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21 モスグリーンの幻影か


梅雨が明けたと思ったらいきなりの猛暑日が続く。エアコンのかけすぎはよくないと思いつつ、そうも言っていられない暑さだ。
この時期に食欲がなくなるのは毎年のことだけれど、夏こそスタミナを摂らねばと腕をふるってくれたはじめさんの夕食を終え、彼が戻るのと入れ違いに私はお風呂に向かった。
バスルームには熱がこもっている。今まではじめさんがシャワーを浴びていたので換気扇が回っていてもかなり暑い。こう暑いとシャワーで済ませたくなるけれど、冷え性のせいで夏でも手足が冷たかったりする私は数日にいちどでもいいから湯船につかりたい。あらかじめはじめさんにも今日はお風呂にお湯を入れる?と聞いたとき、彼は首を振った。自分だけのためと思えば少しもったいないけれどしかたがない。
一見涼しげな容姿を持つはじめさんではあるけれど彼は意外に暑がりである。それは多分彼の身体の筋肉量に由来するせいだと思う。だから彼の方は夏場はシャワーばかりになるようだ。
まあそれはさておき。
お湯が溜まるのを待つ間リビングに戻れば、さっき私が洗ったお皿を布巾で拭い棚に片付けた彼が、いそいそと冷酒の用意をしていた。ふと顔を上げて私を見た彼は浴室から微かに響く水音に、その綺麗な眉をごくごく僅かひそめた。

「湯にはいるのか?」
「うん」
「………、」

そんな顔をする理由はわかる。いつも私のバスルームの滞在時間は1時間を下る事がない。下手をすれば2時間くらいは余裕で入っている。彼はそれをよく知っているのだ。
今日の場合はもっと長くなるかもしれないと、私はひそかに思った。
クローゼットから出した着替えを手にしてコスメを並べたドレッサーに近づけば、隣室からじいっと私を見つめるはじめさんの視線を背に感じた。
彼の週末休みは月に一度しかないので、毎夜同じ部屋へ帰ってくるとは言うものの、なかなかゆっくり過ごすということが出来ない日々だ。彼は仕事を持ち帰ることも多い。最初こそ少し寂しいと思ったけれど、私の方はこのサイクルに慣れてきていた。

何故今宵に限ってあんたは、独りきりで長風呂をしようと言うのだ?

だけど背に刺さる。はじめさんは言葉を発しなかったけれど、視線がそう言っているみたいだった。
彼は怒るということがめったにない。だから今も多分怖い顔をしているわけではないと思う。むしろ、すこし悲しそうな、そうだ、例の仔犬みたいな顔をしているに違いない。きっとそうだ。
一月ぶりに揃って明日がお休みという夜である。お酒でも飲んでふたりでゆっくり過ごそうと彼は考えたのだと思う。私もそうしたい気持ちはやまやまだ。それに、長風呂をするのがどうしても今夜でなければならないという理由もとくにはない。
ないけれど。
実は今週の初めに買っておいたものがある。
それは千鶴から教えてもらってここのところ気に入っているオーガニック化粧品で、今私がうきうきとした気持ちで見つめるドレッサーの上のものがそうなのだ。
色や香りの素敵な入浴剤に始まりシャンプーから石鹸、シャワージェル。角質を取るスクラブに全身パック。女性のフェイスからボディを隈なくケアしてくれるそれらは様々な自然素材でつくられていて種類も豊富に揃っている。ショップでひとつひとつ手に取って見るだけでも心躍る品なのだ。
このうちまだ石鹸しか使ったことのなかった私は、先日腕にパックを試させてもらって、あまりにも気に入ったので即買いしてしまった。素足にサンダルを履くためのフットスクラブも調達済みだ。それにハート型の入浴剤。これを今夜のお風呂で使いたくてたまらない。
平日は疲れているし翌朝が早い。だからこれは週末の夜にじっくりとと決めて本当に楽しみにこの一週間を過ごしてきたのだ。これを明日に延ばすなんて出来ない。はじめさんには悪いけれど、私はもうこれ以上待てない。

「お風呂、入ってくるね?」
「……ならば、俺も、」
「え?」
「あんたと、共に……もう一度、風呂に」
「え、えええ? 待って、それは……っ」

何を言い出すの、はじめさん。
振り返れば、艷やかな紫紺の髪を右耳の下でゆるく束ねた彼が、少し眩しげに目を細めこちらを見ている。
その長い髪はつい今さっきドライヤーを当て終わったばかりだ。
非常に良い妥協案が浮かんだと言わんばかりに、目が合えば面映げな笑みを見せる。その頬は心なしか紅潮していた。冷酒のボトルとグラスを並べたテーブル、落ち着きかけたソファから腰を上げようとする。
でも、待って、駄目なの。それはとても困るの。
はじめさんと暮らすようになって一年近くになる。正直まだ少し恥ずかしいけれど、彼が望むので時々は一緒にお風呂に入る事もある。
だけど、今夜は困る。とても困る。だって、考えてもみて欲しい。
私はこれからお風呂で女の子の秘密作業を展開するのだ。
シャンプーや身体を洗うだけならともかく、全身のボディケアだ。それはバスグッズのTVCMの映像みたいに美しい姿と実際にはかなり違うと思う。好きな人に見られたい光景とはとても言えない。
かかとをスクラブでゴシゴシしたりお腹周りやお顔のマッサージ。変な顔やポーズもしてしまうに決まってる。はじめさんの目の前でそんなこと、断固出来ません。

