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new year count down …and
(2/5)


今年最後の日の朝、のろのろと起きてパジャマのままキッチンでコーヒーを淹れていると、エプロンをかけて頭にバンダナを巻き、既に一仕事終えた風情の母がせかせかと入ってきた。
「全く年頃の娘が……、」といつものお小言が始まりそうになり「はいはい」とやり過ごそうとすれば、ふと顔を明るませた母が伝えてきたこの日のスケジュールは、私を動揺させるのに十分だった。
寝起きの心臓が急に鼓動を速める。
手にしたマグカップを口に運ぶのも忘れ立ち尽くしている私の隣を、さも邪魔だと言わんばかりにすり抜けた母は、ビルトインコンロにかかった大鍋の蓋を開け菜箸でつついた。

「一君はこれが好きだったのよね」

鍋の中身は母の得意の筑前煮。
待って。
どういうこと?

「一君、数年ぶりにお正月休みが取れたんだって」

母が今さっき言った言葉を反芻する。
今年はお隣で二家族が集まって年越しをすることになったの。夕べなまえがお風呂に入ってる時に電話があってね。ほら、全員が揃うなんてすごく久し振りだから。
私は毎年年末に帰省して自宅で年を越しているけれど、ここ数年一の気配を感じたことはなかったように思う。
おじさんやおばさんや緋紗子ちゃん夫婦が年始のご挨拶に顔を出してくれるけれど、その時の会話を断片的に拾ったところから判断するに、一は某企業のSEをしていてお盆もお正月もない忙しさ、年末さえ帰宅出来ない事など当たり前、よしんば家に居たとしても自室で死んだように眠っているとかで、自宅住みとは言うものの母達でさえ普段なかなかその姿を見ることが出来ないと言う話だった。
だから私はここ何年も一に会っていない。正確に言えば彼の顔を正面から見たのはあの時が最後だったのだ。

「なに、ぼーっとしてるの。大掃除はもう大方済んだから、後はお料理よ。手伝ってね」
「…………、」
「もうすぐ一君がテーブルを取りに来るの。一君、素敵になったわよ。まあ、あの子は昔から素敵だったけど。あんた、みっともないから早く顔を洗って着替えちゃってよ」

一君、一君と人の気も知らないで悪気もなく繰り返す母に、恨みがましい目を向けるが無視される。
知らないよ。聞いてないよ。勘弁してよ。心臓がバクバクする。どうしよう、どうしたらいいの。
動揺が治まらないままマグカップを置いて、取り敢えず自室で服を着替えてくる。
嬉しそうな母は、緋紗子ちゃんのご主人も来てるしこの人数では斎藤さんちのテーブルだけでは手狭だから、我が家のテーブルと料理も運び込むのだと、聞いてもいない事まで説明しながらひどくはしゃいでいる。
男手が増えたからと父は早々と年末の雑用から解放され、既にあちらに行って斎藤さんのおじさんと将棋なんて指しているらしい。

「昨夜から仕込んだから、もうだいぶ味が染みたと思うの。火を止めておいてくれる?」

母はそう言ってまたせかせかとキッチンを出て行った。





「寿明さん、一とお隣に行ってテーブルを運んで来て頂戴」
「よし、わかった。一君、行こうか」

この状況に置いて拒否が出来るわけなどなかった。姉のお願いと言う名の命令を受けて張り切る義兄の後から、俺は足取りも重く玄関から数歩の距離にあるみょうじ家の玄関の前に立つ。
今この家の中になまえが居る。居るどころか今夜は食事を共にするらしい。
父も母も緋紗子も、義兄までもが何やら高揚した雰囲気を醸し出しているが、俺にとっては気まずいことこの上ない事態だ。
義兄の手で躊躇いもなく押されたインターフォンに応えて出てきたのは、果たしてなまえ本人だった。俺の全身が音を立てて強張ったような気がした。

