名前ではなく、



 志摩廉造には前世の記憶というものがあった。
 といってもはっきりと覚えていることは少なく、まるでぼんやりと他人の人生を映画のように見ている感覚で、それは加えて悲劇的な末路を迎えたわけでもなく、その生涯は穏やかに幕を閉じた。
 稀有な生まれでありながらそんなものに振り回されることもなく、彼は健やかに育っていった。
 ただひとつだけ彼はその前世に出てきたある少女に恋慕という言葉では足りないぐらい執心していた。



 その少女は偶然にもすぐ近くにいた。
 生まれ変わった少女――立花奏は彼よりも少しばかり先にこの世の生を受けており、そして志摩の近所で笑っていた。彼女を見たとき、この人こそが前世の志摩廉造が欲してやまなかった人だとすぐ気づいた。しかし今の志摩にとっては――明るくて優しい人ではあったが――そう夢中になることはなかった。

「おはよう、廉造くん」
「おはよぉ」

まだランドセルに背負われているような志摩に対して奏は赤いスカーフとだいぶ使い古された指定のスクールバックが似合うほどふたりには年の差がある。
こうして登校時間が被れば、挨拶を交わす。下の名前で呼ばれることは、その前世ではほとんどなく、いまでは当たり前のだが、そう呼ばれるたびに志摩の心はくすぐったいと感じる。
志摩が奏の通っていた中学校の学ランを脱ぎ捨てた頃、彼女は少し離れた地元の大学に進学し、そこで彼女は花屋のバイトを始めた。小学校に比べて会う機会は目に見えて減った。中学と高校の方向もほぼ正反対にあることが原因だ。
最初こそ小学生のときに感じていたものはやはり前世に引っ張られたものだと思い、なんてことはないとタカをくくっていたが、現実はまったく逆であることを彼は後に知る。
前世なんてものがあってもなくても志摩が奏に思いを寄せずにはいられなかった。

「いらっしゃい、廉造くん」
「……ども」

 店先に並ぶ花の香り。それを抜けて店内に足を進めれば、彼女の声と一緒により濃厚な香りが志摩を迎え入れる。

「今日はどの花かな?」
「そうやなぁ。なんや今日は青空が綺麗やったし、それに合う花とかあります?」

 我ながらアバウトすぎると内心気が滅入る志摩に反して奏は「わかったよ」と笑って店内に所狭しと並ぶ花を見渡す。その間、志摩はなるべく彼女を見ないようにするもつい目で追ってしまい、それがバレないかいつもどぎまぎしてしまう。
 だいたい一週間に一度の頻度で志摩は奏が働くこの花屋で花を買う。もちろん彼女に会うための口実にすぎない。下心満載だ。できることなら毎日買いに来たいが、それではあまりに怪しすぎるし、一輪だけとはいえ、まだ中学生の志摩のお小遣い事情などたかがしれている。
ほとんど男兄弟の中で育ってきた志摩にとって花など道端で咲いてるようなたんぽぽやツツジぐらいしか知らなかった。それが今ではそこらへんの男子中学生とは思えないほど、花に詳しい。花言葉にも最近は手を出してみたが、なかなか思うようなものは一輪では変えず、また取り扱っていないものもあったりする。
 もちろんすべては奏の近くに少しでもいたいために。

「黄色のガーベラとかどうかな? 今日みたいな青空には映えると思うよ」

 鮮やかに咲き誇るガーベラを一輪、言われるがまま購入を決めた。
 透明なフィルムにくるくるとラッピング、きゅっと先を締める細めのリボンは水色。志摩が通い始めた頃に比べればずいぶん馴れたようであっという間に仕上がる。

「はい。どうぞ」
「おおきに」

 営業スマイルと分かっていても満面の笑みを向けられて心臓が早くなる。
 名残惜しいが、それを受け取ってしまえばもう志摩にここにいられる権利はない。また次の機会を胸に差し出された花を手にしようとしたとき、まるで生き物のように志摩の手を逃れた。
 何事かと思い、手元から奏の顔を見る。

