いつか、彼方 | ナノ
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時計仕掛けの恋



あれから数日、帰宅後の決まった時間に隣室の窓の開く音が聞こえた。恐らくなまえが煙草を吸う為にバルコニーに出ているのだろう。10分にも満たない時間ではあるがなまえがそこにいる密やかな気配を感じた。
ここ最近は定時で帰宅ができており、それはいつもシャワーを浴び終わる時刻と一致していた。
俺はテレビや音楽を見聞きしないわけではないが流しっぱなしにする習慣はない。自室では大抵無音で過ごすがそれまで近隣の物音に悩まされたという経験はない。鉄筋造の集合住宅は軽量鉄骨などに比べれば静かな上、住人は単身者の勤め人が多く自宅にいる時間が短いからだろう。とはいえ、無音の中で隣室が生活音を立てれば思いの外よく聞こえるものだ。
なまえのそれは決して大きな音ではなかった。それに気づくのは無意識のうちに俺が全神経を右隣の部屋に集中させているからだ。隣人が他の者であったらこうではなかったかもしれぬ。この感覚は当時の想いの残骸を引き摺っている所為だと自身でもわかっている。
他愛なくあの切ない思慕の情を甦らせ、再び彼女に溺れる己を想像するのは俺にとってそう楽しいことではなかった。
ガラス窓に手をかけては思い直して静かにカーテンを引く。





東玄関セキュリティーゲートに通行証を翳し、中央合同庁舎第五号館を出て僅かに入っていた肩の力を抜く。隣を歩く原田左之助が俺を横目に見てくすりと笑った。

「一杯いくか?」

仕事上がりの酒の席は何かと理由をつけ断ることが多かったが、今日のような場合は流石に真っ直ぐに帰宅する気にならず、また週末でもあることから俺は左之の誘いに頷いた。
業務中は作業着を着用するが、都心という場所柄客先への行き帰りはスーツである。手にした10キロ前後もの重量がある作業用の鞄を会社に戻す為、一旦帰社をする事にした俺達は庁舎の集まった一帯のほぼ中央に位置する地下鉄駅の階段を下りた。

「霞が関も直ぐに慣れる」

三本の路線のうちラインカラーがシルバーのホームへと下り、口笛でも吹きそうなほどリラックスしたその長身の背がまた鷹揚に笑うのを無言で見れば、程なくして下りのホームに電車が滑り込んできた。
それから三十分余り後にはオフィス最寄駅近くの居酒屋で座敷に上がり、俺は左之と共に生ビールのジョッキを傾けていた。

「そういや斎藤、千鶴となんかあったか?」
「……誰だ?」

俺はこれから長く通う事になる庁舎での業務についてアドバイスをもらうつもりでいたが、左之は全く関係の無い事を言い出した。彼の口から出たその名がすぐにはピンとこない。
左之は現場の主戦力であり小規模案件ではチームリーダーとしてメンバーの管理にも当たる。俺にとって左之は大先輩とも言える存在である。彼はまた大学の剣道部の先輩でもあった。上下関係にきっちりとした大学の部活動でも持ち前の性格の良さから、年齢に拘ることなく当時からずっと変わらない気さくな彼を業務中は「原田さん」と呼ぶ場合が多いが、プライベートではつい昔ながらの呼び方になる。
左之は俺にとって数少ない友人の一人と言えた。

「この間お前に叱られた雪村千鶴だよ。かわいそうにな、俺に泣きついてきたぜ?」
「雪村のことか」

そう言われれば思い当たるが、これまでファーストネームまではよく認識していなかった。叱られたと言うのは先日の電話連絡のことを指しているのだろう。
あの翌日わざわざ外出前の俺のデスクまで出向いてきた雪村に、業務上のことは時間内に済ませてくれと言えば、彼女は確かに顔を曇らせたように見えた。

「左之、俺は責めたわけではない。あの程度のことで連絡をされてはこちらも気が休まらぬ故、控えて欲しいと言っただけだが」
「女の扱いの下手なところは変わらねえな、お前。事務連絡じゃねえだろ、わかるだろ普通」
「…………面倒は好まない」
「そういうことかよ。だがモノには言いようってのもあるんじゃねえか?」

