青よりも深く碧く | ナノ
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終章 Eternal  


いつものように耳元で彼の名を呼ぶ。繰り返し繰り返し何度も。時折天気の話や綺麗な花の話、見かけた可愛らしい猫の話や色々語り掛けるけれど、一番多く私が唇にのせるのはやはり彼の名前。

「はじめさん」

毎日呼び続ける。
繰り返し繰り返し何度も。
そして今日も。

「はじめさん……」

ふと私の耳がほんの微かな吐息を拾った。思いがけない事に驚きはじめさんの唇を凝視する。薄く形のよいその唇が微かに動く。
音にはならなかったが、その動きは確かに私の名を呟いた。

――名前。

「はじめさん?」



――はじめさん。

名前が呼んでいる。
これは、浄化の声だ。



ゆっくりと重い瞼を押し上げていけば、あまりの眩しさにすぐには何も見えず反射的に顔を顰める。圧倒的な白い光に俺はまた瞳を閉じた。
だが俺の手を包むその細い指の感触は、間違いなく名前のものだと安堵する。少しだけ力を入れて握り返せば、彼女の指にも力が入る。包まれた手にぽとり、と熱い雫が落ちた。幾つも幾つも落ちてくる。
続いて嗚咽が聞こえた。

何故、泣く?

「はじめさん」

名前の声が聞こえるなりガタッと何かが倒れる音がして、次に名前ではない大声が叫んだ。

「……はじめ? 先生っ、はじめの意識が……!」

バタバタと誰かが部屋を走り出る音。余程慌てているのだろう。落ち着きのない人だ、相変わらず。

暫くしてやっと眩しさに慣れた俺の目に映るのはやはり愛しいお前の顔だった。その瞳に次々に透明な雫が盛り上がっては零れ落ちていく。

「………名前、」
「はじめ、さんっ」
「……何故、泣く」
「だっ、だって……っ」
「笑った顔が、好きだ」

ゆっくりと吐息だけで告げれば、名前はこくこくと何度も頷いてそれでも涙を溢れさせる。
身体を起こす事はまだ困難で、目だけを動かして室内を見回せば白い天井、白い壁、白いカーテン。

これ、だったのだな。

今初めて、全ての合点がいった。
喉を震わせてみれば掠れてはいるが声を出せるようだ。先刻人の出て行ったドアに目をやる。

「……あれは、母親か」

尋ねれば名前が泣きながら頷く。

「俺の年齢は、幾つだ」
「26歳、です」
「長い夢を、見ていた」
「……夢?」
「ギヤマンの、簪の」
「……え?」
「夫婦に、なった」
「…………」
「お前と、ずっと、共に居た」

断片的な言葉を口にのせる俺の顔を見つめていた名前が、目を見開き口許を両手で押さえた。

「覚えてるの……?」
「お前が、夢の中に」
「…………っ!」
「俺を、迎えに……。約束、した。名前の元に帰る、と」

ゆっくりと、手を伸ばす。名前は顔中を涙だらけにして、まだ何度もこくこくと頷きながら泣き続ける。

「何故、泣く」
「……う、嬉しいから……です……」

そっと触れた頬も唇も温かかった。やっとここに、名前の元に帰って来たのだ。

約束どおり。
生きて。

母親と共に駆けつけた主治医がすぐに精密検査の手続きをした。俺の身体を診たどの医師も一様に驚愕した。脳波には異常がなく数年間眠り続けた人間としては、説明のつかない体力と身体能力があったからだと言う。それはそうだろうと内心思う。
俺は日々の鍛練を欠かした事などなかったのだからな。