「せっかく共に過ごせる夜なのだから、風呂で親睦を深めるのもなかなか……」
「ごめん! 駄目なの!」

落ち込みかけた表情を一転させ、悦に入った様子で決めつけて声に艶さえ混じらせるはじめさんは、先に立って今しもバスルームに向かおうとする。慌てて彼の言葉を遮り、シャツの裾を引っ張った。
今度振り向いたのは彼で、足を止め私の必死の形相に驚いたように目を見開く。私から強い拒否を感じ取った彼は次に眉を下げて、そうしてゆっくりと肩を落としたように見えた。
それはもう心底がっかりしたように。
ごめんね、はじめさん。
でもね、女というものは概してこんなものなんじゃないかと思う。
別に恥ずかしいことではないんだ、本来は。彼氏の為に綺麗になりたいなんてどんな女の子でも思っていることだ。
私が今そう言えばはじめさんはきっと、私の大好きなあの表情を見せてくれるんだろうな。すごい勢いで赤面して、そして照れたように笑ってくれるはず。
だけど、私には言えなかった。

「ごめんなさい、ひとりで」
「何故……、」

なにゆえって、そんな悲しそうに言われても、それは余りにも恥ずかしいから。世間的に恥ずかしいことではなくてもやっぱり私には恥ずかしい。理由はそれだけだ。はじめさんには本当に悪いと思うけれど。





下ろしたての石鹸は海のように綺麗なブルーで泡立ちも申し分なく洗い上がりもスッキリ、お肌はすべすべ。時間をかけて身体を洗ったあとに、これまた時間をかけてスクラブでかかとも肘もツルツルピカピカにした。シアバターが配合されているので、足の裏までしっとりふんわりだ。
最後にクライマックスのパックである。
浴室内に漂うとっておきの薔薇の香り。オイルを含んだ柔らかいお湯はそれ自体が化粧水のようで、お腹のあたりまで浅く張ったバスタブに浸かりながら私(だけ)はすっかりと気分を直していた。
湯沸しリモコンのデジタル時計の表示が、ここにこもってから早くも1時間半ほど進んでいたこともあまり自覚していなかったし、その頃はじめさんがリビングで悶々としながら独りで冷酒を呷っているなんてことも全く想像していなかった。
大き目のアイスクリームのカップのような容器のふたを開けると、中はくすんだグリーンで強いミントの香りがする。ショップの店員さんは原材料に食用の豆が入っていると言っていた。
冷たくて気持ちのいいそれをまず顔に塗る。目の周りと鼻と口を避けてたっぷりと。そうして首からデコルテまでさらに塗り伸ばしていく。仕上げに手の甲にもたっぷりと塗った。
拭った鏡で自分の顔を見て思わず噴きだしそうになりながら、目の前に掲げた手をぶらぶらさせる。
小さいころに母親がしていたパックを思い出す。子供の私は笑うよりもビビってしまった記憶があるけれど。あの時の顔、まるでジェイソンみたいだったね、お母さん。
そして今の私はまるでゾンビのようじゃないの。
綺麗になるっていうのは水面下の努力が大事なんだな。白鳥の水かきのように。とりあえずこんな顔、とても人には見せられない。ましてや、はじめさんには絶対に見せられないよね。出来るなら彼には綺麗な自分だけを見ていて欲しいという、これは女心だ。
このパックは洗い流した直後にもすぐにはっきりと効果が解るほど引き締まるという。明日の朝もきっと……。なんて考えていたらつい嬉しくなって、笑いそうになって、でもパック中に笑うなんて厳禁もいいところ。
そういえば母で思い出したけれど、はじめさんと両親を訪ねると言う予定がずっと延び延びになっている。あの時母に急襲されて以来連絡も取っていなかった。お風呂を出たらはじめさんに話してみようかな。
と言うところまで考えて。
そして。
はたっと気づいた。
パネルドアの向こうにいちど目を遣る。
擦りガラスのその先が見えるわけではもちろんないけれど、一瞬動きを止めて思考を巡らせる。
着替えの部屋着はちゃんとそこに置いた覚えがあるけれど、バスタオルはどうだったっけ?
………。
記憶にない。
まさか、持ってくるのを忘れてやしませんか?
洗面室に今現在バスタオルがないということになると、それはかなりの問題になりやしませんか?
身体が濡れたまま下着を着けるなんて出来ないので、そうすると結論としては改めて取りに行かなければならない。ということは裸のままリビングへ出ていくということになる……?
待って、困る。絶対に困る。はじめさんにこの顔を見られること以上に、それはものすごく困る!