左之は苦笑をするが、実際に社内の女性の扱いを会得する必要など感じない。このような場合は気を持たせる方が酷というものだろう。
そのような些末な件よりも、今は業務上で左之に聞きたいことが幾らでもある。例えば総合行政ネットワークについてだ。
日本の行政機関が集結し官僚という人間の溢れるあの場所は総称して霞ヶ関と呼ばれる。俺が異例の抜擢を受けたのは、霞が関で十数年前から開始された組織内システムの保守チームであった。今日チームの一員である左之に同行したのは最初のアプローチであり、見学を兼ねた下見と言ったところだ。
一般企業であろうが官公庁であろうがやる事は同じだ。誠心誠意を尽くし業務に当たるのはどの現場も変わりない。しかし中央省庁28機関が相互接続したコンピュータネットワークシステムに携わる事は、それが末端の作業であっても慣れない俺にはやはり特別な緊張を強いられる。

「霞が関の人間に取っちゃ、俺達はあの巨大なマシンの一部と同じだぜ? 口を利く機械みたいなもんだ。求められているのは技術力だけだ」
「そこは理解しているつもりだ」
「それにな、斎藤。あそこに集まる人間だって、中身は俺達と大概似たようなもんだぜ。緊張する必要なんかねえ。お前は今まで通りでいい。気を楽にして当たれよ」

仕事の話はこれまでだとばかりに品書きに目を走らせながら、通り掛かった店員を呼び留めた左之は手元のジョッキの中身を空けた。
多くを聞かず的確な答えをくれる。左之という男のこういったところが以前から俺には非常に好ましく、また他の人間と違う信頼を感じる部分だ。
左之の指先に挟まれている煙草から立ち昇る紫煙をふと見つめた。左之は本来喫煙者ではないが、ごく偶に酒を飲みながら煙草が欲しくなる時があると言う。
不意にあの夜窓の外に漂う煙に慌てた己を思い出し、情けないような可笑しいような気持ちになった。そして6年前にも全く同じ反応をしたことまでが思い出されてくる。確かに俺は何も変わっていないのだ。
煙草の銘柄というのは一体何種類ほど流通しているのだろうか。なまえはそのうちのどれを好んでいるのだろう。再び煙草を吸うようになったのは何故なのか。
教員になりたいと言っていた。今その職に就いていないのは教員資格認定試験に通らなかったということだろうか。それとも別の理由だろうか。
彼女は俺には解らない何かを未だ抱えているのではないだろうか。
3杯ずつ生ビールを飲み、日本酒に替えた頃には疲れた身体に少しずつ回っていたアルコールのせいか、全くの無意識に隣人となった人物に頭を占められている。
女性の扱いと言うのならば彼女の、みょうじなまえの扱いをこそ知りたいものだと思う。彼女は昔も今も常に予測にない動きをし、途方もなく俺を驚かせる。そうして俺は結局いつでも振り回される。
この予期せぬ再会はまたそうした日々の始まりになるような予感がした。

「斎藤?」
「……なんだ」
「聞いてなかったのか? 酒、もう一本つけてもらうかって聞いてるんだけどよ」

空の二号徳利を目の前で振る左之に視点を合わせ、我に返った俺はそれまで考えていた事柄を打ち消すように頭を振った。

「そうか? じゃあ今夜はもうやめとくか」

先程まで社内の人間関係やら女性についてやらを語っていた左之は、俺が首を振った理由を勘違いしたようだった。
終電には幾らか間があるが実際今日はいつも以上に疲労を感じていた。左之の勘違いをいいことに今夜はこれで仕舞いにするのがちょうどよいだろうと思った俺は、内心を明かすことなく「ああ」と頷き傍らのコートに手をかける。
左之は自分の猪口に残っていた少量の酒をゆっくりと飲み干してから、俺をまじまじと眺めて唐突に「お前、今何考えてたんだ?」と笑った。
その問いかけに全く不覚にも体が熱くなる。高校時代のあの短い期間、常に頭を離れなかったなまえが再び現れて以来、俺はあの頃の病が再発することをひそかに恐れていた。
恐れながらも結局は同じことを繰り返そうとしている己に、たった今気づかされたからだ。





