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 しゃらんと錫杖の高貴な金属音。短く連なったそれはさらに続く三蔵の言葉とともに駆けつけた双蓮の足を止めた。

「朱泱――何してんだ、あんた」

 冷え切った声だった。そして双蓮の体からまた血が引いていく。
 頬は削げ落ち、誰より逞しかった身体もずいぶん線が細くなり角ばった。それに加えただの人間とは思えぬ凄まじい妖気はもはや妖怪の域に達しそうなほど禍々しい。唯一三蔵を見据える目だけは変わらず真っ直ぐと揺るぎない意思を宿していた。ただその矛先は違っていた。
 廃れ変わり果ててしまった朱泱に双蓮は思わず後ずさる。あの朦朧とした中で見た札はやはり朱泱のものだった。

「双蓮」

 青ざめる彼女を咄嗟に水櫁は朱泱から見えないように後ろに匿う。

「お前は……」
「一応言っとくけどこいつら殺してもバカが減るだけだぞ」

 朱泱のほうもよもやこんなところで……と驚きを隠せず絶句。一目見たときに驚いた三蔵はもういつもの冷静さを取り戻し、あいかわらず雑に言い放った。
 ぶっきらぼうに聞こえる言葉は暗に妖怪である悟空たちを擁護するもの。そう捉えた朱泱は抑えきれないと高らかに笑い声をあげる。朱泱は、あんなふうに笑うやつだっただろうかと双蓮は顔をしかめる。

「そうか!! 噂には聞いていたが……まさかこんなところで出会(でくわ)そうとはな。『今代の三蔵法師には不逞の輩がいる。下賤の民を従者に選んだと』――」

 三蔵は黙ったまま静かに朱泱の言葉を聞いていた。

「『何をしている』だと? それはこっちの台詞だ、玄奘三蔵。そしてお前もいるんだろ、八依」

 その呼び名に双蓮の寒気と朱泱に対する戦慄が助長させる。
 彼は今まで何も言わなかっただけで双蓮の存在にはとっくに気づいていた。そしてあえてこのタイミングで彼女の名を読んだのだ。もう匿いきれないと水櫁は身を引き、正面から2人を引き合わせた。

「先代三蔵を殺めたのがそいつらの同族だということを忘れたはずはあるまい……!!」

 まるで獣だと思った。妖怪と何ら変わらないおぞましさ。あの日、野生の熊など比ではない。双蓮はただ彼を睨みつける。三蔵は、朱泱の言葉に

「人間変わるモンだな朱泱。あんたの口からそんな言葉が聞けるとは」

 微塵にもあの頃の面影はない。三蔵の無感情な言葉に変わったのではないと否定した。

「朱泱は死んだんだよ」
 ここにきて少しだけ人間らしさが垣間見えた。ほんの一瞬だけ。

「お前らが寺を去った十年前のあの日から……!!」



 光明が殺されたあの夜。どんなに願っても時は戻ることはなく、平等に朝日が降り注ぐ。血まみれの光明に命の温度はなかった。傍には三蔵――彼の愛弟子である江流だけがおそらく光明の返り血を浴び、呆然と立ち尽くしていた。
 ただ一言「守れなかった」と初めて涙を流し。

 江流が寺の本堂に呼び出される前。いや夜が明けようとする前に光明から授かった双蓮の名を背負い、ひとり山を降りていた。
 夜盗が去ったあと、八依はまずこの世で心を許した唯一無二の存在を目の前で殺されたことに今まで感じたことのない憎悪が全身を飲み込んだ。そしてただ守られるだけだった江流にも。
 何故。
 この寺で一番法力長けていた江流が何もしなかった。アンタが動けば、こんな結末を迎えることもなかったはずだ。行動しないというのもひとつ行動である。
 でも一番憎むべきは己だと、八依は冷静に受け止めていた。
 彼に責任を押し付けるのは今までの僻み、妬み、劣等感が生み出した産物。そうやって正当化したい己がいないわけではない。むしろどんどん膨らんでいく。

「……そんなことしてなんになる」

 光明が最後に残した優しい眼差しが、膨れ上がる醜い風船をなんてことはないとぱちんと割った。部屋を出て行く一瞬、江流を見る。このままではきっと彼はこの責をひとり糾弾される。けれど、そんなことで潰れるような人間じゃない。凛と天に伸びる背中は決して揺るがない。彼は光明三蔵法師の愛弟子だ。己とそう変わらない華奢な体は、まだ未熟かもしれないが、その双肩はきっと誰よりあの経文をかけるのに相応しくなる。