身体能力が高くても実際にはじめさんの肉体は長く横たわっていたのでリハビリが必要だったため、入院生活は少し続いた。
そして一年後。
医師が驚くほどの回復力を見せたはじめさんは、通常の生活どころか軽いスポーツさえ出来るまでになり、彼の退院を機に私達は一緒に暮らし始める。双方の両親にも勿論異論はなかった。
はじめさんには事故以前の記憶も残っていた。
夕方から出掛ける予定のあるその日、予定よりもかなり早い時間に二人で家を出た。はじめさんが図書館に行きたいと言ったからだ。
区立図書館のエントランスには桜の木が植わっていて、今が盛りの桜ははらはらと花弁を降らせている。あまりに綺麗なので立ち止まっていると、彼がベンチへと私を促した。並んで腰かけて桜の木を見上げる。

「ね、はじめさん。……私もそこに行ったの」

唐突な私の言葉に、そことは何処かなどとは聞かずはじめさんは微笑んだ。彼が意識を取り戻して以来その部分だけは何となくはっきりと話すことが憚られ、曖昧にしてきた話だった。荒唐無稽な体験は日常生活に紛れてしまうと何となく信じがたく、時には本当に夢だったのではとさえ思うこともあるのだ。
はじめさんが碧玉色の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。

「知っている」
「あれは、夢じゃないの。現実に行ったの、あの時代に」

私の目の前にはじめさんの手がゆっくり差し出された。開いた手の中にあったのものに目を瞠る。

「……これは」

色の褪せた、かつては薄紅色であった筈の髪紐だった。ほつれてボロボロになっていたけれど、確かに小間物屋ではじめさんが買ってくれた二人揃いの髪紐。涙で霞んで髪紐も彼の顔もよく見えなくなった。
私もゆっくりと自分の手を差し出した。かつてはじめさんの長い髪を結っていた白い髪紐が指に絡んでいた。涙で見えないけれどきっと彼は微笑んでいる。

「向こうではこちらの事は何も覚えていなかったが、今は全ての記憶がある。お前が撃たれた時これをお前の手首に結んだのは俺だ。そして俺も自分で手首に結び付けた」
「そうだったんですか」
「名前はどうやって俺の所に来た?」
「……私も眠っていたみたいです」
「どういうことだ?」

私は少し躊躇いながら話し始めた。
将来を誓ったはじめさんが眠りについてから一年も経った頃、憔悴しきった私はお見合いを勧められた。会うだけでいいから、と。随分心配をかけてしまった両親に抗いきれなかった私は、説き伏せられて承諾してしまったのだ。
そしてその日がきた。
ホテルへと向かう車の中、窓の外をぼんやりと眺めていた私の目にあの日の光景が甦る。緋色の振り袖に身を包んだ私を乗せた車が、あの交差点に差し掛かった。それは彼が私を庇って事故に遭った場所だった。そこからはもう何も考えられなかった。何かに突き動かされるように、走る車のドアを開け私は外へと飛び出した。
そして昏睡に陥って――。
そこまで話すうちにはじめさんの顔色が変わった。

「お、お前は……、」
「すぐに意識は戻りましたよ?」
「そういう問題ではないだろう!」

険しい顔で私を見据える。

「お前は……向こうでもそうだったが、後先を考えず無茶ばかりをする! 六角の切込みの時も島原の時も……っ!」
「ごめんなさいっ」
「何故、そう無鉄砲なのだ……」

島原で天神になった時を思い出した。あの時もはじめさんはひどく怒っていた。叱られて項垂れる私、これはまるでデジャヴ……。しょぼんと俯いてしまった私の頭に彼が手を載せ、一撫でしてから抱き寄せる。もう一度ごめんなさい、と言うとはじめさんは苦笑いをした。

「……頼むからもう無茶をしないでくれ。そのような話を聞いては生きた心地がせぬ」
「はい……」
「だが、名前は何処にいても名前なのだな」
「はじめさんだってそうですよ?」

彼に一睨みされてしまい私は思わず黙る。
思い出したように立ち上がったはじめさんに促され、二人して館内に向かった。早速幕末の文献を調べる。

「新選組の顔ぶれがどうも違った気がする」

現代での記憶とあの頃のそれを照らし合わせ、ずっと疑問を感じていたとはじめさんが言ったのだ。その言葉通り、どれを調べても現存する写真や絵姿は私達の居たあの屯所の人達とはまるで別人だった。勿論はじめさん本人であるはずの、つまり『斎藤一』もだ。