終電の一本前の電車を降りて駅舎を出、いつもよりも幾分緩い歩調で歩く。駅からの帰り道は酔い醒ましをしながら歩くにはちょうど良い距離である。しかしやはり自転車を購入しておいてもいいだろうと、駅前の商店街に並ぶ自転車店を眺め遣る。
この時間は既に閉店しているがそこは比較的大きな店で、通勤にも街乗りにも適したロードバイクのパンフレットは以前から取り寄せてある。
明日は仕事が休みであるから覗いてみるかと独り考えながら商店街を抜け住宅街に入る頃、すっかり車通りも途絶えた然程広くない道路を一台の車が通過していくのを見た。
何気なく振り返ればそのテールランプの形から、先日アパート前の私道で擦れ違ったあのシルバーの車のように見えた。品のある男の声を思い出す。あれはこの近在の人物なのだろうか。
自宅に帰りつき階段を昇れば俺の部屋の右隣のドア前に佇むなまえの姿があった。心臓が跳ね上がり、心地よく回っていた筈のアルコールが瞬時に引いていく。代わりに全身を血液が駆け巡るような動揺を感じた。
彼女は小さく腰を屈め華奢なバッグから鍵を探りだそうとしている。明るいクリーム色の膝丈のコートから伸びる形のいい脚は黒いタイツに包まれ、足元には踵の高い同色のショートブーツ。先日と違い髪は肩のあたりで緩く巻かれ、否応なく女性らしさを醸し出している。
かつて見たことのない姿。夜半近くの共用廊下に灯る心許ない蛍光灯の灯りの下で、それでもそれがなまえであることが俺にはすぐに解った。
隣人なのであるからこのように出会うことがあっても何ら不思議はないが、どういうわけかこの事態を全く想定していなかった。
振り向いて、大股で近寄る俺を目に留めたなまえは屈託のない笑顔で微笑む。綺麗に化粧を施された顔は品よく清潔でありながら、今まで見たどの時よりも色気を纏っているように見えた。

「あ、斎藤君、こんばんは」
「……何時だと思っている」
「は?」
「こんなに遅くまでどこをほっつき歩いていた?」

あまりにものんびりと掛けられた声についカッとした俺の口から出た言葉は、己でも何を言っているのかと耳を疑うほどお門違いなものだった。この事態が神経のどこに障ったのかなどわからない。
元より俺は彼女の保護者ではない。それどころか彼女との間には以前見知っていた者同士と言う以外、未だ明確な関係性などどこにもない。
それだというのに恰も責めるかのような詰問口調の俺を、なまえは驚いたように目を見開いて見詰めた。やがて感情を殺した声でゆっくりと答える。

「どこって。それ、斎藤君に報告する義務がわたしにある?」
「……義務?」
「それにわたし、子供じゃない」
「義務は……ない、すまん。余計な世話なのはわかっている。しかし……子供ではなくとも、若い女性がこのような時間に独り出歩くのは危険だと思わぬか」

なまえの言うことは最もだ。それも解っているのに俺は何を言っているのだ。
己に困惑しながらも止まらない。聞きたい事、伝えたい事はかつて溢れる程にあった。何となれば今であってもそうだ。それらを言葉にすることなど一つも出来ぬくせに、俺は何故こうしていつまでも喋っているのだ。
己の心を誤魔化す為か止まらぬ俺は言葉をさらに押し出す。

「防犯上のことから鑑みても、このあたりはこの時間には人通りも少なく、治安がいいとも言えぬ故」
「…………、」
「あんたは昔からそうだ。いつだって危なっかしくて、黙って見ていることが、その……、」

愈々何を言っているのか己で解らない。
だが俺はやはりあんたを見ている。あんたから目が離せないのだと己の脳内で理解するよりも先に言葉が零れ出していた。
幾らか酒が入っている所為とは言え、これ程に一時に喋ることはこれまでの人生の中でもそうそうなかったことだ。
しばしの沈黙の後でなまえは僅かに眩しげに瞳を細めてから、ほんの微かばつの悪そうな笑顔を浮かべた。
どう取り繕っても誤魔化しようがない。一度惹かれてしまった心は後戻りが出来ない。年齢や立場は変わっても俺の中身はあの頃から何一つ変わってなどいない。
この再会が真実偶然だったのだとしても恐らく俺にとっては違う。まるで最初から筋が決まっていたかのように、こうしてまた出会うことが予め決まっていたかのように思えてくるのだ。長い時を経た今、再び出会ってしまった以上あんたを想うことはもはや、意思の力で制御できることではないのだと。

「……ごめん。言い過ぎた」
「いや、俺の方が、出過ぎたことを……すまん」
「心配してくれたんだよね。ありがとう斎藤君」
「…………、」

改めて気づかされる己の本心に急に羞恥を感じた俺はそこで口を噤み、己でも解るほどに熱を上らせたまま彼女を食い入るように見つめるだけで、次に続けるべき言葉はもう如何にしても出てくることが無かった。


This story is to be continued.

時計仕掛けの恋



MATERIAL: web*citron

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