「あたしはもう、あの人の弟子ではいられない」

 江流こそ光明のただひとりの愛弟子だ。
 ここにきて初めて双蓮は玄奘三蔵を受け入れた。

 その後、双蓮は大僧正の元に駆け込み、すべて洗いざらい話した。玄奘を庇うわけではないが、自分は罰せられるべきだとも主張した。下る罰を待つ双蓮に大僧正は、まず双蓮を破門に処すると言った。僧としてはもっとも重い罰に当たるが、もとより自分を熱心な尼僧と思ったことはなかったので、これはただの前座だと察する。本命を前に大僧正は立ち上がり、まだあの惨状が広まらないうちに双蓮をある場所へ案内した。
 宝物庫の奥。隠し扉の先には殺生を禁ずる寺には不必要な武器。妖怪から守るためと言ってもそれは人間も殺せるもの。

「経典を取り戻すのじゃ」
「それが、罰ですか」

 己が罰を望むなら、それは己自身で見つけることじゃ。
 諦めぬことは許さぬ。死ぬことも。
 餞にひとつ持って行きなさい。

 双蓮が選んだ銃は、奇しくも後に玄奘が手にするものと同じ型であった。



 朱泱は、双蓮と三蔵が去ったあとに再び起こった惨劇をここぞとばかりに叩きつけるよう吠えた。

「奪いそびれた『魔天経文』を狙って、お前が持ち去ったばかりとは知らずにな!!」

 そこには魔天経文を持っていった三蔵だけでなく、双蓮、お前も同罪だと言わんばかりに。三蔵は驚愕とともにつっと冷や汗が流れた。双蓮は今まで見たことのないような悲愴と絶望が入り混じった瞳が朱泱一点に集中する。
 その後、彼が取った行動にさらに2人の表情は深く、突き落とされた。

「……まさか、“阿頼耶の呪”……!?」

 『禁じ手』と呼ばれる呪符。
 この世の頂点に立つ光明三蔵やそれに次ぐ三蔵ですら太刀打ち出来なかった妖怪たちをどうして朱泱たちが倒せるだろうか。
 妖怪を超越するほどの法力を手に入れた朱泱は見事襲ってきた夜盗群を打倒した。己のすべてを代償にして。
 その証拠に彼は半ば喜びながら罪の証を見せつける。右胸に貼られた札は、もはや同化しており、そこから伸びる血管――根は完全に彼のすべてを食らいつくさんともうひとつの心臓となって激しく脈打っていた。

「……朱泱」

 一目見ただけでもう彼は手遅れだとわかっていて双蓮はそれでも彼の名前を口にした。彼への哀れみではなく、己の罪悪感に矢印が向く。

「この10年間……なんの罪もない妖怪どもを殺しまくってきた。この札と……この札がもたらす激痛から逃れるために。妖怪どもがトチ狂って人間を襲い始めた後はこんな俺でも救世主扱いだ。笑っちまうよ……!!」と罪を告白する。それを罪とも思わず、ただ高笑う。

 宿の店員も口にしていた“救世主”。そも“救世主”とはなんだろうか。“救世主”なんてものはこの世に存在するのか。そんなものは立場・都合によって簡単に覆されるものだ。勝てば官軍、負ければ賊軍。たまたま異変の影響で妖怪が見境なく人間を襲うようになったいま、六道は間違いなく人間にとっての“救世主”だ。

「イッちまってるよコイツ……。――どっちが妖怪だってェの!!」
「ハッ!! どっちが妖怪か確かめようじゃねえか!!」

 もはや意味のない昔話は終わりだと再び札を構え、六道が悟空たちに容赦なく襲いかかる。この狭い調理場では回避も悟空や悟浄の武器を振り回すには圧倒的不利だ。すぐさま外に出て六道を迎え撃とうにも雨はいっそう激しさを増し、少し先の人影も見えない。
 六道の体は呪符の加護で触れるだけで、皮膚を焼かれる。悟空がいつもの力技で攻めようとするも雨でどろどろになった地面がそれを許さない。

「……おい、江流」

 いまの2人の目に、彼はどう映っているのだろうか。
 4人が苦戦を強いられる中、双蓮は三蔵をあえてそう呼んだ。三蔵は双蓮を一瞥しただけで暖を取るように両手を袖に入れて無言を貫いた。双蓮はそれ以上何も言わなかった。双蓮の腹はもう決まっていた。六道に真実を叩きつけられ、打ちのめされた八依はもういない。ここにいるは双蓮。

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