ホットココアにはラム酒を添えて
カチャリと寝室の扉がそっと開いた。カーテンもしめきったリビングは暗い。緩慢な動きで出てきた彼は眼鏡もかけず開いてるようで開いてない目をごしごしと擦っている。
どうやら上手く寝付けなかったようだ。
凍るような床を裸足でぺたぺたとリビングのソファにたどり着くと小さな呻き声を上げて倒れこんだ。
どうした、眠れないのかと聞けば、「うん」とも「はい」とも言えない濁った音で答えた。
ふぅと息を着く。
まずは冷えたソファに倒れ伏した彼に寝室からまだ優しい体温が残る毛布を掛けてやる。するともぞりと足を曲げて足先まですっぽり入るようにくるまった。
まったく。ちゃんと靴下くらい履けと思う。もぞもぞと何かを絡めようと求める足は空を蹴る。そこには何もないぞ。
このままここで寝かせるわけにはいかない。
いまの季節をなんだと思っているのか、真冬だぞ。
暖房も着いてない外気温とそう変わらないような部屋だ。さっさと暖房完備の部屋に戻してやらねば。しかし圧倒的体格差と意識のない人間を持ち運ぶのは現状無理だ。ここは自主的に戻ってもらわなければならない。
はぁと今度はため息。
仕方ないなぁとリビングキッチンの明かりをぱちんと付ける。広範囲に広がったオレンジの明かりはソファにうずくまる毛布越しでもそれが届いたようで、それから逃れるようにもぞりと顔を背もたれの方へ寝返りうった。
幸い、冬ならば寝付きをよくするためのものは多いから助かる。
キッチンのオレンジの照明の次は冷蔵庫の冷たく白い光。中身の少なさにまたひとつため息が出てしまった。……まあいま必要なものはあるからいいとしよう。
消費期限が近い牛乳を小さめの鍋に入れ温める。ただ温めるだけでもよかったが、まあせっかくだ、どうせなら少し手の凝ったものを作ってやろう。
水と牛乳を同量入れ、沸騰するかしないかを保ちながら市販で手に入る粉末の極上ココアを加えて混ぜすぎないように気を付ける。できるなら無糖のココア粉から練るように作り始める方がいいが、この家には市販のそれしかないので仕方がない。
そういえば、これを買った時、彼に何故かひどく驚かれたのを思い出した。曰く、コーヒー以外の飲みものは邪道だと思われていたらしい。まったく失礼だなやつだなと肘で小突いたな。コーヒーにこだわりがあるだけで、別に紅茶やココアを邪道とも思ってないし、嫌ってもいない。たまには気分をかえて飲みたいこともあるんだ。ああ、でも高い紅茶はあまり好きではないな。紅茶にいっさい悪い所はないが、どうしてもどこぞの悪魔を思い出してしまうから。
さて、それらを混ぜ合わせてさらに煮込む。台所から緩やかに流れる甘い匂いと暖かい温度に彼がぴくりも反応するのが見えた。
一応これでホットココアができたわけだが、今日は大人の贅沢をしていこうか。彼ももう20歳を超えたことだし、誰も文句はなかろう。
実は先程の粉末ココアの他にもさらに砂糖を足していた。それらにさらにラム酒を足してやる。
ホットミルクにブランデーやラム酒は定番だ。だが、実はココアにもよく合う。もとはチョコレートケーキ、もとを言えばカカオと相性がいいのだからココアにも合うのは自明の理と言えよう。
ちなみにこのラム酒も前に私が買ったものだ。成人して、ふたりで始めて乾杯したとっておきのラム酒。
甘い酒の特有のむせ返るようなアルコールの甘さに嗅覚を少しやられながらとろとろと赤茶のココアに入れた。
さぁ、とびっきり甘いホットココアの完成だ。
普段の彼なら、甘いのに苦い顔をするような出来。だが、いまの彼の疲れや緊張をほぐすのにはこれぐらいがちょうどいいだろう。
湯気立つマグカップを持ってソファに近づき、優しく揺り起こす。
一度ぎゅっと身を縮めたあとゆっくりと起き上がった。
氷のように冷たい床を避けて三角座りをする彼の目はうっすらと開いているが、意識はまだどこかさまよってるのか、子供みたいに舌っ足らずに私の名前を呼んだ。起き上がった拍子にずり落ちた毛布をかけ直してやる。こんな大きな子供がいてたまるかと思う一方で、成人してなお可愛いと思ってしまうは惚れた弱みというやつだ。
夢うつつな彼の指先は毛布の中にいたにも関わらずもう冷えてしまっていた。それを温めるようにマグカップを両手で包み込むように持たせる。
これは? という首を傾げてる彼に、いいから飲めと答えた。
火傷しないするなよと言いながら見守る。少しはマシになった意識の中で彼はふぅふぅと白い湯気をかき分け、そっと口にした。ほんのひと口分のホットココアが男性のくっきりとした喉仏を鳴らす。ほぅと息のあとに、おいしい……のひとこと。そのひとことを思わず頬が緩む。
ひと口ひとくち大事そうに飲んでいく。
綴さん、おいしいですね、これ。
それはよかった。
綴さんってコーヒー以外もいけるんですね。
……ココア買った時も言ったが、お前の中の私は頭に珈琲しかないと思ってるのか。さすがに傷つくぞ。
じょうだんですよ、綴さん。
わかってるよ。
なんだかやたらからだがぽかぽかしてきました。もしかしてお酒入ってます?
ああ。大人の味がするだろう?
あますぎです。子どもでもあますぎるぐらいですよ。
お前には甘すぎるぐらいがちょうどいいんだよ。
まだぼくのこと子どもあつかいするんですね。
そう思ううちはずっと子どもだよ。
よくいいますよ。もう20歳すぎたんですよ。
知ってる。一緒に飲んで
──ああ、お前は飲まれてあまり覚えてないんだったな。
わらわないでください。ひどいはなしですよ、もう。
マグカップの白い底が見えた頃にはまた彼の目はとろんとした眠気を帯びていた。この様子ならもう大丈夫そうだなとマグカップを取り、寝室に戻るように促した。せっかく温まってもここにいてはまたすぐに冷えてしまう。
こくりと頷き、寝室に戻ろうとしたが、ふと私は寝ないのかと聞かれた。どこか甘えたな声だった。
私はそれを片付けがあるからなと答える。そうですか、と何か物言いたげだったが、彼はじゃあさきに寝てますねと静かに扉を閉める。
「おやすみ」
おやすみ、雪男。
もう私がいなくてもちゃんと眠るんだぞ。
翌朝、雪男は起きるやいなや、大事にキッチンの戸棚の奥に隠しておいたラム酒を確認した。
瓶は変わらずそこにあったが、見ないようにと後ろ向きにしていたラベルはくるりとこちらを向いていた。
彼女が死んで、二回目の冬を迎えたある日のことだった。