「やあ、おはよう、なまえちゃん。朝から悪いね」
「……いえ、」
「お邪魔するよ。テーブルはどれかな」
「あ、そこのリビングの、」

てきぱきとした動作でさっさとなまえの家に上がった義兄は、彼女の横を通り過ぎ勝手知ったる風に奥へと進んでいく。
忘れもしない懐かしい声を聞き靴を脱ぎかけて動きを止めた俺は、あれから何年ぶりになるのだろう、思わず息を止めてなまえを見つめていた。
それは恐らく1分にも満たない時間だったと思う。
なまえは昨日母が言った通り、驚くほどに綺麗になっていた。
高校生の頃はまだどこかしらに中性的な少年ぽさを残していた彼女が、数年の時を経て臈長けた大人の女性へと変化している。癖がなく真っ直ぐだった長い黒髪が今は艶やかな栗色をして首元で柔らかく巻かれ、記憶の中のふっくらと丸みを帯びていたあどけない頬の線も随分と細くなった。変わらないのは濡れたような琥珀色の大きな瞳。
眩しさに俺がスッと目を逸らしたのと、なまえが俯いたのは恐らくほぼ同時だった。彼女のそれは当然の反応だろう。落胆が襲うがそれは元より覚悟していた事だった。なまえは俺を赦してなどいないのだ。
あの日の事を――。
俺は心の底でずっと会いたいと願っていたなまえと再会しても、ほんの一言を交わす事すらも出来なかった。





身の置き所がないと言うのは多分こういうことを言うのだと思う。
緋紗子ちゃんの旦那さんの寿明さんは気さくな人で、これまでに何度も顔を合わせている。ドアを開けた時大柄な寿明さんの姿が目に入って、私は一瞬ホッとした。そこに居たのが一じゃなかったことに。
だけど次の瞬間、寿明さんの後ろから顔を見せた一と目が合って、大げさでなく心臓が止まりそうになった。
私は大人になった一の姿を何度か想像したことがある。綺麗と言っても差支えない美少年だった一は、大人になって一体どれほどかっこよくなっただろうと。
海のような深藍の瞳や陽に当たって複雑に変化する美しい紫紺色の髪は変わっていなかったけれど、少年だったあの頃と違い精悍さを身に着けた一を見た時、私は声を出すことが出来なかった。
私の想像なんて遠く及ばない程、彼は大人の男性となって目の前に現れたのだ。
私の頭の中に苦い記憶が甦って来る。
もしも再び一に会うことが出来たら、そして話をすることが出来たとしたら、聞いてみたいと思っていたことが二つあった。
いざ顔を合わせたら聞くことなんて出来ないかも知れないけれど、それでも私は知りたかった。
あの高校三年の冬、一は千鶴ちゃんの編んだセーターをどうしただろうか。
彼女はピンク色のセーターを編んだ筈だ。そう、私はあの時千鶴ちゃんに嘘をついたのだ。彼女のピンク色の唇を見つめているうちに、私の口から自然と出た言葉は。

『斎藤先輩の好きな色、知っていますか?』
『一の好きな色は……ピンク色』

精一杯でささやかな抵抗。けれどあの頃の千鶴ちゃんにとってはきっと手酷い仕打ち。それは一を取られる悲しみに塞がれた私の醜い心がさせた意地悪だったのだ。
一は小さい頃から寒色系が好きで、特に好きだったのは彼の瞳のような藍色。ピンク色なんて正反対の色だし、そのセーターを受け取っても絶対に着ないだろうと浅はかな私は思ったのだ。
だけどそんな嘘は所詮すぐにバレた筈。千鶴ちゃんは勿論、一もきっと私を軽蔑しただろう。
それから直ぐのことだった。同級生の沖田君に告白されたのは。
一を失ってヤケクソになっていた私の事なんてお見通しだった沖田君は、大人になった今から思えば彼なりに精一杯優しくしてくれていたつもりだったのかもしれない。
けれどあの日、突然近づいて来た唇に怯えてしまった私は、沖田君を突き飛ばして逃げるように帰った。
家が見えてきた時、門の前に一が立っているのが解って、心がグチャグチャに乱れていた私は沖田君とのことがあった所為で一を見ることが出来なくて、何か言いかけたのを聞きもせずに家に入ろうとした。
次の瞬間に私の身に起こった事。
それは予想もつかない出来事だった。
一に腕を掴まれ引き寄せられて、いきなりのことで逃れることも出来ない私の身体は、彼の腕に捉われた。それは訳も解らないままの、生まれて初めてのキスだった。
ほんの僅か触れるだけのキスだったけど、私にとってはそれがあまりの衝撃で、一が何を考えているのか全然解らなくて。
千鶴ちゃんの事も沖田君の事も、そして目の前の一の事が一番解らなくなって、ただ悲しくて。
どうして?
どうして、一は恋人でもないのに、私にこんなことをするの?
気が付けば私の目から涙が噴き出して、右手は彼の頬を叩いていた。
あの時からだ。
一の顔を真っ直ぐに見ることが出来なくなったのは。
私にはあのキスがずっと忘れられない。どうしても頭から離れない。大学時代も社会人になってからも、告白されたことは人並みにあったと思う。
だけどその誰にも、どうしても頷けなかったのは、一の所為。あのキスの所為。
どんなに忘れたいと願っても、どうしても忘れることが出来なかったの、一のことを。
彼の方はあんな些細な事、今じゃ中学生でもしているような稚ないキスのことなんて、もうとっくに忘れているかもしれないのに。ほんと、馬鹿みたいよね、私。

