○○○○○を君に



(!)あさりさん(ビデオテープ様)の論破主、河部蘭ちゃんと大和田くんのお話(名前変換機能はついておりません)。


※全五話の短編集となっております。
※ゲーム本編より前で、普通に希望ヶ峰学園生活を謳歌している前提です。
※入学前の前日譚、幼少期、二人の出会い等、捏造のエレクトリカルパレードです。
※またメインの和田蘭以外に腐川さんと蘭ちゃんしか登場しない話(内容は和田蘭)があります。



「夢じゃなかった!!」

▽賽は投げられた。▽

「テメーはそういうやつだよな……」



 あれは夢だったんだ。

 全国、いや世界最高峰と冠しても過言ではない希望ヶ峰学園の通知が届いてしばらく。その封を切った時は慌てふためき、死因が胃痛で危うく先立つ不幸をお許し下さいになりかけたが、案外日常はあっさり戻ってきた。通知以降、希望ヶ峰学園から一切なんの連絡も来ない。だから夢か幻のものだと思って、あいもかわらず過ぎていく現実に風化されたものだと思ってた。

「蘭、アンタ宛に荷物届いてるわよ」
「へ?」

 学校から帰ると、居間にいる母がこちらに見向きもせず言った。二時間サスペンスにありがちな海をバックに犯人と対峙するクライマックスシーンに母はそちらから目を離さず、「ほらそこ」と部屋の隅に置かれた荷物を指さした。
 何だろうか、通販を頼んだ覚えはないし、父への鑑定依頼品ならまだしも自分に直接来ることはない。だいたい私が鑑定する物はは父経由からで、父同伴で行われるもの。
 首をかしげながら荷物を観察する。高さはさほどなく、面積の広い長方形のダンボール。ダンボールに目立った汚れや傷はない。しかし配達元がわかるようなロゴやマークの類もなかった。外見から有益な情報はあまり得られない。しかしこの荷物が放つオーラがダンボールに梱包されていてもひしひしと強く感じる。何かとんでもないものが入っていることだけは第六感が告げていた。
 いよいよと言わんばかりに配達表を見て素っ頓狂な声を上げた。
 近くにいた母が「事件か!? 死体か!?」などと完璧テレビに毒されていたが、そんな声も耳に入ることなく、通学鞄を放り出し、自分が抱えるには少し大きいそれを何とか持って大声で言った。

「紋土くん家行ってくる!!」

 春一番の如く家を飛び出した。



 呼び鈴など意味はない。勝手知る大和田家の玄関に一際大きい靴があるのを確認すると、そのまま彼の部屋へ一直線に駆け上がった。

「紋土くん!! こ――うごっ!!」

 バァンと開け放った扉が勢いのあまり跳ね返って丁度ドアノブが自分の背中に当たる。それと同時に、素晴らしいと絶賛したくなるほどのクリティカルヒットっぷりに抱えていた荷物ごと倒れそうになり、持ってきたこれだけはと庇うためにと咄嗟に体を捻って来る衝撃に備えた。

「ったく、相変わらずそそっかしい奴だな」
「も、紋土くん」

 間一髪のところで部屋の主で、私が今一番会いたかった紋土くんが抱きとめてくれた。ナイスキャッチ! と言いたいところだったが、そのあとはぺいっと雑にベッドに放り投げられる。幼馴染、というよりかお互い腐れ縁と思ってる関係だからこその扱いだが、

「ちょっと女の子の扱いがなってないんじゃない!? そんなんだからモテないんだよ」
「ケッ! それを言うなら、少しはその女の子らしくオシトヤカに振舞ってみろよ」

 そう言われると返す言葉はない。ぐうの音すら出なかった。いやまあ確かに見た目による第一印象は悪いし、そのくせ中身は正反対に極度なビビリで臆病で小心者な上泣き虫毛虫、誇れるものは骨董品に対する地〜味ぃな知識と観察眼ぐらいで……。――って、

「そういうことじゃなくて! 紋土くん見て!! これ見て!!」
「ちょっ近い近い近すぎて見えねえどころか押し付けすぎて痛ぇわボケェ!!」
「げぶっ」
「あ、悪ぃ、ちょっと力入れすぎた」

 見事に押し返され、ぼふんとベッドに紋土くんと一緒に覆いかぶさるように倒れこむ。紋土くんの腕が私の頭の両側に付き、至近距離で見つめ合い、そして鏡写しのように頬を染める2人――なんて青春真っ盛りの少女漫画的展開へ流れる訳もなく、私はにべもなく「紋土くん邪魔」と容赦なく彼の脛を蹴った。物理的な喧嘩が日常茶飯事の彼にとって私の蹴りなど蚊に刺されるより軽いものだろうに、先ほどの私と同じように短い悲鳴を上げて床にどかりと腰を下ろした。
 幼少期から腐れ縁の私たちに今更『ドキッ』だの『キュン』だの、ときめきなんて天地がひっくり返ってもない。ないない、ないわー。断言できる。
ただ“腐れ縁”と言っても少し語弊がある。お互い嫌悪するような仲ではないし、それなら私はこんなに堂々と紋土くんの部屋にずかずか入ってこれない。私たちの腐れ縁は切っても切れない縁で、良き悪友という表現も案外的を射てるのではないかと思う。
 話を戻そう。冷静を取り戻すために深呼吸を一つ、それから改めて紋土くんと向かい合うように床に座り、持ってきた荷物を彼の前に置いた。

「これ、紋土くんのところにも来てると思うんだけど……」

 私の家と紋土くんの家はご近所なのでまとめて届いている可能性が高いと見ていた。紋土くんは私の荷物の配達表にガンを飛ばすかのごとく、深いシワを寄せて見た。それから「ああ」と理解したように短い言葉を残して一度部屋を出た。帰ってくるのにもそう時間はかからず、私よりも随分大きい荷物を軽々と片手だけで持ってきた。

「希望ヶ峰の制服だろ?」

 そう私と紋土くんの下に届いたのは希望ヶ峰学園の制服だった。自宅でこの配達表を見たとき、あの通知はドッキリでも何でもなく本物だったのだと思い知り、身の毛が立った。本当にそんなすごいところに自分が行けるのか、うまくやっていけるのか不安がないわけではなかったが、それ以上に紋土くんとまた一緒な学校に通えることへの嬉しさが優った。そして一刻も早く彼の試着姿を見たくてここまで来たのだ。

