彼自身が炎だったからだ。炎を絶やすには水が必要だ。
燐にもそれは分かっていた。
だから海に沈めて欲しいと言ったのだ。

悪魔としての炎を消して、人間として眠るために。

「兄さんのように生きるなんて、僕には到底できない…」

独り言のようにぼやいて、雪男は海を見た。
向日葵はもうとっくの前に海に沈み、姿形さえ見えない。
まるで燐の死体を海に流したときのようだと雪男は思い返す。

それがまた雪男を苦しめて強く瞼を閉じて泣いた。
するとパチャリと膝に何かが張りついたのを感じ、瞼を開けると花が張り付いていた。
向日葵。

先程自分が流した向日葵が一本だけこちらに戻ってきたようだ。
張り付いたそれを拾い、ただ見つめる。

「あなただけを、見つめる…」

向日葵の花言葉。
雪男はそれを思い出し、無意識のうちに声に出していた。

まるで兄がそう言ってくれているみたいで、いつの間にか涙は引いていた。
別に、ただ波で花が戻ってきただけだ、偶然だろう。
だけどそう思おうとしても、雪男にはなぜか燐が自分のために流してくれたような気がしてしかたがなかった。
そう思うと救われるからだ。

だって、まるで生きろと言われているみたいで。
たったこれだけのことで、救われてしまうなんて。
雪男はまた別の涙を流す。

「やっぱり、兄さんは酷い人だ…」

最後まで自分に苦しい道を歩ませるのだから。
そう思って、雪男は立ち上がった。

立ち上がり、真っ直ぐに海を見た。
この海の底に兄が眠っている。
きっと自分が死んでも同じ場所に行き着くだろうと妙な自信がある。

海水のせいで萎れた向日葵を握り締め、ずぶ濡れの格好で海に出ようとしたが突き刺したままの降魔剣を思い出す。
これをどうしようか少し迷ったが、シェラはこれを取ることなく去ってしまったのだ。
好きにしていいということだろう。

剣を抜いてそれを眺める。
この剣で兄が死んだのだ。
自分の武器で自分が死ぬなんて皮肉なことだと笑えないが笑ってしまう。

「これぐらい、いいよね」

雪男は向日葵を片手に、もう片方には降魔剣を持ち海から出た。
きっとこの剣は使うことは無いだろうと雪男は思った。
だけど、これを見て兄が近くにいるということぐらい感じていてもいいだろう。
まだ雪男には一人で生きていく恐ろしさに立ち向かうこともできない。
今回のように縋って生きていくようになってしまうだろう。
だから自分が一人でも強く生きていけるようになったら、この剣を兄の元に返そうと思ったのだ。

降魔剣を強く握り締める。
それまでの間、これを、兄と繋がっていた剣を借りておこうと。

「生きてみるよ。兄さんのぶんまで」

振り絞った声は雪男自信驚くほど震えていた。
いくら虚勢を張ってもやはり自分はまだ弱いままだと実感した。

とりあえず、いま自分がすべきことがある。
家に帰り、風呂にはいること。
兄の服ではなく自分の服を着替えること。
引き出しにあるストックの眼鏡を掛けること。
そして燐に縋る昔の自分でもなく、兄である奥村燐でもない、雪男として生きていくこと。
やることはたくさんあった。

とりあえず、すべきことは全て家に帰ってからだと雪男は息巻く。
海を一度だけ振り返り、帰り道へと足を向かわせる。





波が揺れる。
しばらくすると岸とは離れた場所で向日葵が浮かんでいた。
それが一本、二本と海の中に沈んで飲み込まれていく。

向日葵は太陽を見つめ、最後の一本も海に沈んだ。

花は眠りにつくあの人の元へ。








向日葵が死んだ日












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