いつか、彼方 For featurephone | ナノ
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01: 時の欠片が降り落ちる


最寄り駅は都心に比較的近く通勤至便である。
しかし自宅のあるこの界隈からは徒歩で20分ほどの距離がある為、一般に想像されるほどここの地価は高くないらしい。住宅もごく平均的なものから意外に古いものが多い。歩くのは全く苦ではないが時間の短縮を図る為に、最近になって通勤用自転車の購入を考え始めていた。
駅からの帰途に立ち寄ったコンビニで買った弁当の入った袋とビジネスバッグを片手に持ち、帰宅を急いでいた俺は不意に正面から照らしてきた眩しいヘッドライトに顔を顰める。
この奥には住まいとしている鉄筋3階建ての集合住宅があるのみで通り抜け不可となっており、車二台が擦れ違うにも困難な細いこの私道に3ナンバーが入る事は非常に稀な事と言えた。20時を過ぎた時刻である。
あのアパートの住人であると悟ったのか、脇に除けた俺に謝意を表すかのように後部ウィンドウが3分の1ほど下ろされる。ゆっくりと通過しながら「申し訳ありませんね」と告げられた声は慇懃な口調で、プライバシーガラスの所為で男の顔はよく見えなかったが俺は小さく頭を縦に振った。路地を抜けて走り去るシルバーの車はエンジンの音も控えめで高級国産車であろうと思われた。
だがすぐに意識を逸らし再び足を運んでエントランスへと踏み入れる。
社会人になって2度目の冬が訪れようとしていた。
工学部を卒業し情報技術産業としては業界大手の企業でカスタマーサービスエンジニアの職に就き、年が明ければ2年目を終える。つまりこの鉄筋造りのアパートに入居してからも同じだけの時が経ったということになる。
トラブルソリューションの為顧客先で一晩を明かした俺は、2日ぶりの自宅アパートの階段を3階まで昇り、鍵を取り出しながらふと隣のドアを見遣る。忘れられたように置かれたダンボール箱はこれまで無人だった隣室に住人が出来たことを物語っていた。
物騒なこの現代に単身者向けの集合住宅で引っ越しの挨拶をする者はない。仕事で外泊の多い俺は以前住んでいた者の顔すら知らなかったが特に不都合もなかった。
入社以来隣人を気に留める暇がない程度には気の抜けない日々を送ってきたのだ。
狭い玄関ホールのドアを開けすぐ左手のキッチン台の上にコンビニ袋を置いて、コートとスーツの上着を取り手を洗う。自炊が面倒なわけではないが仕事の関係上食材の買い置きがしにくく、帰宅時間も遅くなりがちな為ウィークデーは買い求めた惣菜や弁当で夕食を済ませることが多い。
リビングのテーブルに弁当と冷蔵庫から出した缶ビールを運び、指先でネクタイを緩めシャツの釦を外した。スーツの内ポケットから出したスマフォの画面に目を走らせ、テーブルのいつもの定位置に置く。仕事の連絡が何時入ってもいいように、これがいつしか習慣化されていた。
ビールのプルタブを引きながら、取り出した明日の障害対応のレジュメに一度目を通し、不良部品の交換用の手配が済んでいることを再度確認してからようやく肩の力を抜く。
帰宅後の一連の動作は大抵判で押したようにいつも同じだ。
ビールを喉に流し込みアルコールが胃の腑に染みていく感覚を味わいながらソファに背を預ける。
業務にも繁忙期と閑散期があるが、年末まで僅かに間のある今はそれ程多忙ではない。昨日のトラブルもそう大きなものではなかったが、システムの監視のため常駐ルームで夜明かしした翌日はやはり疲労を感じるものだ。
CEとしては研修終了後から概ね二年ほどは、配属先の先輩アドバイザー社員のもとでサブ的な立場として保守技術を磨き、三年目くらいから独り立ちとなるのが平均的な流れであるが、俺の場合はつい先日顧客の要望により大規模案件における保守チームの一員に加えられることが決まった。異例の措置であることにやりがいも感じるが、その代り年末はかなりの多忙が見込まれるだろう。
ただこうして携わっている仕事について夢が叶ったのかと問われれば甚だ疑問である。大学は情報工学科で学び結果として現在の企業に就職した。
まだ世間など知らぬ高校生だったあの頃漠然と考えた通り、俺は今もやはり敷かれたレールの上を走っているのだ。目の前の小さな壁を一つ一つクリアする、それ自体を生業として情報社会の歯車の一つとして働いている。
与えられる報酬にも待遇にも特に不足はない。仕事も決して嫌いではないがこうして走り続けた先に何があるのだろうか。
夢などというものが元々儚く取り留めのない物でそれを手にするのはほんの一握りであり、俺を含めた大半の人間は皆こうしてただ生きる為に生きていく。人生とはそういうものなのかもしれぬと溜息をつき、手にした缶ビールの中身を飲み干した。
不意に響くバイブレーションの音にスマフォを手に取れば、映し出されていたのはオフィスクラークをしている派遣の女性の名だった。保守からではない事に一先ず安堵するが、会社からの連絡と思えば僅かの緊張を感じる。