「ね、ね、せっかくだから着てみようよ」
「メンドクセーなぁ」
「そんなこと言わないでさ〜紋土くんきっと似合うって! それに試着で色々直さないところとかあるだろうし、ね?」

 色仕掛けなんてものではないが、お互いに何だかんだ押しに弱い、甘いことを知っているので勝負は決まっている。思ったとおり、紋土くんは溜め息と後頭部を掻くことで面倒くささを醸しつつ、「わかったよ」と白旗を上げた。

「その代わりテメーも着ろよ? オレだけなんて不公平だろ」
「……ああ、まあそうだよね。一応そのつもりで持ってきたわけだし」

 という訳で希望ヶ峰学園制服のお披露目会と相成った。
 さてそれじゃあ着替えようとしたとき、何やらぎょっとしたように紋土くんから待ったの声がかかった。

「ん? 何?」
「……オメー、なに当然のように着替えようとしてんだ?」
「は? どゆこと?」

 今来ているブレザーを脱ぎ、緩めていたネクタイを一息にしゅるりと外してシャツのボタンに手をかけてるところだった。あれ、何か止められるようなことなんてあったかな? そう首を傾げると、紋土くんは少しの沈黙の後に顔に手を当ててため息を吐いた。それはもう深く深く、呆れるように。これは、あからさまに『コイツ馬鹿だ』と思われてるやつだ。

「いいか、いくらオレらが腐れ縁で、オメーが何の躊躇いもなくオレの部屋に入ってきて何もなくても、オレは“男”で、オメーは“女”だ。中身はどうあれ」
 ここまで言えば言いたいことはわかるよな? という目を向けてくる。なるほど、わかったよ紋土くん。これはつまり――

「きゃー紋土くんのえっちぃ!!」
「バカ!! ちげーよ!!、ちげーから!! 誰がテメーみてーな幼児体型に興味あるかってんだ!!」

 それはもう真っ赤な顔で怒鳴ってくるが、いつもより全然覇気がない。敢えて言う必要もないけど、もちろん冗談。ただの戯れ。それを本気と受け取ってこの反応とは、見た目とは裏腹に可愛くて、正直笑いが止まらないよ。若干ものすごーく失礼な言葉が聞こえたようなきもするけど、そのウブな反応に免じて水に流そう。

「でもさ、正直今更じゃない? ほらお風呂だって何度も一緒に入った仲じゃん?」
「テメーは何年前の話を持ち出してきてんだァ!? 今と昔じゃ全然ちげーだろ! ジョーシキってのがねーのかオメーは」
「そりゃあ、あんなに小さかった紋土くんはあっという間に私の身長追い抜いて、今じゃ族長までのぼりつめたけどさ〜。それに下着の上に防寒でヒートテックとか短パン履いてるし、全然問題ないって。ていうか、紋土くんの口から常識なんて言葉が出てくる日が来るとは……」

 それに紋土くんはそういう人間じゃないし、万が一なんてことにはならない。そういう関係になることもない。私たちは腐れ縁でそれ以上でもそれ以下でもないのだ。だから紋土くんが気にする必要なんてこれっぽっちもないのにね。

「……クッソ! 付き合ってられっか!!」

 そう吐き捨てて紋土くんは私を残して制服の入った荷物を持って部屋を出て行ってしまった。バァンと耳を塞ぎたくなる音が部屋に響き終わった頃、ようやく私シャツのボタンを外す作業に戻った。
 今のって私が悪いの……?



―――――――――


「今でも鮮明に思い出せるなぁ」

▽四つ葉にはない幸せ▽

「……ぶぇえっくっし!!」



 リフレッシュ代わりに持ち込んだ小説を読もうとしたが、イマイチ集中力が続かない。本を読むときは静かなほうがいいに決まっているが、自室はあまりに静か過ぎてほんのちょっと、ちょーっと虚しい。ということで。一度本を閉じ、それを片手に程よく人の気配を感じられるようなところに移動しようと自室を出た。
 食堂なら誰かしらいるだろうし、狭すぎず広すぎない空間。それに手にしている小説は、メインの2人の距離が近づくきっかけが紅茶なので、それを飲みながら飲むのも我ながらいい考えだと思った。

 しかし現実はそうでもなかった。
 
 憩いの場として賑わうことの多い食堂だが、今日は誰ひとり居らず、物音一つしない。みんな自室か娯楽室とかで遊んでるのかなぁ。
 周りはみんな雲の上のような人ばかりなだけど、私感ではある程度馴染んできたのではと思う。だが、あくまで誰かからのアプローチあってこそ輪に入っていけるのであって、自分からはとてもじゃないが出来ない。よって娯楽室へ行ってわいわいしてる中に「私も入れてよ!」なんて言えない、コミュ障の性である……なんと悲しきかな……。

「いや何をネガティブに捉えることがあろうか河部蘭!! 逆に言えば誰にも邪魔されず静かに、そして優雅に紅茶を片手に腐川さんの本を読めるんだぞ! そんな至高のひとときが過ごせるのだ!」

 ふはははは! ははは!! ははは、はは、は、ははは……。
 せっかくのポジティブシンキング高笑いはあっという間に失速し、響く価値なしと食堂に否定されてすぐに静寂が戻ってきた。誰かにこの惨状を目撃されなかっただけでもよしとしよう……。
 万が一ほかの人が来た時のために入口から一番遠いところに本を置き、紅茶を淹れに行く。
 紅茶の挿れ方なんてわからないけど――と思ったら大間違いである。例の本には紅茶の淹れ方が事細やかに、そしてこの上なく美しく描写されている。もう何度も読み返したことか。家でも何回か淹れたこともあるので、ど素人よりかは美味しく淹れる自信がある。と今度は心の中で力強く語る。
 ちなみに自信満々に母と紋土くんに特別に振舞ったこともあるけど、市販の紙パック紅茶と大差なくね? と言われたことは今も許してない。これだから大雑把な人間は! 唯一父だけは「とても美味しいよ」と言ってくれた。鑑定の同伴や鑑定を試されてる時は厳しい父だが、一人娘ということで普段はとても甘い。それで世辞で、全く鑑定とは関係ないにしても師である父に褒められるのは素直にものだ。
 ぴぴぴぴっ。