「相手が廉造くんとはいえ、お客様だからあんまりプライベートなことを聞くのもよくないかなって思ってたんだけど」
「お、おん?」

 心拍数がぎゅんっと跳ね上がる。

「もしかして好きな人でもできたの?」

 咄嗟に言葉が出なかった。
 まさかあなたですとは言える訳もなく、まごつく。かろうじて出た「そう見えやろか?」という言葉は震えてなかっただろうか、精一杯の見栄を張った。
 ここで少しでも彼女の表情に暗い色が落ちれば、もしかしたら、もしかしたら彼女は自分のことを、例えまったく同じ思いじゃなくても近しい何かがあるのではと志摩は期待した。
 あえなく砕け散った。
 なかなか言い出せない志摩の反応を奏はいじらしい肯定と取ったのだ。

「やっぱり! 最近なんだか表情が明るいなぁと思ってたんだ」

 それも実は最初からそうでした! とも言えないまま勘違いを正そうにもそんな気力は残されておらず。しかし彼女の前で暗い顔はしまいと、「ええ、まあなぁ……」と濁すのが精一杯だった。
 さらに奏の目が輝く。そして「毎週花を贈るなんて、廉造くんもずいぶん大人だねえ」とようやくその手に一輪を渡した。受け取った花はこの上なく瑞々しく鮮やかなのに志摩の目にはぼやけてくすんで見える。

「……そうは言うてもほんまに俺の勝手な片思いなんやけどな」

 無意識のうちにそう口に出していた。
 買った花は志摩の部屋で誰に見られるわけでもなく一輪挿しに飾られていた。あわよくば家の前を通る彼女の目につかないかと窓際に置いてあるが、そもそも今時珍しい平屋建てで高い塀で囲まれているので見えない。それでもその花を見るたび志摩は幸せな気分になれた。

「ねえ、どんな人か聞いてもいい?」

「もしかしたら何かアドバイスできるかも!」と意気込む奏の心遣いは見事から回ってしまっている。
 志摩は素直に白状した。
 同級生ではなくて年上であること。
 昔からずっと好きだったこと。
 でもその人の目に自分は映ってないだろうということ。
 素直になればなるほど志摩は惨めな気持ちになった。目の前にその人がいるのにまるで他人のことを語る自分に虚しさがさらに襲う。
 奏は終始一貫して優しい表情でうんうんと志摩の話を聞いていた。それがますます彼を追い込むとは知らずに。
 一通り話し終えると奏は花を持つ志摩の手をそっと両手で包み込むように触れた。彼女はそのまま自身の額に祈るように当てる。

「大丈夫なんて無責任で保証できなくてごめん。でもあたしはずっと廉造くんがその人のことを想って買っていく花を見てる。買った花を見つめてるときの廉造くん、とても優しい顔をしてる。いまは見てくれなくてもきっとその表情に、想いに気づいてくれるよ」

 こんなに近くで思っているのに。志摩のその優しい表情を見ているのに。どうして彼女はこんなにも残酷なことが言えるのだろう。さっきまであんなにうるさかった心臓は勢いを失い、志摩は想い人に触れられているのにちっとも嬉しくなかった。
 こみ上げる嗚咽に震える喉を必死に押さえつける。少しでも気を許せば目から涙がこぼれ落ちるだろう。
 それらに耐える志摩は「おん」としか言えなかった。



 大人はずるい生き物だ。全部わかった上で向けられる好意を容易く捨てることができる。
 志摩がそうであったように奏にも前世の記憶というものがあった。そしてそれは志摩よりも鮮明で、思い出したその時からずっと彼への気持ちに悩み、苦しんでいた。
 志摩と奏はそれこそお似合いのカップルだと言われていたが、ついぞふたりが一緒になることはなかった。
 閉店まで入っていたシフトから解放された奏はふらりと夜道を街灯に導かれるまま辿る。
 今もなお変わらぬ想いを抱く奏は志摩が花を買いに来るたびに嬉しくなり、また同時に酷く悲しんだ。彼が奏のことを好いているのは火を見るよりも明らかだった。幼ながらに近くの女性に好意を寄せるのは生まれたての雛がというのと一緒で、奏ほど鮮明に記憶を持たない彼ならすぐに飽きるだろうと思っていた。けれど、奏が思っている以上に志摩は彼女を強く求めた。

「ごめんね、志摩くん」

 本当なら名前呼びのほうがときめくものだが、奏にとってはそちらのほうが何倍も愛おしく感じられた。

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