以前なまえと二人で買った小さな硝子のグラスに注いだ酒を呷る。冷や酒を飲むためのこれは艶のない半透明の硝子で、これが気に入った俺を見てなまえが「ビールグラスは私が選んだから」と笑った。
己の手で並々と注がれた酒は、数日前に酒屋で吟味を重ね選んできたものだ。二人で過ごす夜に味わうために。しかし今こうして一人で喉に流しめば、とても美味いとは言えなかった。
なまえがバスルームに消えてからもう一時間以上が経過している。
ここのところ、地上での俺の仕事はまた多忙を極めていた。天界のシステムとは違い人間界の学生には夏休みというものがあり、俺の勤務する予備校は現在いわゆる繁忙期だ。
夏期講習を行っているためこの時期に入校者は急激に増える。実質増える授業と、生徒の対応やカリキュラムの消化に追われるのだ。ゆえに、休日を返上することが増えた。
そのような中で奇跡的にとれた週末休みで、今宵はその前夜なのである。
浮かれるなという方が無理な話ではないか?
はっきりと言えば俺はなまえに飢えていた。しばらく彼女に触れていない。
滑らかな白い肌。手を触れ口づければこぼれる吐息。俺の身の裡から疼きを呼ぶ甘い声。一つになる幸福は何にも代えがたく、疲れなど忘れるほどにいつだって溺れる。
しかし、俺達天使とは異なる人間の体力の限界を知っているゆえ、俺は毎夜の我慢を己に強いてきた。彼女にも日常の仕事がある。無理をさせてはいけないのだと。
だから今宵は思いのままになまえと愛を交わし合いたいと、俺はそう思いこの日を心待ちにしていたのだ。大げさと言われればそれまでだが、本当に待ち焦がれた夜だった。
しかしどうだ。なまえはバスルームから出て来ない。
夕食には魚を食べたいと言った希望を入れ小鯵と素揚げのオクラを南蛮漬けにした。数種の薬味を添えた冷奴も供したが、それに彼女はマヨネーズをたっぷりとかけた。だが俺はそれに異を唱えることもなく微笑ましく眺めていた。なまえのビールがあまり進まなかったことが気になりはしたが、特に体調が悪そうでもなく彼女は始終にこにこしていた。
浴室に向かったときも落胆したのは俺で、なまえの方は特に機嫌が悪かったというわけではなさそうだった。
とするならば、この現状はどういうことだ。
彼女はどういうつもりでいるのか。
認めたくはないがもしや、まさか、俺と二人で過ごすことを避けているのだろうか。いや、それよりも俺に抱かれることを嫌なのか?
それとも……。
さきほどなまえが寝室で見つめていたのは彼女の化粧道具を置いたドレッサーだ。あれには小引き出しが幾つもあり、そのうちのひとつにラピスラズリの指環が仕舞われ、そして同じ引き出しの中にあの日総司が持ってきた手紙の束も一緒に入れていた。あの日以来未だそれに手を触れてはいなかった。
俺は考え込む。
720ml入りの冷酒のボトルがもうそろそろ空く。
その時だった。
無音の室内に浴室でスイッチを押された呼び出しの音が響いたのは。
やけに大きく聞こえたそれに、脳内を堂々巡りしていた考えがすべて霧散した。
鳴らしたのはなまえだ。
テーブルにグラスを置き、無意識に立ち上がる。
急ぎ足で浴室に向かった。

「なまえ……、」
「あ、はじめさん、悪いんだけどバスタオルを持……えっ」
「………!」
「……!? キャァアアアアアアアーーーッッッ!!」





確かに俺が悪かった。
それは間違いがない。
誰でもない、すべて俺の責任だ。
駆けつけた浴室のパネルドアを彼女の言葉を皆まで聞かぬまま、勢いよく開けたのは他ならぬ俺だった。
そこに愛おしい恋人がいると信じて疑わなかった俺は(ついでに言えばなまえが、やっぱり一緒に入りましょうと言うのではないかなどと、多分に自分に都合のいい解釈をどこかでしていた俺は)彼女の真実の思惑を理解するよりも先に本能で行動してしまった。
それが全ての元凶だったのだ。
目に飛び込んできたその姿は果たして俺の想像をはるかに超えた。
俺は刹那精神のコントロールも不能になっていたのだろうか。
驚愕に全身が強張るのがよく解った。
緑色の顔から発せられる切り裂くような絶叫の中、止まらなかった足はたたらを踏むかのように中に進み、生まれて以来記憶に在る限り恐らく一度たりともなかったことだが、自身の肉体の制御を完全に失った。
そして。
何やらぬるぬると滑る浴室の床に派手な音を立てて沈み、己の腰を強打することになったのである。


This story is to be continued.

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I am in love with an angel every day!



MATERIAL: blancbox / web*citron


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