「おっと、もうそんな時間か」

 おしゃれなティーポットから茶葉を取り出す。小説を読む上で一杯だけでは物足りないので、そこそこの量を淹れた。しかしそのままだとあっという間に冷めてしまう。そこで登場するのがティーコジーと呼ばれるポットをすっぽり覆うカバーである。これをかぶせておくことで保温性が高まるのだ――これも小説の知識。さすが希望ヶ峰学園、こういう細やかな備品にも抜かりがないと全く関係ないところで感心する。
 それとカップとミルク、砂糖類をお盆に乗せて戻る。
 ポットの口からから流れ落ちる紅茶の水色(すいしょく)は透き通った美しい赤褐色。同時に広がる芳しい香りに思わず小説の一場面を思い出さずにはいられない。ふうふうとまず何も入れずに一口。茶葉そのものがいいため、同じ淹れ方でも味わい深さは完全にこちらのほうが美味しい。えぐみが少なく、するすると飲めてしまう。このまま一杯味わってから本の世界に没入してもよかったが、その前に紅茶の香りに混じって頭にピンッと来る匂いがした。

「はっ! この独特の匂いは!!」

 私が椅子を倒すほどの勢いで立ち上がるのとほぼ同時に食堂に入ってきたその人物は私を見てぎょっと上半身を反らした。
「腐川さん!!」
 今から読もうと思ってた愛読書の作者ご本人の登場に心拍数はパァンッと跳ね上がり、世界が俄かに輝き出す。まさかまさかだ! 心の尻尾が千切れんばかりに振っている。
 そんなキラキラした私とは対照的に腐川さんはあからさまに汚物を見るような目をしている。それでも私は大ファンである腐川さんの視界に入れただけでも幸せすぎてそんな些細なことは全く気にならなかった。

「執筆がひと段落したから少し休憩ついでに喉を潤しに来たのに……」

 「うぎぎ、失敗したわ……」と腐川さんの疲労の色濃いため息が漏れた。
 私がここにいる限り腐川さんはすぐに出て行ってしまうだろう。偶然会えただけでも今日は最高だ。だからその喜びを胸に私は腐川さんのために素早く本は脇に、カップは盆に移してそそくさと自分の部屋に戻る準備を始める。腐川さんのためならなんてことはない。
 ――ところが現実は小説よりも奇なり。
 誰の言葉か忘れたけど、なんと腐川さんは出ていくことなく、「ちょちょっ、ちょっとあんた待ちなさい!!」とずかずか食堂に入ってきた。腐川さんの予想外すぎる行動に「は、はヒっ」と調子の外れた声を上げ、出ていこうとしたそのままの体勢でぴたりと止まった。

「い、いいこと、まずそのお盆をテーブルに置きなさい」

 テーブルを挟んで腐川さんが怖々と命じる。腐川さんの大ファンである私に拒否の選択肢など始めからない。むしろ嬉々と、十分にしつけられた犬のように腐川さんの言葉に従う。置いた後は、ポットなどが乗ったお盆だけを腐川さんのほうへカップの紅茶が溢れないように移動させた。そして私に一切動くな喋るなと言いつけ、腐川さんはまた恐る恐るお盆を自分の手元まで引き寄せた。
 そこから一部記憶が飛んでいる。
 辛うじて覚えているのは腐川さんがあの小説のヒロインのように一瞬頬を染めたことだけ。
 気が付けば、次の命令が出ていた。またしても愚直にそれに従い、私はキッチンから新しいカップを持ってきた。そ、そしてなななな、なんと、そのカップに紅茶を注げと言われた。つまり私が淹れた紅茶を、腐川さんが、飲む……私が! 淹れた! 紅茶を!! 腐川さんが!! お飲みになる!!
 先ほどのように感情のない冷静な兵士のようにただ命令に従っていればよかったのに、腐川さんの言葉の意味を知ってしまった今、もう無心ではいられなかった。
 手足はがくがくと震え、目も痙攣を起こして世界がブレる。体中の毛穴という毛穴から冷や汗が止まらない。

「な、何をしてるの!? それともあたしに飲ませる紅茶なんてないって嘲笑うのね!?」
「そ、そんな滅相もございません!!」
「それなら早く淹れてちょうだい!」
「ハひぃっ!! たダイま!」

 本当に頭が混乱渦巻き、あまりの激流っぷりに逆に体は冷静さを取り戻し、何とか紅茶を淹れることに成功した。

「……ど、どうぞ」

 またも近づくなと言われているので先ほど座ってた場所に戻り、顔はやや伏せつつもテーブルの向かいに座る腐川さんの様子をひっそり伺った。
 腐川さんは女性らしい細くしなやかで、それでいて彼女の誇りであるペンだこが目立つ手でカップを手に取る。綺麗な手があの素晴らしい物語たちを紡ぎ出すのか。そう思うと腐川さんにとっては誉れの証だとしても、何だか不思議な、もしかしたら一種の嫉妬のような感情が生まれる。決してそのペンだこになりたいとかそういうことではない。はず。
 私が浅ましい感情を持て余していると、腐川さんはじっと中身を睨みつけている。その親の敵を前にしたような目に私の心臓は今にも破裂しそうなほど激しく脈打つ。
 ついに腐川さんがカップに口をつけたとき、カップごと紅茶を投げつけられる覚悟を決めた。

「……うん、おいしい」

 ……?!

「え……?」

 いま、なんと? ふかわさんは、いま、なんていった……?

「あ。あノ……」
「あああああああ!! あああたしとしたことが!! そそそそそ、それ以上口を開くんじゃないわ!! いい、いまあんたが聞いたのはただの幻聴よ!! そう、幻聴!! 記憶に留めるほどにもないどうでもいい幻聴よ、だから忘れなさい!! いいわね!?」

 黙っていればよかったのについ漏れたそれが腐川さんを正気に戻してしまった。立ち上がりやってしまったと青ざめて腐川さんは頭を抱えた。その羞恥心と怒りに歪む目と口の百面相に私はひたすら首を振った。私の必死さが伝わったのか、それとも腐川さんが落ち着きを取り戻したのか、とりあえず食堂に響き渡る声はなくなった。そしてその代わりに沈黙。
 腐川さんは何もなかったかのように一言も喋らず紅茶を飲む。
 腐川さんと同じ空間、同じ空気を吸い、私が淹れた紅茶を飲んでるエトセトラエトセトラ――思ったり言いたいことはたくさんあったけど、それを少しでも表に出せば、それこそ今後の腐川さんとの関係が……。それだけは何としても阻止しなければならないと、私も本来の目的である本を開いた。
 ページを繰る音、カップとソーサーの陶器同士が当たる音、紅茶を注ぐ音。食堂はこの三色の音だけで構成された。
 すぐ近くにあの腐川さんがいる状況だが、意外にも腐川さんの書き描く物語に一歩踏み込めば、ふわりと羽が落ちるように世界に引き込まれた。もう何度も読み返して結末どころか細かな展開の移り変わりも覚えている。それでも初めて読むように物語の展開に一喜一憂せずにはいられない。
 物語がひとつの山場を追え、中盤に差し掛かったところでここでカップが空になったのでお代わりを淹れようとテーブルの真ん中に置いてあるポットに手を伸ばす。まるで私の手が止まるのを待っていたように腐川さんが口を開いた。

