Are you an angel? | ナノ
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06 これほどに愛しているのに


はじめさんはあまり好きじゃないみたいだけど、炊飯器の早炊き機能のボタンを押した。だって、とてもお腹がすいているんだもの。
そうだ、お味噌汁くらい作ろう。出汁は顆粒だけど、ごめんね、なんて思いながらいそいそと鍋を火にかける。いつもはじめさんが整えてくれる食事にはとても叶わないけど、お風呂から出てきたはじめさんの驚いた顔が浮かび、少しでも喜んでくれたらいいなと思った。
牛蒡と挽肉の炒め煮や野菜の甘酢漬け、鰯の梅煮は青魚が苦手な私が美味しいと言ったら、彼は切らさないようになった。数種のタッパーの中身を少しずつ、綺麗に器に盛り付けていく。
作ったのは彼なんだけれど、こういうのってほら、雰囲気の問題だし。私の好きなきゅうりの浅漬けも、いつも欠かさず作っておいてくれる彼を思い、頬に知らず知らず笑みが上る。
お皿だって最近では彼と一緒に買い物に行った時に、二人で選んで少しずつお気に入りを揃え始めているんだ。
ワイングラスを置き、オードブル風の小鉢たちをテーブルに並べ、お茶碗や汁椀、お箸も用意してしまうと、あっという間に炊飯器がご飯の炊き上がりを知らせるアラームを鳴らした。
出来上がった味噌汁の火を止めれば、ふとキッチンが無音になる。
聞こえてくるシャワーの水音。ザーザーとそれは雨みたいに規則的に、それは一定の場所の動かない何かに当たっているみたいな、変化のない水流の音。
え?
動かない何か?
普通シャワーを浴びている時って人は動いているよね? だからその水音は一定じゃない筈で。
それに浴びるだけなのに随分時間がかかっている。時計を見やると浴室に消えてから30分近く経っている。いくら彼の髪が長いと言っても、こんなに時間がかかるわけはない。
すぐに脳裏に浮かんだのははじめさんの倒れている姿だった。顔色がよくなかったし、まさかお風呂で体調が悪化したとか? それ以上考えるよりも早く自然と足は浴室に向いて小走りになる。
擦りガラス風の浴室ドアの向こうに影が映っているのを確認して、倒れていないとひとまず安心した。だけど、次にひどい違和感を覚える。彼は動いていない。身動き一つせずにその場に立ち尽くしているようなのだ。
私は躊躇わずにドアを開けた。
湿気の充満した浴室の中、壁に固定したままのシャワーヘッドから降り注ぐ水流の下に、俯き加減に立っていた彼が緩慢な動作でこちらへ顔を向ける。細身の筋肉質な体を打たれるに任せ、濡れそぼった前髪が張り付いた顔、髪の隙間から見えた青色の瞳は、私を捉えると少し揺れたようだったけれど、その色は深く沈んでいて虚ろだった。

「はじめさん……?」
「…………」
「どうしたの? やっぱり具合が……」

ドアの境目にかけていた左手を、不意に伸ばされた彼の手に無言で掴まれる。強く引き寄せられ、何が何だかわからないうちに彼の胸の中に抱きすくめられていて、私の頭上からも降り注いできたお湯の下、Tシャツとスウェットのまますぐにずぶ濡れになった。どうして、と疑問が頭に浮かぶ前に、私の首筋に顔を埋めた彼が呟いた吐息のような声、その切ない響きに逆らうことが出来ず私の身体はされるがままだった。

「俺では、駄目なのだろうか……」

意味が解らなくて私は答える言葉に詰まる。ただひどく傷ついた様子の彼の背を、ゆっくりと持ち上げた両手でそっと抱き締め返してみる。彼の普通じゃない様子に胸騒ぎを覚えながらも、その心許ない背中を慰めるように撫でていけば、滑らかな筋肉の盛り上がりが手のひらに伝わってきて、それは彼の呼吸に合わせて上下していた。

「……これほどに、愛しているのに」
「私もだよ? 私もはじめさんを、」
「ならば、何故」

低い声が耳に届いたかと思うと顔を上げた彼に両肩を掴まれて、狭い浴室内の壁に背を押し付けられた。いきなりの動きに濡れた彼の背中から離れた私の手は宙を掻いて彷徨う。水浸しの浴室の床、バランスを崩して滑りそうになる身体は、密着した彼の身体によって辛うじて支えられ、肩から先に向かって滑っていく彼の両手が私の両手に合わされた。指を強く絡ませて、まるで十字架にかけられたような形で文字通り壁に張りつけられ、至近距離で彼の暗い瞳が私を見つめる。
「何故、総司と……」と聞こえるか聞こえないかの声音を耳が拾い、ますます意味が解らずに混乱する私の唇が塞がれた。
互いにしとどに濡れた髪が顔にかかっているのも構わずに接合した唇の中、彼の熱い舌が荒々しく動き出す。どちらの物かも解らない毛筋が紛れ込んでいて、それをも一緒くたに混ざり合う唾液の立てる粘性の音が、シャワーの音さえ凌ぐほど浴室内に響き渡る。
状況がつかめないままに、どうして? とやっと上ってきた疑問を口にすることも出来ず、私は彼にされるままになっていた。息が苦しくなって身じろぎするけれど彼は離れない。
身に着けたままのロンTとスウェットのズボンが濡れて身体に張り付き、高温の浴室の中で噎せ返りそうな湿気に眩暈さえしてくる。ふと離れた唇から息が漏れた。

