いつか、彼方 For featurephone | ナノ
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07: 夏の終わりの追憶


これまでに経験したことが無いほどの煩悩に、心の裡で独り翻弄され疲弊していた。
何かことが起こるたびに揺らぐ俺の心はなんの決心も出来ず、それでも結局体育館の裏には放課後毎日様子を見に行っていた。
今週になってから猫は一度も現れない。餌の減り具合もまちまちで食べた形跡のない時さえあった。新たな通い処でも見つけたのであろうか。
なまえと言葉を交わすことはおろか、直接顔を合わせることもなく週の半分が過ぎた。彼女がこの学校に通ってくるのも残りたったの二日となる。
その日のHR終了後、鞄に教科書ノートの類を入れ席を立ちかけた俺に近づいて来た平助が、「一君、悪いんだけどさ、」と差し出したのはA5版サイズの政経問題集だった。

「これ返しといてくんねえ?」
「何故俺が。そのようなものは己で、」
「わりい、俺本当に今日時間がないんだ。総司が一君に頼むといいって言ってたからさ」
「総司が?」

辺りを見回し総司の姿を探すが教室内にはどこにも見当たらない。そうしている間に手に押し付けられた問題集を突き返すことが出来ぬまま「ほんと、ごめん」と言いながら手で拝む格好で後ずさりすぐに踵を返していく平助を茫然と見送った。
問わずともこれが誰の所有物であるのかを、俺は当然のことながら知っている。しかし平助がこれを“誰に”返せとその名を言わなかったのは単なる失念か、総司が何故俺に託せと言ったのかその理由など気にも留めていないという事なのか、何一つ言及することなく彼はもう既に教室を出て行った後だ。
胸がざわついた。夢を見た日の朝から俺は実質的になまえを避けてきたが、そうすればするほどに尚彼女を求める気持ちが高じていくのをどうする事も出来ずにいた。俺は己の感情を誰に吐露する事も出来ない。総司もあれ以来特に何かを言ってくるわけではなかった。
感情というものは押し込めればその分無駄に膨れ上がっていくものなのかもしれぬ。
だがだからと言ってどうしてよいかなど解らない。
手にある問題集をパラパラと捲ってみる。
ところどころに書き込みがあり、それがなまえの筆跡であると思えば心が震えた。裏表紙の内側に丁寧な字で書かれた“みょうじなまえ”の記名。見つめているうちにあと二日しかないのだという事実が改めて思い起こされる。
なまえがここを去った後、果たして元の自分に戻れるだろうか。
たった二週間と言う短い期間のことだ。人が長い一生を生きる中で二週間というのはあまりにも微少だ。その中で言葉を交わしその瞳を見つめたのもほんのささやかな時間でしかない。
それでもその僅かな時間のせいで、これまでに経験したことのない切なく苦しい想いを持て余し、夢に見る程に懊悩した。
このまま全てをなかったことにして俺はなまえを忘れてしまえるのだろうか。
己の本心に嘘をついても。





「何、してるの」
「…………猫に、餌を」
「こんな時間まで? また寝ちゃったとか?」

俺は視線を逸らす。「あんたを待っていた」などとはとても言えなかった。
餌や水の補充などとっくに済ませてある。ここに来てから優に二時間。だがこの日も猫は現れず仕舞いだった。
西日が力を弱め始め、早い宵の気配が感じられた。
二週間ほどしか経っていないというのに、俺達を包む外気温は初めて出逢ったあの日と全く違っている。
今日は教育実習生の集大成である研究授業が行われると聞いていた。授業の後でなまえは土方先生や日本史の教科担当の先生との反省会やレポートの提出をしてきたのだろう。
きっと緊張していたに違いない。だが俺にはその時の彼女の気持ちを忖度する余裕などなかった。
俺は習慣となった仕草で片手を制服のスラックスのポケットに入れたままだった。陽が高いうちは温かかったコンクリートの段は冷えており、そこに座った俺の膝には政経の問題集が開かれている。一メートルほどの間を開けて俺の前に屈んだ彼女は目にした筈なのにそれについては特に何も言わない。

「最近来ないね、あの子」

なまえは時折吹き過ぎる風に揺れるセイタカアワダチソウの向こうを一度見遣り、餌の紙皿とコンクリートに置いた俺のスポーツバッグにさりげなく視線を走らせる。彼女も手提げバッグみたいなものを持っているがその中身は恐らく俺と同じものだろう。
白い半袖シャツの上にアイボリーの薄手のカーディガンを羽織っていた彼女は微笑んでもう一度言った。