一は知らないでしょう?
私、本当はね、ずっとずっと。
そう、多分物心がついた時からずっと。
私はあなたが好きだったんだよ。





ぴたりと並べたテーブルに所狭しとひしめいていた料理も粗方なくなり、昼過ぎに仕入れた大量の酒も残り少なくなっていた。
誰も観ていないテレビが除夜の鐘の音を鳴らしている。
父親達は真っ赤な顔をして未だに酒を酌み交わし、人のいい義兄も顔を赤くしながら酌に余念がない。つくづくこの面子は酒の強い者の集まりだと思う。
母親たちは酒をウーロン茶に替え果てることのない世間話に興じ、緋紗子はなまえにべったりと張り付いていた。
年越しと称した宴会が始まって既に5時間以上が経つ。最初のうちは緋紗子やなまえと俺の幼い頃の思い出話などを話題に、座は適度に和やかに盛り上がっていた。なまえもよく笑い酒を呑んでいたが、俺の座ったリビングドアに近い端の席から、ほぼ対角線上の窓際にいる彼女とは、終ぞ直接に言葉を交わすことは無かった。
なまえの耳元に度々コソコソと何やら囁く緋紗子はかなり赤い顔をしていて、何を吹き込まれているのか困ったように笑うなまえの表情を、俺は手酌をしながら時々盗み見ていた。
不意に目を上げた彼女と視線が絡む。それは朝方みょうじ家の玄関で顔を合わせて以来のことだ。この確率から推して俺は一体どれほど彼女に疎まれているのだろうと心で苦笑する。
彼女の瞳は流れるように俺から逸れていった。
同じ空間に数時間居ながらなまえと俺との間に漂う形容しがたい微妙な空気に、酒のせいもあるのだろうが両家の家族は誰も気づく素振りがない。
それほどまでごく自然に俺はなまえに避けられているという事なのだ。
呑んだ酒の酔いもすっかり醒め何とも薄ら寒い気持ちになった俺は、知らず知らず己の表情がひどく曇っていくのを感じた。
腰を上げかけた俺を緋紗子が呼び止める。

「ちょっと、一ったら何処行くのよ。トイレ?」
「先に休ませてもらう」
「なんだよ一君、久しぶりに一緒に年越し出来るって言うのに。新年のカウントダウンもしないで寝る気か?」
「そうよ、一君は新年と同時にお誕生日でしょう。改めてお祝いしなくちゃ。昔みたいでおばさん、嬉しいのよ。ねえ、なまえ、」
「でもおばさん、一みたいな男がいい年して、今更誕生日もないとは思うけどね」

姉夫婦が茶化して言うのに答えた篠宮のおばさんが、なまえに話を振ったので思わずまたそちらを見てしまう。しかし彼女は俺を見もせずに曖昧に笑っただけだった。
実際彼女はこの家に来たときからよく笑っていた。だがその笑顔がずっと作り物のように見えていたのは、気のせいではなかったかもしれない。