「……あんた、紅茶淹れたのはそれのためなの?」

 ぼそぼそと、かろうじて聞き取れるぐらいのとても小さな声だった。腐川さんはこちらを見ず、テーブルの上で組んだ手をじっと見ている。腐川さんのカップはもう空だった。

「そ、その通りです……」

 正直に答えた声は紅茶で十分に喉は潤っていたはずなのに掠れていた。腐川さんが指すのはもちろん私が読んでいた腐川さんの本。また少し無音になるが、同じような声で腐川さんが喋る。

「……正直あんたのことなんてあたしの本が好きな気持ち悪い一読者にすぎなくて、骨董品にしか
目のない大和田の腰巾着程度にしか思ってなかったわ。今もその認識は変わらないけれど……そ、そういう、本の楽しみ方は安直でも悪くはないと思うわ」

 「あ、あと、あたしの思い描いた紅茶には遠く及ばないけれど、それでも不味くはなかったわ」とぎこちないけれど、光栄に思いなさいという風に少し笑った。
 ……。
 ……。
 ……――ぶわっ。

「ぎゃああああ!? ちょっ、ちょっと何よ!? 何で泣いてるのよ!? あ、あたしみたいな奴に褒められるなんて屈辱だって言うのね!? そうなんでしょぉ!!」

 自分でも驚く程無意識に流れてきた涙を見た腐川さんが再び声を荒げる。
 違う、違うの腐川さん。これは、憧れの腐川さんに認められることがこんなに嬉しいなんて思ってなくて! と言いたくてもとめどなく溢れてくる涙と嗚咽が邪魔して言葉にならない。でもこのままだと腐川さんに物凄い誤解を与えてしまう。だからなんとか、なんとか――!!

「ふ、ふかわさ、あ、あの、ね、ありかほぉ」

 今できる精一杯の笑みを浮かべた。呂律が回らないそれはもはや言葉とはいえない。それでもニュアンスで言いたいことは伝わったはず。すると、あんなに焦燥しきっていた表情がすとんと抜け落ち、

「なにそれ、ぶっさいく」

 と吹き出した。
 ずびっと鼻水をすすった私の顔は、それはそれは酷く不細工だったに違いない。



 それから紅茶を片手に例の本の感想や筆者である腐川さんご本人による裏話で、二人しかいないはずの食堂にたくさんの花が咲いた。超高校級の文学少女の腐川さんもそうだが、そのフィルターのない、ごく普通の女子高校生徒しての表情もちょっと垣間見れた気がした。
 ティーコジーで保温していた紅茶すらだいぶ冷えてきたとき、腐川さんは私が半分本から飛び出した栞に目が向いた。

「それ、押し花?」
「ええっと、押し花というよりかは押し葉かな……?」

 要領を得ない腐川さんに私はすっと本から抜き出す。どこまで読んだかは覚えているし、大したことはない。
 栞の全体像を見て“押し葉”が何か理解はしたが、腐川さんの表情は益々困惑の色が強くなるばかり。
 それはそうだ、だって栞にされているのは幸福の象徴である四つ葉のクローバーではなく、どこにでも生えているただの三つ葉なのだから。
 小説家を前に話すのも恐縮するけど、あらかじめ腐川さんに了承を得て、少し昔話をしようと思う。



 先に答えを言うと、この三つ葉は紋土くんがくれたものだ。

 まだ小学校に上がる前、やっとひとりで外に出て遊べるぐらいの頃。内気な私でも外で遊ぶことのほうが多かった頃の話だ。
 私たちの住宅街には公園が一つだけあった。そんなに大きいものでもなく、遊具も在り来りな滑り台とジャングルジム、砂場、ブランコぐらい。それと公園をぐるりと囲う広葉樹。どこにでもありそうな公園だけれど、いつも子供の賑やかな声に溢れていた。
 遊び盛りと言っても私は誰かと鬼ごっこや隠れんぼするより、遊具や木々、その下に生えている草花や虫をじっと観察することに夢中だった。もしかしたらその頃から今の肩書きに通ずる基礎ができていたのかもしれない。
 まあそんな感じで足繁く公園に通っているうちに賑わいの絶えない公園にひとり浮いている、いや沈んでいる子がいた。
 言わずもがな今は遠き幼き日の紋土くんである。
 今でこそ筋肉隆々のひと睨みすれば誰もが竦む大男だが、その当時はリーゼントもなければ、誇らしい筋肉もない。ちょっと他の子たちより大きいぐらいのどこにでもいる男の子だった。あ、強いて言うなら眼力の強さはあの頃からあった。
 そんな如何にもわんぱく坊主の利かん坊の見た目に反して紋土くんはいつも公園の入口が見える木の下でひたすら何か耐えるようにしゃがんでいた。自ら遊びの輪に入ることも、周りの子も紋土くんを誘うこともない。
 興味本位で一度声をかけたこともあるけど、無言でちらりとこちらをみて何もなかったように公園の入口に目を戻した。
 そんな他人に興味もない紋土くんでも子供らしく笑う時がある。照り返しが眩しい黒のランドセルを背負った紋土くんのお兄さん、大亜さんが迎えに来る時だ。今までの無表情が嘘のように「おそいぞあにき!!」なんてポコポコと叩いたりして。そして仲良く手を繋いで帰っていくのだ。一人っ子の私にはその光景が少し羨ましいと思ったが、それよりもいつも小さく黙っていた紋土くんがぱぁと明るい表情を見れたことのほうがまるで自分のことのように嬉しかった。それから私の公園での観察対象に紋土くんが追加されたのだった。
 身の回りの草花を観察しつつ、時折思い出したように紋土くんをみる。大抵はつまらなさそうに座って、時折木の棒で地面を掘ったりしている。その回数がどんどん増えていったことを自覚したのは、私の視線に紋土くんが気づいてガンを飛ばしてきたから。子供ながらにその眼力は力強いが、私には『閉じられた紋土くんの世界に自分が追加された』と都合よく解釈して、睨みなどなんのそのと言わんばかりに笑い返した。すると、紋土くんは私の反応に虚を突かれたあと、ふいっとそっぽを向いた。私は再び草花の観察に目を戻した。
 言葉は一切交わさないが、目はよく合った。その度に紋土くんは睨みつける。私は笑い返す。そして何か負けたと思って紋土くんは視線を変える。その繰り返しだ。

