ふたりきりのカムパネルラ



 さわさわと水が流れる音と共に意識がゆるやかに浮上する。自然と開いた目に飛び込んできたのは夜の駅。先ほどの水音は幻聴ではなく、すぐ近くで流れているようだ。
 誰もいないプラットホームにぽつんと僕は立っていた。
 風は吹いていないのに何故か心地よいと感じる。その心地よさに目を閉じようとしたとき、「奥村?」と誰かが僕を呼んだ。その声に聞き覚えがあった。

「あなたは……?」
「ああ、やっぱりお前だったか」
「えっと、どちらさまでしょうか……? 以前どこかでお会いしたことが?」

 彼女は少し離れた木製のベンチに座っていた。僕と目が合うと――といっても彼女の目元は長い前髪で見えないが、どうしてかそう感じる。

「まあ細かいことはいいじゃないか」とこっちへ座れと言わんばかりに手招いた。
「ここはどこの駅なんでしょう?」

 あたりを見渡しても駅以外の建造物は一切見当たらず、夜なのも相まって遠くまで見渡せない。ホーム内でも時刻表や駅名の看板はあれど錆や劣化ではっきりと読めなかった。

「ああ。見ての通りここは××ステーションさ」
「え? いまなんと言いました?」

 思わず聞き返す。まるでノイズ加工されたように肝心の部分が聞こえない。

「ん? だから××ステーションだ」

 僕の問に彼女はもう一度答えてくれたが、やはり聞き取ることが出来なかった。ただ妙な納得というか、胸にすとんと落ちるものがあり、それ以上は聞かなかった。

「あなたはどうしてここに?」
「見ての通り、汽車を待っているのさ」
「どこに行くのですか?」
「それは……どこだと思う?」

 小柄な彼女の口元がゆるりと弧を描く。喋り方や雰囲気は自分よりも年上のような気がする。だからいま笑ったものがものすごくあどけなさを感じて少し変にたじろいでしまった。

「あなたがここで汽車を待っているということは僕もそうなのでしょうか?」
「どうだろうなぁ。ここにいても私と同じ汽車に乗る可能性もあるだろうし、乗り降りする誰かを待っている可能性もあるんじゃないか?」
「そうですか……」

 さっき目を覚ます前の記憶が綺麗さっぱりない。自分の名前が『奥村雪男』でどういう人間かなのかは覚えている。

「僕は、何か大切なことを忘れてしまっているような気がするんです。でもそれが何だったのか全然思い出せなくて……。あなたは僕のことを知っているようですが、何か心当たりはありませんか?」

 そう聞くと、彼女は前髪の隙間からどこか寂しそうな表情を浮かべて「いや」と首を横に振って短く答えた。さっきの駅名の時のように何かが胸にすとんと落ち、深追いする気にはなれなかった。
 それからしばらく僕らの間に会話はなかった。居心地が悪いと思うことはなかったし、この沈黙を心地いいとすら思った。やっぱり僕らはどこかで会ったことがあるんだろう。でもいまの僕は何も思い出せない。
 ふと胸のあたりが痛んだ気がした。忘れていることへの罪悪感だろうか? それとも――

「ああ、竜胆の花が咲いているな。もうすっかり秋になったな」
「竜胆?」
「ああ。あそこに仄かに光っている紫があるだろう?」

 彼女の指差す先には小川の傍で紫の柔らかい光を放つ一帯があった。よく目を凝らせば、確かに竜胆の小さい花が群生していた。
 やはり前髪でその目は見えないのに彼女が物憂げに竜胆を見ている気がした。

「なにが悲しいんですか」
「え?」

 こちらを見た一瞬、細い髪の隙間から驚きに見開かれた目が確かに見えた。途端に自分がとんでもないことを言い出したことに気が付き、「あ、いや」だの「その」だの言い訳を並べ始める。

「なんとなくそんな気がしたんです。僕はあなたのこと知らないのに知ったような口をきいてすみません……」

 だんだんとしぼんでいく自分の声にますます気恥ずかしさが色濃く自分に影を落とす。僕はなんてことを口走ってしまったんだろう……。身を縮こませていると、突如隣から「あっは」と切れのいい笑い声が聞こえた。
 彼女が大きな口を開けて笑っている。

「そ、そんな笑わなくても……!」
「いや、ちがうんだ。くっ、はっはっはっ」

 ひとしきり笑った後、彼女は僕を見てまた柔らかく口元を緩ませた。

「お前はそうなってまでもどこまでも優しいやつだなと思ってな」

 そのとき、僕の言葉をかき消すようにホームに甲高い汽笛が劈く。
 ホームに入ってきたライトに目が眩む。すぐそばの彼女の気配が消えた。

「ぐっ……」

 まだ光で白む視界で必死に彼女の姿を探した。僕は彼女に何か言わなければいけない。
 何を? わからない。
 でもこのまま何も言わずにはいられなかった。きっと僕が忘れている何かが僕をそう狩り立てるのだ。

「待ってください!」

 ようやく見つけた。彼女はこちらなど見向きもせず黙って汽車に乗ろうとしていた。
 ダメだ。このままで彼女が行ってしまう。
 ひとりで。
 僕を置いて。
 逝かないでくれ――

「綴さんッ!」

 泣き叫びそうになる声が彼女に届いた。それと同時に彼女の腕を掴む。

「なんだ、思い出してしまったのか」
「ええ。思い出しましたよ。悪いですけど、最期まであなたの思惑通りになんてさせません」
「それは残念だ。だが、私は逝かなければならない。それをお前が一番よく知っているはずだ」

 彼女の鋭い視線が腕を話せと言っている。

「そうですね。悔しいですけど、死は不可逆なものです。だから――」

 一歩踏み出し、汽車に乗り込む。――彼女の腕を引いて

「奥村、お前っ!」
「言ったでしょう? あなたの思惑通りにはさせないって」
「お前、私とこの汽車に乗る意味がわかっているのか!? お前はまだ――」
「もういいんです」

 生きることをあきらめたわけではない。兄のこと、みんなこと、嫌になったから投げだすのではない。もう兄はひとりじゃないし、兄を支えてくれるひとはたくさんいる。自分がいらなくなったわけでもないことを理解している。

「そろそろ僕の命を僕のために使ったって罰は当たらないでしょう?」

 そういうと彼女は何かを言いかけた口を閉じ、歯を食いしばった。僕を外に突き放そうとした腕も胸に触れるだけで押し返す力はなかった。

「……言っておくが、この先は不完全な幻想第四次でもましてや天上なんて煌びやかなところじゃないぞ」
「ええ。あなたが乗る汽車です。あなたと一緒なら行き先なんてどこだってかまいません」
「本当にいいんだな」

 彼女の声が僅かに震えていた。僕を見る瞳もきっと小刻みに揺れているだろう。
 出発を促す汽笛が再び鳴り響く。けれど、僕の答えも心も決まっていた。

「あなたと一緒に行かせてください。あなたとの旅路ならきっとどこだって楽しいですよ」

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