「俺よりも二年も年嵩の癖に、毎年誕生日だなんだと浮かれているのはどこの誰だ」

緋紗子が何やら反論したが煩わしいので放置し、仕事もあるからと言い訳をして篠宮家のおじさんおばさんにはきちんと挨拶をし、俺は今度こそ席を立った。
二階の自室へと上がる階段に足を掛けてから、ふとリビングにスマフォを置き忘れてきたことに気づく。
戻る気にはなれなかった。正月であろうが何であろうが仕事の連絡は何時入るか解らない為、手元に置くのが習慣化している。しかし結局逡巡の後、この宴会のお開きになるだろう頃を見計らって取りに戻ろうと考え直した。もう間もなくすれば年が明けきっとなまえ達は自宅に帰るだろう。
いずれにせよ俺は部屋に戻ったところで眠れる気がしないのだ。着信があればお節介な緋紗子あたりが届けに来るだろう。そう思い改めて階段を上りかけ、背後のドアが静かに開く音を聞いた。反射的に振り返る。

「…………、」

俺は自身でも自覚できるほどに呆けた顔になっていたのではないかと思う。
そこに立っていたのがなまえだという事実を、俺の脳幹が正確に掴むまで少しの時間を要した。彼女が真っ直ぐに俺を見ていた。

「……あの、これ、」

彼女の上を向いた小さな手のひらに載っていたのは、俺の置き忘れたスマフォだ。受け取ることも忘れて俺は彼女の顔を見つめ続けた。

「あの……一?」

「……あ、ああ、すまない、」

俺の名を呼ぶなまえの声を聞くのはいつぶりのことだろう。我に返りそれを取り上げた俺の右手の指先が彼女の手に触れる。刹那、封じ込めた筈の想いが唐突に込み上げてくる。
なまえはその場に立ち止ったままリビングに戻ろうとはしなかった。
もう一度きちんと話したい。あの時の俺の気持ちを説明させて欲しい。駄目なら駄目で構わない。
だが、もしもなまえがまだ、誰のものにもなっていないとしたら。
俺はあれから何年もの間、心の奥でずっとそう考えていたのだ。
今、この機会を逃したらもう、彼女と顔を合わせることは出来ぬかもしれない。危機感に迫られ口を開きかけた時、閉じたリビングドアの向こうから一際賑やかな声が聞こえた。
なまえが一度振り返り、再びこちらに向き直る。その頬に遠慮がちな笑顔が浮かんだ。
先程までの作り物とはどこか違う笑顔に見えた。

「……年が、明けたね」
「そう、みたいだな」
「……あの、」
「……ん?」
「あのね、一、」

スマフォを持たない方の左手が今にも上がって、なまえへと伸ばしてしまいそうになる。
腹の底から堰を切って溢れかえりそうな感情を、それでも俺は必死で抑えていた。





何年振りかで上がった斎藤家のリビングに座って家族達とお酒を呑みながら、この数時間の間私の意識はずっと一だけに向けられていた。
意識は向けていながらも彼本人を見ることは出来なかったのだけれど。
隣に座った緋紗子ちゃんがここ数年の一の話なんかを聞かせてくれて、適当に相槌を打っていたけれど、本心は適当なんかじゃなかった。適当なふりをしてその実一言一句逃さないように聞いていた。
少しでもいいから一の事を知りたいと思ったんだ。
彼が現在どんな仕事や生活をしているのか。今彼の傍に誰かがいるのか、好きな人はいるのか……。
もしもそれが千鶴ちゃんだったら、暫く立ち直れないかもしれないけれど。それでも知りたかった。そろそろこの想いにも決着をつけなければいけない時期かも知れない。叶わない想いに振り回されるのは、もう終わりにして。
でも緋紗子ちゃんの口から私の知りたい情報が語られることはなかった。
少し酔っぱらった一だったら、話しかけられるかもしれないと私はひそかに思っていた。私の方も酔った振りをして、さりげなく彼女はいるの? なんて聞いてみたり。ここにいる間中そんなことばかりを考えていたけれど、一は思った以上にお酒が強いみたいで、随分呑んでいたのにあまり酔いもせず顔色も変えず、寿明さんのように呂律が可笑しくなったりもしてくれず。
時間だけがどんどん経っていき、流しっぱなしのテレビから聞こえていた年末恒例の歌番組も終わってしまい、私自身もかなり飲んだはずなのに緊張していたせいか、酔いが回った気がしなかった。
もうこのまま今日という日が終わってしまう。一との間に深く開いた溝はもう永遠に埋められることは無いんだと諦めかけた時、駄目押しするように彼が立ち上がる。
緋紗子ちゃんや寿明さんと軽口を交わし、応えた母が私に話を振ったけれど、その時の一の顔は酷く不機嫌そうに見えて、ますます気後れした私は何も言う事が出来なかった。
そうして、一は静かにリビングを出て行った。