 二度目の、いや初めての会話は我ながら強かだったと思う。
 毎日律儀に夕方5時を知らせる曲が流れる。何の曲か忘れてしまったが、どんどん日が沈んでいく中で町中に響き渡るその曲は無性に恐怖を煽る。大抵この曲を合図に子供たちはそれぞれあるべき家へ帰っていく。うっかり観察に熱中していた私も曲から逃げるように帰ろうとした。公園を出る一歩手前、一瞬後ろ髪を引かれるような視線に振り返ると、いつもと変わらない場所に紋土くんがいた。公園にはもう誰もいない。いつもなら大亜さんが五時より早く紋土くんを迎えに来て一緒に仲良く帰っているのに、今日に限ってはまだ来ていない。律儀に大亜さんを待っているのだろう。日は沈みつつある。遊具の影が暗く夜の方に落としていく。まだ鳴り続ける曲にぞくぞくと鳥肌が止まらない。このままだと紋土くんはきっと日が落ちて真っ暗になっても大亜さんを待つだろう。大亜さんも遅くなってもきっと紋土くんを迎えに来てくれるに違いない。二人の信頼関係に疑いの余地はない。
 でも自分でも感じている、子供特有の夜という魔物に襲われる怖さにじっと1人で耐える紋土くんを想像すると、踵を返して真っ直ぐに紋土くんのもとへ走った。まさか自分のところに来るとは思っていなかった紋土くんは戻ってきた私に大きく目を開いた。

「いっしょにかえろう!」

 驚きを隠せない紋土くんの手をとって走り出す。咄嗟のことで反応できなかった紋土くんは私にされるがまま公園を駆け抜ける。「でも、あにきがっ!」と留まろうとするが、走り出した勢いのまま「だいじょうぶ! あとでわたしがあやまるから!!」と返した。

「だからいっしょにかえろう!!」

 無理やり繋いだ紋土くんの手がぎゅっと握り返してきた。ひたひたと侵食してくる夜から逃げるように、私たちは沈む太陽を追うように橙に染まる家路を走った。
 その日から三日もしないうちに、公園では岩のように動かない紋土くんが私の前で影を落としていた。何だろうと少し首を傾げると、ずいっと紋土くんが何か突き出してきた。

「ほんとは、よっつあるほうがいいって聞いたけど、おれには見つけられなかった」

 紋土くんの手にはどこにでもあるシロツメクサが握られていた。紋土くんの言うとおり、その手にある葉は幸せを表す四枚ではなく、三枚だ。紋土くんはしおらしく、どこか気まずい表情を浮かべている。しかし私にはこのシロツメクサが如何に綺麗なものか、すぐにわかった。日頃の観察眼がきらりと光ったのだ。鮮やかな緑に3枚全てが整った形と茎から分かれている角度。そして彼の指が土で汚れて、中には爪にまでぎっしり詰まっていたり、まだ草の青い匂いがしっかりと残っている。紋土くんがずっと探してくれた証だった。

「ありがとう!」

 大事に受け取ると、「おう」と陰っていた紋土くんの顔が私に向かって初めて和らいだ。



「言わばこれがきっかけで紋土くんと仲良くなったんだなあ」

 と、自分で話して自分で気づく。あの頃はまだ私のほうが身長高かったのに、いつの間にか見上げれば首が痛くなるほど身長差が出来てしまった。だがそれがどうした。それでも私と紋土くんの関係は変わらない。きっとこの先も。

「あ、で、えっと、そういうわけで……。もらったはいいけど、どんどん弱っていく三つ葉にあたふたしてるときに父に押し花にしてもらいました」

 思い出特有の優しい温度に浸っていたのも束の間。ただ思い出話を語ったにすぎないのにその相手が腐川さんだったことを思い出し、羞恥心が背中にぴったりとくっついて離れない。やましいことなど何一つない。了承は得ていたものの長々とためにならない話を聞いて貴重な時間を潰してしまったかもしれない。そう思うと顔は自然とスカートを強く握り締める手に向く。
 かたんと向かいから鳴ったカップとソーサーの音に一層心臓が飛び上がる。

「なんてありきたりな、ド三流の三文小説ですらもっとまともな話を書くけれど、思い出に赤の他人が優劣を付ける方が三流小説かどころか人として最低よね」

 顔を上げたとき、既に腐川さんは空のカップを残したまま席を外して食堂を出ようとしていた。ぴたりと止まってから、

「……さっきも言ったけど、アンタのそういう安直なところ嫌いじゃないわ。ごちそうさま」

 振り返ることなく、二つのお下げを空に泳がせながら自室へ帰っていった。



―――――――――


▲うざったいのもご愛嬌▲

「争いなんて無縁なテメーのボケた顔が好きだ、なんてな」



 がしがしと今は乱雑に髪を拭きながら与えられた寮の部屋に戻る。不二咲のトレーニングに付き合ったあとも体が鈍らないようにひとり続けていたら、決められた入浴時間ギリギリだった。それを滑り込むように入り、すっかり深夜と言っても間違いではない時間。流石に疲れたが、もうあとは軽く髪の手入れをして寝るだけだと寮の部屋に入ったとき、「お! おかえり紋土くん〜」と自室のように寛ぐ幼馴染を見て、顔が引きつった。

