いつか、彼方 | ナノ
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繊細な独身者の釦



口を噤んだ俺に元通りの笑みを向けるとなまえは取り出した鍵をドアの鍵穴に差し込む。
カチャリと呆気なく開錠される音は、彼女と俺が単なる隣人と言う以外になんの関係もないのだと、止めを刺すかのように響く。

「斎藤君、おやすみなさい」
「あ、ああ、」

ドアノブに手をかけもう一度こちらを見たなまえの言葉で、俄かに我に返り自身も鍵を取り出す。するりとドアの向こうへ消える彼女を見送る俺には、これ以上言えることも出来ることもあるわけがない。
なまえのドアに表札は出ていなかった。
ソファに倒れ込み出先で感じた緊張以上に強張っていた身体を脱力させる。帰宅の道で感じた心地よいものとは違う、くらりとするような酔いが急に回る。
俺は自身を自己制御に長けている方であると認識していた。あの夏の終わりの短いひと時を除いては。
滑稽だな。
それなのにあれから時を経た今も、こうしてあの時と同じ女性に乱される心が、あまりにも滑稽過ぎて自嘲が漏れる。
声にならない笑いを漏らし続け、呆けたように座面に顔を埋めていた。
意識が戻れば快晴だった。
右手首に巻いたままの腕時計に反射的に目をやれば、朝の9時近くを示している。どうやらソファに俯せたままで眠ってしまったようだ。
ソファの背もたれに跳ね上げてあるコートとスーツの上着、放り出されたままのネクタイは無意識に外したものだろう。こういったことは俺にはあまりないことである。蓄積した疲労の所為かそれとも心に溜まる割り切れぬ感情の所為か。
重いため息が漏れる。酒が残っているわけではないが頭がくらくらとする。
単身者にとって休日は生活を整えるのに貴重な時間だ。特に俺にとってのそれは毎週末当たり前のように与えられるものではない。
自転車を買いに行かねば。剥ぎ取るようにソファから身を起こし、脱いであったものをハンガーに掛けその足で浴室に向かう。
シャワーコックを捻り湯が温まるのを待つ間に隣室の玄関ドアが開く音を聞いた。浴室の換気用窓はこの部屋の玄関と同じ方向を向き、なまえの部屋のドアとより近く位置している。
耳に届く施錠の音と小さな靴音が遠ざかるのをどこか情けない気持ちで聞き、熱い湯を頭から浴びた。

あんたは何故再び俺の前に現れたのだ。

このような状況は望むどころか想像したことさえなかった。しかし再び出会ってしまった。
だからと言って俺に何ができると言うのだろう。





冬が近いと言うものの思った以上に気温の高くなったその日、崩れる気配のない空はどこまでも高く澄み渡っていた。ブラックカーゴとワークブーツ、長袖カットソーの上に深く考えず羽織った丈の短いグレーのPコートが幾らか暑く感じる。
首元まで上げていたジッパーを下ろし、購入したばかりのロードバイクで日頃あまりゆっくり見ることのない商店街を回った。
暫くコンビニ弁当や外食ばかりだった食事を考え、今夜は久しぶりに自炊をしようと思い立つ。料理というものは日頃する機会がないが、やる気がないわけではない。分量を正確に量りレシピ通りに進めれば大抵のものは出来るだろうと思う。
立ち寄った駅近くのスーパーは昼時から家族連れで賑わっていた。
地域密着型のこういった大型店は非常にフレンドリーであり活気に満ちている。物珍しい気持ちで旬の野菜などを手に取って見る。
鮮魚コーナーでは秋刀魚が売られていた。これならばグリルで焼けばいい。銚子産と札が出ているので買うことにする。白衣に白い長靴の中年男性が大笊に盛られた魚を前に愛想のいい声をかけてくる。

「お兄さん、何尾?」
「一尾、もらっていこう」
「おや、いい男なのに独身かい」
「……では二尾にする」

彼に他意はなかった筈だ。
しかしその時意識に何かが触れ、咄嗟に言い直した己の心理は理解不能だった。全く不用意に赤面する俺に気づかぬように、鮮魚売場の店員は大声で再び問う。