「何をしてたの」

俺はあんたが先日言ったように真面目でもなければ純粋な人間でもない。大人ではなくともそう簡単に口になど出せない。
いつであろうと気がつけばあんたのことでいっぱいになっている俺が、あんたに会いたくてあんたと話をしたくて、いい加減に堰を切って溢れ出て来そうな恋情を抑えかねて、痛む胸を握り締め唇を噛みしめていた事など、毎夜夢想し脳内であんたを思うさま蹂躙していたなどと言えるわけがないだろう。
なまえは単に「ここで何を」と聞きたかっただけなのだと解っていた。しかし腹の底から急速にせり上がる激情を制御しかねた俺の口から零れ出るのは恨み言に近い言葉でしかなかった。

「綺麗ごとだ」
「え?」
「変わらずに真っ直ぐに進むなどどうすれば出来る」
「斎藤君?」
「今ここで立ち止まって動けない人間に、未来の可能性などどうして考えられると言うのだ、あんたは一体俺を……」
「斎藤君」

彼女の二の腕を利き手で掴み引き寄せた。僅かに腰を上げた俺の膝から問題集が落ちる。
あれから一日の例外なく夜ごとこの細い腕が俺を包み、この声が俺の鼓膜を擽り、俺の中に耐えがたい程の熱を注いできた。
一度だけ見た夢は忘れるどころか日々俺の中で鮮明になり、色も匂いもないのに確実に温度を伝え、まるで目の前に生身のなまえがいるかのように俺を揺さぶった。
あんたは唐突に俺の心に踏み込んできた。
このすぐそばに揺れるセイタカアワダチソウの繁みの間に足を入れると同じように、ごく自然に、そうだ、まるで猫のように屈託なくそして悪気もなくそれをやってのけたのだ、あんたは。
そうして俺の心を掻き乱しておいて、姿を見せなくなったあの猫と同様に俺の前から黙って消えていくつもりでいるのか。

「俺の気持ちは解っているのだろう? あんたは俺を……どうしたいのだ、」
「…………、」

なまえが息を飲んで俺を見つめる。己の言っていることが滅茶苦茶だということなど解っている。
勝手に恋心を抱き勝手に思い惑っていたのは俺の方だ。一度として彼女が能動的に俺に近づいてきた事も特別な言葉をかけてきたこともなかったのだから。
あと50センチ。
息遣いさえ聞こえるこの距離で、力を込めてこの手を引けばきっとなまえを腕に収めることが出来る。だが彼女はすぐにでも巧みな言い回しでまた俺を子ども扱いでもして、そうして少し大人びた顔で笑い優しく俺の手を外すのだろう。そう思えば力の入りかけた手が怯む。
しかしなまえはそうしなかった。何も言わずに琥珀色の瞳を見開いたまま俺を見つめている。
落ちかけた太陽が彼女の片頬を緋に染める。
こうして見つめ合っていれば必ず俺の中に在る情欲を悟られてしまうだろう。暫しの沈黙に耐え切れなくなって負けたのはやはり俺の方だった。

「すまない……」

腕を放し俯いた俺はその手で足元に落ちた問題集を拾い上げ、先刻平助にされたと同じように受け止める準備の出来ていない手に押し付ける。
立ち上がりざまに「平助に頼まれた」と一言を告げて俺はその場をもう立ち去ろうと考えていた。いつだって同じだ。こうして空回りをして結局逃げることしかできない。
身体の向きを変えかけた俺を見上げたなまえが掠れた声で呟いた。

「セイタカアワダチソウはただ偶々ここにあるだけで斎藤君の役には立たない。シャツについた花粉は少し気になるかもしれないけど、毎日洗濯をすればいつか消えていくんだよ」
「…………」
「……何も残さないし、斎藤君の未来には、必要がない」
「何のことを言っている?」

思わず振り返ればなまえは小さい笑みを見せた。それは先程よりも照度を落したこの日最後の光の中で酷く寂しそうに見えた。

「わたしのこと」
「あんたはこの草とは違う……、」
「同じだよ。心配しなくても斎藤君はすぐにわたしのことなんて忘れるから」
「簡単に言うな! あんたに何故それが解る」

言いかけて彼女が手にしていた物に目を見開く。
無意識にポケットを探った俺の手はそれに触れることは出来なかった。あれから常に俺のポケットに入っていた筈のセントーレア。つい先刻出した手と一緒に滑り落ちたのだろう。
すっかり陽が落ちてあたりは急速に暗くなっていく。

「これ、」
「…………っ」
「返してもらってもいいかな」

俺がそれを持っていた事をまるで知っていたかのように、抑揚のない声で言ったなまえの瞳はもう笑ってはいなかった。それでも絡まる視線を外しはせずに俺を見上げ続ける。
羞恥に胸を掴まれ顔に熱が集まった。