『斎藤さんですか。あの……雪村です』
「何か緊急か?」
『そういうわけではないんですけど、明日の案件のレジュメをお持ちになったか気になったので……』
「リーダーから渡されたが」
『あ、それならいいんですけど……あの、』

手短に済ませたい俺の意に反し、口ごもる彼女の様子から他に言いたいことがあるのではないかと思い至れば、微かな不快感が過った。

「あんたはまだ会社にいるのか」
『いいえ、違うんです。もしお忘れだったらお届けしようと思って、あの……』

声の背後に聞こえるのは雑踏の音のように感じた。それに混じるのは聞き慣れた最寄り駅のアナウンスと電車がホームに入り込むような音だった。

「気にかけてくれてすまんが、用件がそれだけならば」
『あ、はい、ご帰宅後にすみませんでした。あの、お疲れ様でした』

礼を述べる前に通話が切れる。どのような場合であれ、仕事上の連絡であると思えば多少なりとも神経が尖る。親切心であることは間違いないのであろうが、緊急性のない電話ならば極力控えてもらいたい旨を一言伝えねばならんと考えつつ、キッチンに立って行き冷蔵庫からもう一本の缶ビールを取り出した。





風呂を出て濡れた髪を拭いながら閉め忘れたカーテンを引こうと窓に近寄れば、見遣った窓の外、狭いバルコニーにある隣室とのパーテーションの隙間から、僅かに灯りが漏れているのに気がついた。そう言えば隣人が入居したようだったなと思い当たる。
非常時の為の蹴破り板は隣室バルコニーとの間を隔ててはいるが、このように上下が開いた薄い板などでは万一の火災などより不法侵入の危険の方が高いのではないか、防犯上これはどうなのだ。俺自身は男であり護身の心得もあるが住人が女性だったりした場合は……とそこまで考えた俺の思考が止まる。
バルコニーの下には小さなエントランスがあり、日中であれば私道を挟んだ向こう側にさほど大きくない月極駐車場が見通せるようになっている。しかし間もなく深夜帯に入ろうという窓の外は高い建物も店舗も近くにないために闇に沈んでいる。その闇の中にゆらゆらと風に乗り白い煙のようなものが棚引いてくるのが見えた。
まさか本当に火災と言うわけではあるまいな、と思わず乱暴に窓ガラスを引き開けた。

「おい、煙が……!」
「あ……っ、すみません、違います! これなんです」

音と声に驚いたのか隔て板から俺と同じくらいに慌てたような顔が覗く。俺に見えるように携帯灰皿に吸い殻を押し込んでいる。
先ほど“まさか”と思ったのは火災の疑念に対してのことであり、それ以上に驚かされる事実が目の前にあるなどとはまさか全く想像もしていなかった。
刹那時が止まったように感じた。
見開いた眼も唇も閉じることを忘れそれどころか全身を硬直させたままで、覗いたその顔を俺はただ凝視するしか出来なかった。
相手も相当驚いたのであろう暫くの間俺と全く同じように固まっていた。
顔を出しているその女性とバルコニーの真ん中に立ち尽した俺は、完全に止まった時の中で見つめ合う。
たが、頬を緩めたのは彼女の方が少しばかり早かったようだ。

「……ぷっ」

仕切りの隔て板から外に身を乗り出すようにしてこちらを覗きながら、彼女は口に手を当てて堪え切れないと言うように笑い出す。
目の前に忘れもしないみょうじなまえの顔がある、その事実を受け止めることさえ困難な頭で、涙さえ滲ませて笑う彼女を見つめたまま俺はまだ黙り込んでいた。
驚くべきか怒るべきかそれとも懐かしんで感動でもするべきなのか、今の俺にはまるで見当もつかない。俄かには信じ難い事態に心臓が常では考えられない程に激しく暴れていた。
かなり長い時間を置いてからやっと、未だ肩を震わせるなまえを前に力ない声で言葉を押し出した。