「はいよ、二尾。頭とワタは取るかい?」
「頼む」

満面の笑みを浮かべる彼の親切に甘えそれもしてもらうことにし、ややあって手渡されたビニール袋に収まった二尾の秋刀魚を見、俺は改めて困惑した。
旬の秋刀魚が幾ら旨いと言っても独りで二尾は流石に多いだろう。冷凍すると言う方法もあるがそれもどうなのだと考えながら大根を手に取り、豆腐のコーナーでは寄せ豆腐を吟味する。
ロードバイクには荷カゴも荷台も無い故、量は買えぬと思いそれらの支払いを済ませ、片手に袋を下げて再び自転車を駆る。
駅裏の商店街はこれまで足を伸ばしたことがなかったが、見れば新しく洒落た構えの店と古い店が混在していた。
最先端を意識したようなヘアサロンの隣に前時代的な和菓子店がある。煮締めたような色合いの中華飯店の隣に並ぶ弁当屋の鮮やかなロゴは都心でも見かけるものだった。チェーン展開をしているその店は弁当だけでなく惣菜を量り売りしており、客先などで昼食に利用したことが幾度かあった。
ここにもこの店があったとは知らなかった。しかも有難いことに深夜近くまで営業しているようだ。
自転車を降りることなく硝子張りの店内を外から眺め、今度立ち寄ってみようと踵を返し元来た道を戻ろうとした時、その店から出てきた客らしき男と無意識に目が合う。
短髪のその男の視線は鋭く少し釣り気味なのが特徴的で、きっちりと乱れなくスーツを着込んだ片手に持った弁当の入った袋とのんびりとした休日の商店街が、彼にはあまり似つかわしくないように見えた。
ゆっくりと走らせたロードバイクを次に停めてしまったのは小さな園芸店の店先だった。
隅のあまり目立たない場所に売れ残りのように置かれている園芸用の箱。ポットの数もまばらであるが、添付されている札には花の写真が表示されており、それが目に飛び込んできたのだ。
このような季節にここでこれに出会うとは。
鮮やかで透明感のある深い青。目に染みるような美しい青い花。
小さな黒い園芸用ポットの土の上、丸みを帯びた苗は健気で愛らしい。

「ヤグルマギクですよ。おたく、庭ありますか」

自転車を降り屈んで見ていたところに急に声をかけられ驚いて見上げれば、悪いがどう見てもおよそ花を育てるような雰囲気にはとても見えない男が、にこりともせずに立っていた。

「ヤグルマギク? これはセントーレアと言うのでは」
「和名が矢車菊です。丈が高いのでイングリッシュガーデンのように自由に咲かせるといい」
「庭はないが、鉢植えでは育たないか」
「水はけと肥料に注意してやれば鉢でもプランタでも咲くかもしれません。元々が雑草だから強いことは強い」

年齢不詳の店主は売る気があるのかないのか、淡々とその花の世話について語り最後に「春になれば切り花で売ってますよ」と言った。





単身者用のアパートではあるが1LDKの間取りのキッチンは意外に使い勝手は悪くない。日頃あまり使うことはないが入居時に最低限の調理器具も用意していた。
秋刀魚が焼き上がるのを待ちながら下ろし金で大根をおろす。
先ほどグリルの火を点けた時点で会社から一本障害の電話が入った。明日は出勤になるかもしれぬと考えながら缶ビールを呷る。このようなことは日常茶飯事である為慣れているのだ。
寄せ豆腐を冷奴に仕立て、脂がのり程よく焼けた秋刀魚の皿と共にテーブルに運び、部屋の中に漂う焼き魚の匂いを逃す為に窓を開けた。
日中の温かさが幾分残っているそこで少しの間外を眺める。18時を回ったところだがあたりは闇色に包まれ始め随分と静かだ。ふと足元に目を落し笑みが漏れる。
明日保守に向かう事になる客先の資料をタブレットで一応確認し、秋刀魚に箸を着けつつ音を低くしたテレビで夕方のニュースを見ながらビールを飲んだ。
不意に隣室の窓の開く音が聞こえてくる。
なまえが帰宅したのだろう。
缶ビールを二本飲んだ程度で酔っていたわけではないが、幾分高揚していたのは事実だと思う。テレビを消してソファから立ち上がり再び自室の窓を開けた。
例によって煙草の煙が白く流れてくる。微かな煙草の匂い。けれど決して不快ではない。

「今帰ったのか。夕食は済んだか?」
「……え、」

唐突な俺の言葉に隔て板から顔だけ覗かせたなまえは、俺の部屋から漏れる僅かな灯りを受け少し驚いた顔をしてから微笑んだ。

「ただいま、斎藤君。夕飯はまだ」

予測にない返答に不意を突かれ俺は狼狽える。
夕食の部分ではない。なまえの口から事もなげに出た「ただいま」という言葉だ。
それは家族など身近な者や共に暮らす人間に対してかける挨拶ではないのか。ごく親しい間柄の人間同士で交わされる言葉。
部屋からの灯りで俺は逆光になっている。熱の上った顔色を気取られることはない筈だが、酷く動揺し顔を逸らした。

「……ま、待て、少し、」
「は?」
「そのまま、」
「うん?」

ふわふわとまるで雲を踏むかのような足取りで部屋に戻った俺は真っ直ぐにキッチンに向かう。「ちょっと、ねえ、どうしたのー?」と開け放したままの掃き出し窓の外から声が聞こえてくる。そのように大きな声を出しては近所に迷惑だろう、そう思いながらも緩み始めた頬は如何ともしがたい。