「……ふ……あっ、」
「なまえ」

更に強く押し当てられた彼の身体の中心が、やっと息継ぎの許された私の下腹のあたりに直に当たっていることに気づき、真っ白になった頭の中にはどうして、の4文字だけが充満する。唇を離れた彼の髪が私の頬に張り付いたまま、顔が喉元に下りていった。解放された手はまた行き場をなくし、無意識に自分が滑り落ちないようにと平らな壁に後ろ手に縋りついた。彼の両手は私の腰を掴み、Tシャツの開いた襟ぐりに沿って舌が肌を舐める。視線を落とすと私の身に着けた白い薄手のTシャツは、濡れたせいで下の肌色を浮き彫りにしていた。いつのまにか腰を落とした彼が胸元に顔を寄せていて、あまりの光景にぎゅっと目を瞑ると次の瞬間、胸の先端を布ごしに含まれ私の中の何かが弾ける。

「や……いやっ、はじめさん……っ!」
「なまえ……っ」

身を捩って自分の胸を抱き抱えるようにその場に蹲ってしまった。頭上から落ちてきた、切なく引き絞る様な私の名前を最後に声は途絶え、ややあってシャワーコックを捻って止める音がした。
ぼんやりと目に映っていた排水溝に、渦を巻くように吸い込まれていた水の流れが緩くなっていく。浴室ドアが開き思いのほか冷たい空気が流れ込んできて、思わず震わせた身体に厚手のバスタオルがかけられた。それでも俯いたままの私を、立たせようとしたのか取られかけた腕には力が入らず、彼の手はそれ以上無理強いをせずに引いていった。
ほんの短い間身体を拭う気配がしてすぐに続く、浴室から出ていく静かな足音。
濡れた頬に涙が流れた。
拒否をしたのは私なのに、何故なのか彼に拒絶されている気がしたのだ。
だんだんと冷えていく身体をいつまでも抱き締めたまま、その場を動けずに私は泣いていた。
はじめさんが何かに傷ついていることは解っていた。彼は私の身体を抱いて心に溜まった鬱屈を晴らしたかったのかもしれない。私は彼の為に受け入れるべきだったのだと思う。
いつだって彼は私を守り、私の為に力を尽くしてくれて、何よりも深く愛してくれて、そんな彼が望むならば、私に出来ることなら何でもしたいと思っていた。私が彼にしてあげられることなんて、もとよりほんの僅かしかないのだ。
それなのに、私は。
それでも、私は。
愛情の交換の行為をこんなふうにすることを、身体が本能的に拒否してしまった。いい年をして子供じみた私の態度は、きっと彼の傷口を広げてしまっただろう。
今更のように後悔に苛まれて顔を上げれば、開いたままの脱衣室の藤の棚の上には、いつのまにか私用の清潔な着替えが置かれていた。それを見て尚更涙が溢れてくる。足音を立てずにここまで戻ってきて、それを置いた彼の心の中はどんなふうだっただろう。ぶるぶると震えながら、私はそれでも動けずに泣き続けていた。





逃れようと足掻いても纏わりついてくる総司の言葉は、今になって俺の心臓を掴んで放さない。
ずっと焦がれ求め続けたなまえをやっと手に入れたと思っていた。だがそれは所詮俺の一方的な欲望に過ぎなかったのではないだろうか。
なまえは沢山の言葉を俺にくれた。私もはじめさんが好きと言ってくれたが、身も心も通じ合ったと俺が思い込み、愛しくてやまない彼女を腕に抱いて幸福に酔い痴れていた間、彼女は本当はどう思っていたのか。
太陽に向かって咲く向日葵のような笑顔に惹かれた。だが近頃その笑顔をしばしば曇らせているのは、誰でもないこの俺なのだと気づく。