「……時刻を考えろ」
「ご、ごめ……でも、可笑しくて、」
「そのように身を乗り出しては落ちる」

なまえは、尚もくすくすと漏れる笑いを耐えながら一度その顔を引っ込めた。

「変わってないね、斎藤君」
「あんたもだ」

薄い板の向こうから小さな声が聞こえる。
あの頃この声にどれほど胸を掻き乱されただろうか。
なまえの顔が隠れてからやや落ち着きを取り戻した俺の中に当時の記憶がゆっくりと甦り始める。
実際に妙な夢でも見ているような心地だった。
6年の月日を隔て、想像を超えた場所で想像を超えたシチュエーションの元、あの時と恐ろしいほどに似通ったエピソードと共に彼女は再び俺の前に現れたのだ。
今まで見つめていた姿が脳裏に焼き付いている。肩より少し長めだった薄い色の髪が後ろで束ねられていた。あたたかそうな生地のラフな服に包まれた肩はむしろあの頃よりもあどけなく見えた。だが驚いて見開かれた濡れた瞳も抜けるように白い頬も、あの頃と何一つ変わってなどいなかった。

斎藤君はすぐにわたしのことなんて忘れるから。

あの日なまえはそう言った。
だからと言うわけではない。しかし俺は忘れるよう努力をしてそして実際に忘れたつもりになっていた。だがこのように思いがけないことでいとも容易く鮮明に思い出されてくる記憶は、少しも色褪せていない事に気づかされる。
あの頃俺がどれほど切なく彼女を思慕していたか。
発展途上の子供に過ぎない俺がそれでもどれほど苦おしく彼女を想っていたのかを。
少しの沈黙の後あの頃と変わらぬ少しハスキーな声が聞こえた。

「こんな偶然ってあるんだ」
「ああ」
「また斎藤君に会えるなんて、驚いた」
「…………、」

“会うなんて”ではなく“会えるなんて”と彼女は言った。その言葉にほんの微かに引っ掛かりを覚えた。相変わらずだと思う。
会いたいと思ってくれていたのならばあの後に会う手段は幾らでもあったのだ。その為にあの日の俺はなけなしの勇気を振り絞ったつもりだった。だが会うことを望まなかったのは誰でもない彼女の方なのである。
黙っていた俺の耳にカチリとライターの音が届く。

「禁煙したのではなかったのか」
「一時したんだけど……、煙草吸う女、嫌い?」
「どちらでもない。あんたが喫煙者であろうがなかろうが俺には関係ない」
「そう……そりゃそうだね」

なまえは乾いた声でもう一度笑った。
見てもいないのにその表情が容易く想像出来、俺の胸にチクリとした痛みが走る。最後に見た彼女のどこか寂しさの混じる瞳を思い出したのだ。
殊更に突き放した言い方をするつもりではなかった。あの頃俺がどれほど苦しんだとてそれは遥か昔のことであり、高校時代のことなどを思い出して恨み言を言うほど俺はもう子供ではない。
6年の歳月というのは長い。
今にして思えばあの頃俺と彼女の間に起こった全ては幻のようなものだったのだ。
こうして再び会うことさえなければ徐々に薄れ、いつかは本当に忘れて消えていく幻だった筈だ。
こちらの内心を忖度する素振りもなく再び顔を覗かせたなまえが興味深げに俺の全身を見る。その顔には俺が焦がれた時と変わらぬ笑顔が浮かび、その瞳はあくまでも澄んでいた。

「背が少し伸びた?」
「変わっていない」
「そう? でも大人っぽくなった。なんの仕事してるの?」
「CEだ」
「それってどういう?」
「システムのハードウェア保守をしている」
「へえ、流石に斎藤君。難しそうな仕事してる」
「……あんたはどこの学校に、」
「…………、」

不意になまえの頬が翳り彼女は口を噤む。
その様子から聞かずとも俺は彼女が教師と言う職業に就かなかったのだと悟る。その理由も現在の彼女の背景も俺は何一つ知らぬのに。
彼女が何かを抱えているのではないかと。
かつてなまえの評したそれが本当ならば、当時持っていた筈の純粋ささえ、きっと今の俺はもう持ってはいないと思う。それだというのに忘れていた筈の過去の想いが、心の奥底で枯れることのなかった欠片が、信じられないほどに唐突なこの再会の所為で、いちどきに己の中に降り落ちてくるような気がするのだ。

「元気そうだな」

だが口をつくのはあまりにも間の抜けた、前後の脈絡もなければ意味も為さぬつまらない言葉でしかない。
なまえは「うん」と小さく頷き、綺麗な笑顔で笑った。


This story is to be continued.



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