「俺は確かに斎藤一なのだが、やはりこの人物と俺は違うようだ」
「そうですね……」

彼が首を傾げる。自分の事なのに、ようだ、などと冷静な発言をするはじめさんにすこし可笑しくなってしまったが、でも文献にあるものが史実だとすれば、私達の居た幕末とは一体何だったのだろう?
また違う時空間だったのだろうか?
時間の流れも違っている。彼は現代での時間の倍近くを幕末で過ごした。私に至っては一週間程の昏睡だったが、三年近くも向こうにいたのだ。

「千鶴ちゃんの事も、新選組に女の子がいたって言う記述もありませんね?」
「ああ、それに平助は………、史実では藤堂平助は油小路で命を落としている」

因果律が破れたから?
二人で顔を見合わせる。
私達の頭に同時に浮かぶ定義。
だとしたら死んだはずの人が別の次元に生きていても不思議ではないかもしれない。

「もしかしたら局長や副長、井上さんや沖田さん山崎さんも、私達と同じようにどこか違う時空間に今もいるのかも知れないですね」
「そうかも知れぬな」

そうだったらいい。私達は同じ事を考えていた。
図書館を出るとすっかり陽が傾いていた。

「そろそろ時間だ」

この後あるお店に予約していた物を取りに行くことになっていた。宝飾店で二人で選んだリングのサイズ直しが仕上がる日だった。
私はあの日の祝言だけで充分だと思っていた。あれもはじめさんとの大切な記憶だ。しかしはじめさんは「この時代にはこの時代に相応しい夫婦のやり方がある」と言った。思い出も約束も一つでも多く刻みたいと。
私達はここで、この時代でもう一度、改めて夫婦になる。
新居にはもう引っ越しが済み、婚姻届も記入した。予約が取れないので式はまだ先だけれど、次の大安に届けに行く事になっている。
受け取ったリングを早く見たいと言って、彼が店内にいるうちに私の指に嵌める。彼の目の前にかざした左の薬指で、隙間なく嵌め込まれたダイヤが照明を受けキラキラと光っていた。
はじめさんの瞳の色のようなサファイアのリングと少し迷ったのだけれど、未来永劫共にあるとの誓いを込めてこれにしようと彼が決めた。

「青いギヤマンの簪の代わりに」

私の薬指を見ながら微笑むはじめさんに私も微笑みを返す。
食事を済ませた帰り道、通りがかりの桜の木の下に立ち止まり二人で見上げた。屯所の庭の巨木とよく似ている。

「桜の根元に倒れていたおまえの顔を最初に見た時、確かに名前だと俺には解かった気がした。しかし直後に忘れてしまうとは不覚だった」
「でもそのおかげで二度も同じ人と恋を出来ました」
「名前の方は最初から最後まで綺麗に忘れていたようだが」
「…………」
「責めているわけではない。だが、あれ程お前を求めた理由がはっきりと解った」
「はい、私も……」
「初めの頃、名前は俺を酷く拒んでいたな」
「あ、あ、あれは………、」

責めてるようにしか聞こえませんけど。
少しだけ拗ねたような顔をしてみせたはじめさんは、私が慌てるとすぐに可笑しそうに深碧の瞳を細めて優しく笑った。

「記憶を無くしても何処にいても、俺は必ずまた名前を愛するのだろうな」
「はい。私もきっとはじめさんを見つける」

彼が私を抱き寄せて左手を取り、真新しいエタニティリングに唇を触れた。その唇を私の唇に重ねる。
だんだん深くなる口づけに私もはじめさんの背を抱き締めて応えた。

もしもまた離れることがあったとしても。
私達は永遠に一つだから。
いつであろうと、どこであろうと。
必ずまた出会う。
離れても、何度でも。
私達は初めから一つだったのだから。


be completed


I would like to express my gratitude to everyone. 

最後までおつき合いくださりありがとうございました
2013.03.14〜05.25


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