「これを、」
「……え、これ」

仕切りから覗かせている顔の前にぐいと突きつけられた大皿を見て、彼女は目を丸くした。そうして有無を言わせぬ俺の勢いに押されたようにおずおずと手を出し皿を受け取る。
ふと思い出し「もう少し待ってくれ」と俺は再び部屋に取って返し、大根おろしを入れた小鉢と箸を手に戻った。
彼女は再び目を瞠り、しかし振り返ってすぐ後ろにある室外機の上に大皿を置いたのだろう、俺の手からそれらも受け取って僅かに当惑したような表情をし、顔だけを出したまま俺をじっと見つめた。長い睫に縁取られた黒目勝ちのもの問いたげなその瞳に、自分でしたことながら俺は身の置き所のない心地になる。

「ありがとう、でも……どうして?」
「まだなのだろう、食事が」
「それはそうだけど、斎藤君のは?」
「俺の分は、ある。……迷惑だったか」
「そんなことない」

何かを察したのかそうでないのかは解らぬが、なまえの戸惑った表情がゆっくりと笑顔に変わっていく。隔て板の向こうに引っ込んで少しの沈黙の後「お腹空いてたんだ。嬉しい」と声を上げた。

「斎藤君が焼いたの?」
「ああ、」
「料理出来るんだね、すごい」
「……料理と言うほどのものでは、」
「あ、それじゃわたし、ビール持ってこようっと」
「……何? そこで食べる気か」
「いけない?」
「いや、」

パタパタと室内に戻る足音が聞こえ、ややしてから隔て板からにょっきりと手が伸びる。「お返し」の声と共に伸ばされた細く白い手には缶ビールがあった。

「ビールならこちらにもある」
「でもお返しだから。乾杯しよう?」

なまえは酒も嗜むのか。特に驚くようなことでもないが、また改めて知る彼女自身にかかわる事柄にささやかな喜びを感じるのは、やはりほんの僅かであってもアルコールが回っているからだろうか。それともこの状況に酔っている所為だろうか。
プシュッという独特な音に続き缶ビールを持った手だけがまた覗く。「ねえ、乾杯」と言う声に絆されつい受け取ると、再びプルタブを引く音が聞こえ彼女が顔を覗かせる。不自然な恰好で俺の手に在るそれに自分の缶ビールを軽く合わせた。

「そう身を乗り出しては危ないと言っただろう。三階だ」
「ふふ、」と笑ってまた引っ込んだ彼女がその場に腰を下ろしたような衣擦れの音がした。
「秋刀魚、いい焼き加減。大根おろしも美味しい」
「そうか」

俺はなまえに手渡されたビールを口にして、不思議な満足感を覚える。
夜風は冷え始めている。この季節の夜のバルコニーは缶ビールを飲むのに適した場所とはとても言い難い。
あまりにも奇妙な晩餐会だ。薄い板に隔たれた空間で互いの顔も見えず、気配だけを感じながら共に酒を飲んでいる。
だが心の奥底から何か温かい感覚がじわじわと体内に広がっていく。

「あんたを……俺は、」
「ん? 何か言った?」
「……何も言っていない」

隣人と言う立場でも構わない。あの頃よりも少しは身近な存在になれるのだろうか俺は、あんたの。
防犯の面から考えても俺がなまえを気に掛けるのは、隣人である以上不自然なことではない。出来るならば陰ながら守りたい、それは可笑しな考えでもないだろう。
そう結論付けたのはいつになく気が大きくなっていた所為かも知れない。
掃き出し窓を開けた桟に腰掛けてなまえに手渡されたビールを味わいながら、俺は再び足元を見遣る。
バルコニーにはこれまでエアコンの室外機以外何もなかったが、今日から小さなプランタが窓枠に添って置いてある。縦の長さが30センチにも満たないそれは、あの園芸店の店主が意外にも労を厭わずにセントーレアの小さな苗を二株、肥料と共に植え付けてくれたものだ。

「この花はバチャローズボタンとも呼ばれてましてね、春に蕾が着きますよ」

この冬を越してこの花が開いたら。

「斎藤君」
「な、なんだ」

考えに耽っていた俺はいきなりかけられた声に肩を跳ねさせた。それには全く気づかぬ様子でなまえが静かな声で短く続ける。

「懐かしいね」
「ああ、……そうだな」

あの夏の終わり。背の高い夏草の茂る体育館の裏での光景が目の裏に甦る。
忘れようと思い忘れたつもりになっていたが結局忘れることのなかったあの頃を、なまえの言葉で鮮明に心に浮かべ再び暫しの感慨に浸る。
その時の俺は薄い板を隔てた場所にいる彼女の瞳が、俺の見ていたものよりももっと遠くに向けられていたことに、気づく事など出来なかった。


This story is to be continued.

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