「……なんでいんだよ」

 愚問でしかないが、そう言わざるを得なかった。

「眠ろうとしたけど、全然眠れなくてさ〜。ベッドでゴロゴロしてるのも飽きたから遊びに来た!」

 そうだろうな、お前はそういう奴だよな。ほぼ予想通りの答えに、らしくもなくため息をつく。小さい頃から当たり前のようにお互いの家、部屋を行き来してた。そこにあるのはただの幼馴染で、腐れ縁という恋だのそういった色気は全くない。そして今もないとお互い自覚している。
 そうは思っていてもいまは環境が違う。お互い晴れて同じスゲー高校に入学できたことは良かったが、完全寮生活において今までの感覚でいると周りにあらぬ疑いや噂が広がる。それに対して問われてもオレも蘭も声を揃えて「絶対ない」と容赦なく問いを切り捨てるだろう。メンドーなのが表立って聞いてくるやつよりこそこそと影で話す奴らだ。ここには選ばれた特別生徒しかおらず、そんな陰湿なことをする奴らはいないと思いたいが、気をつけることに越したことはない。
 が、目の前のバカは全くそう思ってない。

「ダメだよ紋土くん、いくら寮だからって部屋に鍵を閉めずに出て行くなんて。無用心すぎない?」
「その言葉そっくりてめぇに返すぞ」
「ええ!? なんでさ!?」

 寮のほとんどは共有スペースが占めているが、個室は男女別になっている。当然俺の部屋は男子寮の中にあるわけだが、日を跨ぐのにも近い時間によくもまあ男子寮に来れるものだ。せっかく一風呂浴びて癒された疲れが、呆れた気持ちとともにどっとオレを襲った。
 男女のどうのなんざ興味ないし、例え蘭に好きな人が出来て、晴れて付き合ったとしても俺は嫉妬どころか「よくもまあメンドクセーな奴を好きになったもんだ」と自らグチの聞き手になるだろう。

「っていうか、髪めっちゃ濡れてるよ」
「時間が時間だったから部屋で乾かすつもりだったんだよ」

 ひとのベッドに寝転ぶ蘭を無視していつもセットで使っている三面鏡台に座ってドライヤーのプラグを差す。ブオオと大きくドライヤーが唸るが、防音がしっかりしているため夜でも誰かに迷惑にはならない。タオルと一緒に乾かしていると、目の前の鏡に蘭が映った。

「ねえねえ紋土くん、乾かしてあげよっか?」
「いらねーよ。テメーに任せるとろくなことにならねえからな」
 お姉さん風を吹かせたい蘭の申し出を一蹴してそのまま手を動かす。
「ちぇっ、つまんないなー」
「乾かしたら構ってやるから我慢しろよ」
「別にそういう意味じゃないよ。あ、でも紋土くんってさ、」

 ぶおおおおっとドライヤーが一層分厚く唸ったせいで蘭の言葉がかき消され、聞こえなかった。

「あァ? いま、なんか言ったか?」

 手を止めて首だけ蘭を見るが、「別に何でもないよ」と特別機嫌を損ねたわけでもなく普通にそう返された。何でもないならいいか、と再びドライヤーのスイッチを入れる。女のようにヘアクリームを塗ったりはしないが、そこらへんの男よりかは髪を大事にしている。念入りに乾かしたあとプラグを抜き、人のベッドに寝っ転がってる蘭にどけと軽くどつく。

「相変わらず雑いこの扱い!」
「うるせーな、ここはオレの部屋なんだからオレがどうしようといいだろうが」
「それが客人に対する態度か!」
「お前が勝手に来たんだろが」

 「酷いよ」なんて言うがもう数え切れないほど繰り返したやりとり。潔く蘭はベッドから折、代わりにオレがどかりと腰を落ち着けた。さて、そのまま自室に帰るかと思ったが、俺が足を開いて座っている微妙な空間にすっぽり入って来た。

「テメー寝る気あんのか?」
「あったらとっくに寝てるよ」

 マジで寝たくなるまで居座るつもりだな。……まあどうせ明日は休みだ。コイツのお守りも今に始まったことじゃねーし、まあいいかと思う。
 ふとたったいま気がついたが、ベッドの上には記憶にない雑誌が何冊かあった。そして下の蘭の手にはそれらと似たような雑誌。

「なんだこれ、テメーが持ち込んだのか?」
「そうだよ。図書室でたまたま見つけたんだけど、まあ見たまえ!!」

 どこまでも偉そうに我が物の顔の蘭に呆れつつも、やれやれと上半身をかがめて蘭の雑誌を覗き込む。
 そこには結構前の自分が写っていた。

「お前、これ」
「暇だったから図書館のありとあらゆる棚見てたら漫画以外にも雑誌が置いてあってさ! 適当に取って開いたら紋土くんが載ってて思わずその場で盛大に吹き出しそうになったよ!」

 さり気なく貶されてるのはスルーだ。
 ベッドに放置されている雑誌もよく見れば表紙の謳い文句に『絶対王者! 暴走族、暮威慈畏大亜紋土!』などの文字が並んでいた。中にはオレが暴走族入りしたてのときに撮られた写真も載っていた。

「それで色々漁ってたらそれなりに出てきたんだよ。ほら、これは後ろに仲間を率いる族長の紋土くんで、流石の威圧感だね。絶対近づきたくないやつだよ」
「褒めてんのか貶してんのかどっちだ」
「褒めてるよ!」
「あっそ」
「そっけない反応だな!! せっかく褒めてるのにぃ!! もっと、こう、喜んだりしないの!?」
「今更なこと言われてもなんともねーよ」
「冷たい! そういうこと言う紋土くんなんて嫌いだい! 馬鹿!」
「へーへーそうかよ」
「ぐぬぬ、冷たすぎる……もういいもん!!」

 そういうと蘭の視線は雑誌に戻る。それでオレは放置してそのままベッドに寝転ぼうとしたら今の場所が気に入ったのか、「ちょっと動かないでよ」と。なんだかもうコイツに歯向かうだけ疲れるだけだと悟り、そのまま足は開いたまま。
 オレに歯向かうやつには真っ向から拳で完封なく叩きのめしてきたが、そう出来ないのはもう精々コイツぐらいだろう。
 流石に座りながら寝ることは出来ないからオレもベッドに散らかった雑誌を手に取った。
 どれもこれも身に覚えのものもあれば、いつの間にかすっぱ抜かれたようなものまで。だいたい思うことは変わることなく、ンなこともなったな、とだけ。読むというより親指でパラパラとページを弾き出していくだけ。蘭が持ってきた雑誌はあっという間に流れてしまいやることがなくなった。
 オレの内にいる蘭は真面目に細けぇ文字まで追ってて随分熱心だ。そして時折小さく声を漏らして笑う。後ろ頭と肩の動きでそれがわかる。いまどんなアホ面してどんなふうに笑ってんのかも。
 生傷や血腥い噂が蔓延る世界で生きてるオレにとって、全く平凡で平和ボケしたアホ面コイツの顔を見ると、どんなことだって、何もかも全部どうでも良くなって、悪くないと思える。