彼女のことを解ってあげられるのは、一君よりも僕だ
君はなまえちゃんを幸せになんてしてない
君の手は彼女を切り裂く

取るに足らない嫉妬心だ。あいつの讒言だ。認めたくはない。
認めたくはないが、そうだ、その通りだ、といつの間にか心が認めている。認めてしまった俺は己が壊れてしまうのではないかと言うほどに動揺している。もとより彼女と出会ってからの俺の精神は、確実に可笑しくなっていると解っていた。
なまえに愛されているのだと確認したかった。いつだって、何度でも確かめたい。俺達は確かに愛し合っているのだと。言葉よりももっと深い場所で、彼女と繋がっている筈だと。
浴室に現れた彼女を縋る気持ちで抱き締めて、気づいたときには濡れた扇情的な姿に理性のコントロールを失い、下劣極まりない獣のように俺は彼女の柔らかな身体に喰らいついてその肌を貪ろうとした。
まただ。
抑制の利かない己の感情に振り回された思考は混沌として、また彼女を泣かせた。
総司のせいなのか?
会場の庭園で唐突に現れた総司の眼がなまえの姿に釘付けになった瞬間、その瞳に燃えた強烈な思慕の念を俺は見逃さなかった。一体、いつからだ?
しかし時期などは問題ではない。あの時俺は、なまえにまるで花嫁が纏うような白いドレスを着せたことを心から悔やんだ。
モンスターの姿をした俺の目の前で、同じモンスターであってもタキシードを着こんだ総司と一瞬見つめ合ったなまえの姿が俺に与えた衝撃は、生半可なものではなかった。思わず総司の目の前で、見せつけるようになまえに口づけた。
身を焼かれるような焦れったさ、腹の底から込み上げるドス黒い感情に名を付けるとしたならば嫉妬、それでしかない。俺の方こそが嫉妬に苛まれている。
歪んだ想いに翻弄されていつか、彼女を雁字搦めに捉え、逃れようとするその身を本当に切り裂いてしまうのかもしれない。
モンスターは傷つけることを恐れて恋人から離れた。彼の想いは俺とは違って純粋だった。
リビングのテーブルの上に食事の用意がされている。それをしていたなまえの様子が想像される。楽しんでいたパーティだったのに、俺の為に帰ろうと言ってくれたなまえを泣かせた俺は、どんな顔で彼女の前に居ればいいのかが解らなくなった。
なまえがこのような俺を拒んでも、致し方のないことだ。俺の唇から自嘲の笑いが漏れた。
寝室で手当たり次第に手に触れた衣服を身に着け、濡れたままの髪が肩を濡らすのも気に留めず、頭を冷やすにはむしろ打ってつけだろうと、俺は玄関ドアを開いて外に出る。まだ浴室にいるなまえはどう思うだろう。それでも身の置き所がない俺の足は止まらない。
総司の思惑通りに事が運んでいるなどとは露程も思わずに、ただなまえへの切ない想いと己の弱さに打ちひしがれていた。





立ち上がれずに蹲ったまま、ドア一枚を隔てた短い廊下を、静かな足音が通り過ぎたのを感じる。程なく聞こえたのは玄関のドアを開閉する控えめな音。
はっと顔を上げ、はじめさんが部屋を出て行こうとしているのを知る。だけどこんな恰好ではここから出られない。私の全身を冷えた空気と共に絶望感が包んだ。
こんなことは初めてだ。私は一体どれほど彼を傷つけてしまったのだろう。身体の芯から起こる震えが止まらずに、このままでいたら確実に風邪をひくと思った。やっとゆっくりと体を起こして立ち上がる。
その場で濡れた衣類を全て脱いで、はじめさんがかけてくれたバスタオルで身体を拭い、リビングに戻れば、そのままになっているテーブルの上のものが、また新しい涙を誘った。
乾いたスウェットに着替えバッグの中からスマフォを探し出す。とにかく、電話を、はじめさんに。
謝らなくちゃ。何をそれほど怒らせてしまったのか、でもとにかく謝って、帰ってきて欲しいと伝えなくちゃ。彼がいなければ駄目なんだ。あなたがいなければ、私は駄目になってしまうよ、はじめさん。
震える指先で操作するスマフォの画面に映る小さなアイコンは、いつか嫌がる彼を撮影したときの写真。
“接続しています”の表示と同時に、画面には照れて頬を染め面映ゆそうに笑う大好きな彼の顔が大写しになった。
そして次の瞬間、聞こえる筈のない音が聞こえた。咄嗟に音の元を振り向けば、それはすぐそこのリビングボードの上からで、私の目の前が真っ暗になる。
流し尽したと思った涙がまた溢れだしたその時、インターフォンが鳴った。
藁にも縋りたい気持ちの私はそれをはじめさんだと疑いもなく思い、流れる涙もそのままに玄関へと走って思い切りドアを開く。
直ぐに目に入ったのは差し出された手。その手に迷いもなく倒れていきかけて、降ってきた声が私の名を呼んだ時、その声が私から全ての力を奪った。崩れ落ちる前に私を支えた暖かく大きな手の持ち主は、この上なく優しい声で語りかけてくる。

「なまえちゃん、どうして泣いてるの? また一君に何かされた?」


This story is to be continued.

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I am in love with an angel every day!



MATERIAL: blancbox / web*citron


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