「そう言えばね、女の子を泣かせたことが一度だけあったんだ、一も」
「……え?」
「なんていう名前だったっけ、すごく可愛い子だったのにね。ち、ち……何ちゃんて言ったかな? いつかのクリスマスにこーんなサイズのプレゼントを持ってきて」

酔った緋紗子ちゃんの話はもうかなり前から脈絡がなくなっていた。「そう言えばね」の前が何の話題だったか彼女はきっと覚えていない。だってさっきまで話していたのは、緋紗子ちゃんが今度家で犬を飼おうかなって話だったんだよ。
それでも私は食い入るように緋紗子ちゃんの口元を見つめていた。広げた腕はちょうど厚手の男物のセーターを畳んだくらいの大きさだった。

「それ……千鶴ちゃん? 中身はセーター、もしかしてピンク色の、」
「そうそう、その名前。なまえちゃん、その子知ってるの?」
「高校三年の冬……?」
「ああ、一の受験の年だからそうね。でも中身は解んない。だって一は開けもしないで返しちゃったから」

私は指先から全身に震えが走ったような心地がした。その時寿明さんが素っ頓狂な声を挙げる。

「あれえ? 一君、スマフォ置き忘れてる。仕事の電話が入るんじゃないの?」

私はもう考えることを止めた頭で、寿明さんが取り上げたそれに無意識に手を伸ばし立ち上がる。リビングを出る時、後ろで緋紗子ちゃんがクスクス笑っていたことになんて、少しも気づかないまま。





持ち主の手に戻されたスマフォを私は暫く見つめていた。
どうしても今伝えたいことがある。
それはほんの短い言葉。何年もの間、毎年この日、心の中にいる彼に伝えた言葉。
だけどそれがなかなか口に出せない。焦る気持ちの中で、今にも一が踵を返すんじゃないかと、私はビクビクしていた。
さっきまで荘厳な除夜の鐘を鳴らしていたテレビの音声が、今はとても賑やかでドアを閉じた廊下にまでアナウンサーやタレントの「おめでとうございます!」が聞こえてくる。
間に人一人分の距離を開けて向き合う私達はどちらも微動だにせず、固まったように黙って立ち尽くしていた。
最初に口を開いたのは一だった。

「明日……、」
「……え、」
「いや、もう今日か」

新年の挨拶めいたこととは全く関係のない感じの科白を聞きながら一の顔を見上げる。次に耳が捉えた声が信じられなかった。

「改めてその、話を……出来ないか」

頭で受け止めるよりも先にコクリと頷いたとき伏せた私の目からポロリと雫がこぼれて、気づかずにいつしか白くなるほど握り締めていた手の甲に落ちる。
息を飲んだ一の左手が私の右肩に触れかけて空中で止まった。

「す、すまん、もしも、なまえが嫌ならば」
「ち、違うの……っ」

上擦った声を漏らし、縋る想いで一の手に触れた。その瞬間彼の手が強く握り返してきた。その温かさが私に勇気をくれる。
俯いたままだった顔を上げ彼を真っ直ぐに見つめる。
何年も何年も、幼い頃からずっと。
今日のこの日必ず彼に伝えて来たのに、ある年から直接一には言えなくなってしまった言葉。
ずっとずっと言いたかった言葉。
七年分の言葉。
聞きたいことも知りたかったことも、もうどうでもいいような気がした。
一の瞳はこの上なく優しげで、小さい頃からずっと好きだった綺麗な深い藍色は、まるで私の言葉を待ってくれているかのように細められた。
その瞳を見つめ返して、一言一言ゆっくりと告げる。

「お誕生日、おめでとう、はじめ」



This story is to be continued.

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MATERIAL: 戦場に猫

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