「テメー、マジでオレのこと好きだな」
「はいぃ? なにを今更? 当たり前だよ。この先だってずっと好きだし、何があっても嫌いにならないよ」
「ちょっと前に『嫌い! 馬鹿!』ってたどの口が言うんだ。あァ?」

 蘭の項に顎を乗せてぐりぐりすると、「ちょっと!! 旋毛押すと下痢になるって知らないの!?」と怒られた。



―――――――――


「たった一粒だって誰にもあげないから」

▽涙の行く先▽


 とあるところに一人の女の子がいました。その女の子は観察眼が他人より優れていること以外はいたって普通の女の子でした。彼女には幼馴染の男の子がおり、二人は腐れ縁で強く結ばれていました。女の子も男の子も共に腐れ縁と周りにいいますが、その言葉を額縁通りに受け取るにはあまりに距離が近く、周りが勘違いするほど親しい間柄でした。これも二人とも声を揃えて言いますが、「付き合ってる? まさか!」と答えます。事実二人の間に恋という甘い響きは何一つありませんでした。親友と名付けるにはまた違いましたが、二人には絶対的な信頼関係が築かれていました。そして言い換えるならある種、盲信に近いものかもしれません。
 さて、ある日を境に二人は悪い魔女によるとある悲劇に巻き込まれてしまいます。その中で女の子は一生解くことが出来ない強固な呪いをかけられました。なんとその一生解くことが出来ない呪いをかけたのは、紛れもない彼女がこの世でもっとも信頼している男の子でした。

 だって男の子は「生きろ」と女の子にもっともこの世で残酷な呪いをかけたのですから。大切な男の子のいないその世界で。

 女の子は最初こそ呪いを断ち切るために彼の後を追うことを考えました。考えるだけでした。律儀で真面目で頑固な女の子は呪いと共に生きることを選びました。死人に口無しと言いますが、女の子は自分が彼の後を追うことを望んでいないとはっきりわかっていたのです。ですから女の子は呪いに苛まれながら今日も生き続けます。

「でもね、一方的にやられるのも癪だよね」

 実は、売られた喧嘩は結構買う主義なんだ。

 女の子はとても泣き虫でした。とても臆病者な女の子はことあるごとに男の子に泣きついては「いちいち泣くんじゃねー!」と突き放すような言葉と不器用な優しさで彼女を宥めてくれました。
 「泣いたところで何もなんねえだろ」と男の子は言っていました。この世は非情で、男の子の言うとおり泣いて物事が解決、好転することはありません。数滴の涙で海の塩分濃度があがらないように、世界は何も変わることなく絶えず回ります。
 しかし世界が変わらなくても女の子は毎日泣きました。喚くように激しく泣く日もあれば、嗚咽を咬み殺すように泣く日もあり、またほろほろとただひたすら涙を流すだけの日もありました。毎日毎日欠かすことなく女の子は泣きます。そこには病に伏せる子の母親が神社にお参りし、子の回復を願うような必死さがありました。しかしそれは祈りや贖罪の意味合いはありません。
 それは女の子が呪いをかけた男の子へ出来る唯一の復讐返しでした。
 いつだって女の子の涙を拭ってくれたのは男の子の、角張ってひと回りもふた回りも大きい指でした。

「紋土くんが拭ってくれるまで、泣き止まないから。何年経とうと絶対に泣き止んでなんかしてやんないからね」
 泣き虫、舐めないでよね。

 そうして今日も女の子は呪いに苛まれながら決して涙を枯らすことなく泣き続けるのでした。



―――――――――


「ゆめ、じゃなかった」

▲『蘭』▲

「テメーはそういうやつだ」



 うそだ、と一気に血の抜けた顔が対極にいる離れた位置でもありありとわかった。
 オレが言うのもなんだが、バカだバカだと思っていたが、本当オメーって奴は馬鹿だ。何もかも、全てオレがクロだって示してる。そりゃあ苗木たちに暴かれていくたびに狼狽えたし、必死に抵抗した。だが、もう終わったんだ。
 全部、全部終わったんだ。
 オレにはもう何一つ己を弁護する言葉はない。
 ほら見ろよ、兄弟だってさっきまであんなにオレに食らいついていたのにすっかり静かになって……。
 あとはオメーだけだってんのに何つっ立ってんだよ。
 あァ? 『押せるわけがない?』アホか。本当はわかってんだろ。お前は黙ったまんまだが、何年オメーと腐れ縁やってんだと思ってんだ。オメーの考えてることなんざ、手に取るようにわかるぜ。
 だが、これが真実だ。
 紛れもねえ、現実なんだよ。
 ……クッソ! なにノロノロしてんだよ! モノクマが動き出しやがったじゃねーか!!
 とてとてと可愛い足音に似合わねーもん持って近づいてんのが見えねーわけねーだろうが、チクショウ。あァ!! クソッタレ!! とそれより先に一歩一歩、地鳴りを起こしてやる勢いで近づく。
「……紋土くん?」
 ようやく眼があったな。ひっでえ面してんな――ってのはオレもひとのこと言えねえんだろうな。
 だらんとぶら下がった馬鹿の腕を掴んで引っ張る。
 ほっせえ腕だな。あとほんのちょっとでも力入れたら骨が砕けるかそのまま握り潰れそうだ。制服越しでも伝わる冷たさが嫌にオレにも伝染する。だが、力は抜かない。
 女子供には手を出さねーことを守ってきたが、それも終わりだ。
 最初で最後、弱い奴に力を振るう。バカでお人好しなオメーの為だけに。

