名前を呼んでよ!
それがいつから明確に変わったのかはもう覚えてない。ただ名前を呼ばれるたびに妙な違和感を感じ、ようやく気づいたのは高校に入り、夏休みを前にしたある日だった。
「おい千莉、先生が補習の説明会サボったらしいな?」
数日後から待望の夏休みを迎える。新学校ではないので夏期補習はわずか1週間足らずの優しいもので、すでに夏休みだ!! 模擬戦するぞ!! と米屋なんかはすっかり夏休み気分だ。
ところがあまりにも酷い成績の千莉はボーダーに所属していてもカバーできないほどで、特別補習を受けることになっていた。
「ええーあれほんとなの?」
「嘘なわけあるか」
「だってここ進学校じゃないでしょ? もう少し甘く見ても……」
「甘く見てもダメだったからあるんだ」
2人は幼い頃からの付き合いで、三輪はいつもなんとなく、どうしてもこの幼なじみが放っておけない。いやだーと喚く千莉に文武両道できてこそのボーダーだろう、とくどくど言い聞かせる。
しかし米屋と同じく模擬戦ヒャッハーな千莉に聞く耳などない。
「ああもううるさいわね!! あんたはあたしのお母さんか!!」
「俺はお前の成績を見るようにと伊吹さんから言われてるんだ」
「うえっ!? マジ!?」
伊吹とは千莉と同じ深槻支部の先輩で、三門大学の法学部の強者だ。そんなほぼ上司命令に等しい三輪の言葉に千莉は頭を抱える。
「あああああそれでもあたしはやだ!!」
「そんな事言っても補習は避けられないぞ」
「うう馬鹿三輪!! バカタレ!!」
「なっ千莉お前――」
そのときはたと気がついた。
「おい、いまなんて言った?」
熱くなったと思ったら突然冷めた声で言う三輪に千莉は「はあ?」と返す。
「な、何って、バカタレだけど?」
「馬鹿野郎違うその前だ 」
「馬鹿言うな! え、ええっと馬鹿三輪……?」
違和感が確信に変わる。この際馬鹿馬鹿言ってるのはお前だろうというツッコミは置いておく。
「そうそれだ」
「何がそれなのよ」
「お前、なんで三輪なんだ」
わけがわからないというように千莉の頭にハテナが浮かぶ。「三輪は三輪でしょ」と顔をしかめる。
「いままでずっと秀次だったろうが」
そこでようやく合点が言ったのか、ぽんと手を打つ。
「別にあたしがなんて呼ぼうと勝手じゃん」
「それはそうだが……」
言葉につまる。確かにそのとおりなんだが、なんだろうこの胸に溜まるもやもやは。気分が悪いというべきか、とても居心地が悪い。
「……嫌だ」
「は?」
「その呼び方は嫌だと言ったんだ。秀次と呼べ」
「な、何様のつもりよ!? こっちは親切心で変えてやったのに」
「親切心?」
するとはっとしたように千莉は目を見開き、そして顔をしかめる。
「だ、だって名前呼びだとまるでつ、付き合ってるって思われるじゃん」
奈良坂ほどではないが、イケメンの部類にある三輪を千莉がそう呼んでると千莉のことを好きでもないのに勘違いされて、三輪に迷惑がかかってしまうと言う。
「だ、だから――」
ばんっと顔面に何か投げつけられ、それが千莉のカバンだと気づいた頃には彼女は逃げた後だった。
いまにして思えばこれがきっかけだったのかもしれない。
いつも何かと世話を焼こうする千莉が初めて距離をおこうとした。
もやもやは寂しいと言う気持ちに変わり、そして耳を真っ赤にして逃げていった千莉がいとおしいと思ってしまった。