「……部活の日に拾ったが、返すきっかけがなく……すまない」
「いいの」

彼女はやはりこのまま、俺を生殺しにしたまま去っていくつもりなのか。
俺は想いをどう言葉にすればよいのかなど未だに全く解らぬままだったが、それでも何か言わねばこれで終わってしまう。
なまえと二度と会えなくなる。
羞恥を超える思慕と焦燥が這い登る。
何か言わなければ。

「あんたは俺を嫌ってはいないと言った。あれは嘘か?」
「…………、」
「あんたがここから去ればもう教生でも生徒でもない。だから、」

彼女は何も応えずにただ俺を見つめる。笑顔を消した彼女の顔はどこか悲しげで、消え残る残照に暗く翳った琥珀色は肯定どころか否定すらも返してはくれない。
この実習が終わったら問題ないだろう?
出来ることならばもう一度あんたと会いたい。
そう言いたかった言葉を全て口に出すことが出来ずに俺は黙り込んだ。
口を開くことの出来なくなった俺は彼女の手にある政経の問題集を奪い取る。驚いたように見返す彼女の目の前で最後の頁を開き、カッターシャツの胸ポケットに刺さっていたシャープペンを左手で抜き取った。
右手に持って広げた最後の頁は、立ったまま下敷きもなしに字を書き入れるには柔らかすぎる一枚の紙でしかなく、筆圧をかければ破れてしまいそうだった。結果なまえの記名の隣に並んだ数字の羅列は辺りを包み始めた薄闇の中では判別が難しいほどに頼りなく、不恰好なそれは読み取る事が困難に思われた。普段はどちらかといえば文字というものを正しい姿勢で丁寧に書く事を身上としている。しかし今はそのようなことに構ってはいられなかった。
想いを伝える術を持たぬその時の俺にはもうそれしか出来ず、なまえは俺のすることをただ黙ってじっと見上げていた。

「連絡を、欲しい。いつでも構わぬ」

閉じたそれを彼女の片手に押し付けながらもう片方の白い手を引く。俺にどうしてそのようなことが出来たのか今でも解らぬが、ただ必死だった。
逆らわずに俺に手を引かれ立ち上がったなまえはやはり何も言わずに俺を見ていた。それは夢で見たあの瞳と寸分変わらずにどこかに寂しさを湛えた瞳で、薄く開いた唇からは何も音が聴こえないのに吐息が微かに俺の名を呼んでくれたような気がした。吐息は俺の名を呼んだあとで「好き」と言ったようにも聞こえたがそれは気のせいか、それとも彼女を求めるあまりの都合の良い幻聴かと自嘲した、その時だった。
熱が淡い柑橘系の香りを伴って柔らかく俺の唇に触れた。
ほんの刹那の出来事だ。
それは俺の意思か彼女の意思だったのか、それともそれ自体が夢であったのか、それさえもう解らないのだ。





それからの二日間をどうやって過ごしたかなどは忘れてしまったが、それまでの数日のように俺は校内でなまえを避けたりはしていなかった。
それどころかむしろ出来るならば何か一つでもいい、彼女の言葉を聞きたいと思っていた。
この先に続くなまえとの時間を少しは期待してもよいのだろうかと、切ない期待に縋る想いだった。
しかし校内でなまえと出合うこともすれ違うこともなく、体育館の裏の背の高い夏草の揺れるあの場所で会う事も二度となかった。
初めてこの学校に着任した時の様に終了式の挨拶があったかどうかさえも今となっては定かに記憶してはいない。
暑すぎた夏が終わりを告げ早い秋が訪れかけたあの9月。
常に手元を離さないようにした携帯電話は一度も彼女からのコール音を鳴らすことはなく、それが何よりも明確な彼女からの答えなのだと、随分時が経ってからやっと俺は認めた。認めるしかなかった。
初めての痛いほどの恋がある日突然に現れたと同じくらいの唐突さで、ある日を境に忽然と消えたのだ。
俺はなまえに関わる全てを忘れるよう努力をした。
俺の手から餌を食んだ猫も数日間俺の傍にあった青い花も、済んだ瞳で綺麗な笑顔を見せたあの人とたった一度だけ触れた唇も。
全ては最初から夢だったのだと、あの高く遠い空の彼方へと今も吹きすぎていくこの風のように舞い上がり、そして呆気無く霧散したただの夢なのだと。


斎藤君はすぐにわたしのことなんて忘れるから。


chapter1 end
2014.08.31-2014.09.28



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