 ……本当オメーはオレがいねーとポンコツだな――蘭。

 モノクマの陽気なダミ声と蘭の絶叫が重なる。
 決まった。
 これで決まった。判決。そして準備は整った。処刑場、オレの死への扉は開かれた。
 覚悟はとうに決めていたが、蘭に無理やり最後のボタンを押させたせいか、足元からじわりじわりと例えようのないモンが這い上がって腹を括っていたものを緩ます。だからつい、呼びかけてしまった。
 返事は、ない。
 そうだよな。そうさせたのは紛れもねーオレ自身だ。だが、いつもは呼んでもないのにかえって来る声がないことに心が――。だから必死に頭を使って、オレが背負っていたものについて言葉を紡ぐ。すると口調はいつも通り生意気だが、舌がもつれ、辿たどしい。それでもちゃんと返ってきた声に心底安心する。だからオレもいつも通りの口調で、この期に及んで、冗談だよ、と震えが止まらない喉から絞り出す。情けねーなぁ。
 そしてそのままオレはコイツにとって一番残酷な言葉を紡いで、その言葉をすり込むように優しく優しく撫でる。いつも通り「髪が乱れるからやめてよ!」って言われるぐらいぐしゃぐしゃ撫でたかった。それが族を率いる漢の振る舞いってやつだろうけど、オレには到底出来ることじゃなかった。
 ずっとこうして撫でていたいと言う欲をなけなしの理性でねじ伏せてオレは蘭を背に歩き出す。撫でた手にはまだ蘭の髪質、温度、いっそ全てが残ってるような気がした。心は醜くてもみっともねェ姿だけは見せねェ。背負った8文字がそうさせる。いや、アイツの目に焼き付けるさいごの姿ぐらいカッコつけたいってのが本当のところだろうな。

 だってのに、テメーって奴はどこまでオレを掻き乱すんだ。

 不意に伸びて、オレを繋ぎ止めるように抱きついてきた腕に、ああ、足が、止まる。

 ……やめろ、

 迷子が母親を求めるような切実で、悲痛な声が法廷に響き、それから跳ね返ってきて二重になった声が耳の底を突き抜けて頭、それから心に鋭く深く突き刺さる。

 やめろ、やめろ、やめろ……

 酷く乾いた音を立てて罅が四方八方入り、

 やめろやめろやめろやめろやめろやめてくれェ!!

 やがて大きな亀裂となって、

 この期に及んで何で、今更ッ――!!

 もう見栄も理性も殴り捨てて、必死に抱きついていた腕を振りほどいた。そのまま前に進むだったはずの体はぐるりと半回転。小さくて細くて頼りなくて何より大切な体にぐるりと腕を回した。抱きしめは、しなかった。
 それをしたら本当にオレは、蘭は駄目になる。
 振りほどいた反動で倒れそうになるのを、支えるだけだ。

 『一人にしないで』だって?

 ああ、そうだな。オレたちはいつも一緒だったもんな。見てる世界、歩む道は違ってもオレたちはずっと強く固く繋がっていた。それを突然一方的に切られるなんてオレだって思ってもみなかった。
 でもテメーはその『ひとり』で生きてくんだ。こうしてオレに支えられることなく、これからはテメーの力だけで立って、歩いていくんだ。オレなしで生きていかなきゃいけねーんだ。
 ぼたぼた。ぐずぐず。コイツの泣き顔なんて呆れるほど見てきたが、今が一番ひでーな。人間ってのはほとんどが水で、こんなにも涙を流しても死にやしねーのに、このままコイツは全部涙に変えて死んじまうように思えた。だが、この流れた涙すべてがオレのためかと思うと、息苦しくて、胸が軋んで、心が引きちぎられて、それでも脈打つ心臓は不思議と穏やかだった。
 ああ、オレは嬉しいんだ。
「……――、」
 言いかけてやめたが、涙がぼろぼろと溢れ目を一際大きくなって、くしゃりと皺が入っていた紙が更にぐしゃりと丸めたように顔が変わる。
 わかってるよ、テメーのことだ。オレがなんて言いたかったなんて全部わかってるんだろうな。ああ、本当、嫌になるほど、オレのことわかってんだからよ。
 ボタンを押させた時の腕の冷たさと固さ、頭を撫でた時の温かさと柔らかさ。そしていま支える腕から伝わり合う互いの体温は何物にも代え難いものだ。手放したくない。あァ、手放したくねェよ。
 でも、

「ごめんな」

 いまのは一体何に対しての謝罪なんだろうな。殺しちまった不二咲に対してか? 誰も疑いたくもないのに真実を暴かなきゃいけねー苗木たちか? クロだとわかってしまって真っ先にオレに駆け寄ってきた兄弟か? 殺人を犯したこと? 自分はクロじゃねェと隠そうとしたこと?
 そのどれもに当てはまるが、でも本当はいま腕の中にいる蘭に。蘭へ。

 ――せかいでいちばん、だいきらい

 あァ……今まで喧嘩するたび何度も聞いて聞いて、聞き飽きた言葉だ。だけどこれが『嫌い』って言葉のほんとうの痛みなんだな。
 だいきらいはオレの心臓を的確に貫いて、抉って、滅茶苦茶にする。それでもまだ動いてるかりそめの心臓は正常に体に血を送り出しているが、だいきらいが含まれた血は即効性で致死量の毒が混じってるようで、いっそ死ねるならこの毒で死にたかったなんて甘っちょろいことを思ってしまった。

「そうか、」

 テメーは嫌になるほどオレのことをわかってるが、それはオレも同じぐらいオメーのことわかってんだぜ。それは傲慢でも驕りでもねー。それすらもテメーはわかってんだろ。だからテメーがオレ以上に苦しい顔してるんだろ? どこまでもお人好しなバカだ。今の言葉の痛みはオレだけが背負えばいいのにな。
 今度こそ。
 今度こそこれで終いにしよう。
 最後に柄にも女々しくなっちまったが、これからの最期はいっちょバチッと決めなきゃなぁ。それが暮威慈畏大亜紋土……いや、バカで弱虫でどこまでもお人好しな河部蘭の、ただの幼馴染である大和田紋土のケジメだ。

 じゃあな、蘭。
 テメーはオレに裁きの鉄槌を下す正義であり、
 弱々しい輝きでも、
 オレにとって唯一――





------キリトリ------
二年前のTwitter企画第二弾で書かせていただきましたあさりさん宅の論破主の河部蘭ちゃんと大和田くん。
前回はちょうど機会に恵まれていたので、自家出版したなんちゃって本をお渡しできたのですが、今回はそうもいかず、しかたないのでツールサイトを使ってダウンロード版風にお渡ししたものの原文です。
タイトルの伏字は、各小話タイトル(『▲or▽』)、各話の最初の一文字(漢字でも読みの一文字)を各話タイトルを繋げてひとつ、最初の一文字を繋げてもうひとつ、二つの言葉があてはまります。
 例:タイトル『賽は投げられた。』→『さ』
   最初の一文字『あれは夢だったんだ』→『あ』


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