青よりも深く碧く | ナノ
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -


36 氷解  


もう本当に駄目なのかもしれない、やっぱり私達は。
勝手場を出た足元は覚束なく、地面が揺れているようにさえ感じた名前は歩調を緩める。斎藤の隣りの自室に戻るのは気が重い。
縺れた糸は解こうとするほど絡まりささくれて、終いにはブツリと切れる。きっとこれはそれと同じだ。
もう忘れなければいけないのか。
彼の袖を摘まんで歩いた事、温かく包んでくれた腕、名を呼ぶ優しい声、名前は指先で自分の髪を結う薄紅の紐に触れる。斎藤と過ごした時間はただのひと時の夢。何もかもが幻だったのかもしれないと思うと喉の奥からまた嗚咽が漏れそうになる。
その時ふいに右側の障子戸が開き伸びてきた腕に手を取られ引き入れられた。

「……?」
「しぃっ! 僕だよ」
「沖田さん……?」
「勝手場から逃げて来たんでしょ」
「…………」

俯く名前に座るよう促し、背の高い彼が屈みこんで翡翠色の瞳で下から彼女の目を覗きこむようにして微笑んだ。

「もう泣かないでよ。君の泣き顔を見るのは、結構辛いから」

全て解っていると言わんばかりに片目を瞑って見せ、腰を下ろした彼は懐に手を入れ和紙の包みを取り出す。

「ここにしばらく隠れてたらいいよ」
「…………」
「食べない? 心が弱った時にはさ、甘いものを食べるといいんだ。名前ちゃんは何色が好き?」

沖田が広げた和紙の中には金平糖。
星の形をした可愛らしい砂糖菓子を名前はじっと見つめる。

「僕の好きなのはね赤いの。これは紅花で色をつけてるんだ。黄色は梔子かな」

名前が一粒をそっと指先で摘まむ。

「やっぱりね、その色が好きなんだと思った。それは、月草」
「……月草?」
「別名はつゆ草。知ってるでしょ、可愛い小さな青い花。ちょうど一君の瞳の色みたいな」

手のひらに乗せた小さな青い星を見つめる。
愛しさを滲ませて優しく細められる深碧の瞳が脳裏に浮かんだ。もうずっとあの瞳を見ていない。
思い詰めたように青い金平糖を見つめる彼女に沖田が問いかける。

「ねえ、名前ちゃんはどうしたいの?」
「…………」
「一君が、まさか本気であんなこと言ったなんて、思ってないよね」
「……ああ言われても仕方ない、です」

君も一君と同じで何にも解ってない、沖田はふぅと大きくため息を吐いた。

「嫌われるのは苦しい。でも邪魔になるのはもっと……」
「君達ってほんとに歯痒いよね。どうしてもっと自分に正直になれないのさ」

お互いを想い合っているのが他者から見れば手に取るように解るのに、当事者の二人には何故何も見えないのだろう。
病に冒された自分と違い斎藤は何もかも持っていると考えていたが、その実は少し違ったのだと沖田は思った。斎藤は自分の持っているものに気づかない。手を伸ばせばいつだって届くところに望むものはあるのに。
自身を律する事に慣れた斎藤は自制心が邪魔をして、目の前にある大切なものを逃そうとしている。あれほど無欲だった彼が貪欲に求めた唯一つのものとは、他でもない今目の前にいるこの名前だ。

「本人達にはわからないものなのかな。まあ仕方ないか」
「…………」
「一君の事が本当に嫌になったなら、もっと周りを見てみなよ。君を想ってるのは何も一君だけじゃない」
「……え」

廊下で少し風が立った。

「例えば左之さんとか……それに僕だって」
「…………」
「困った顔しないでよ」

沖田は面白そうに声を立てて笑った。

「そんなに怯えた目をしなくても、別に僕は君を取って食ったりはしない」
「……はじめさんが、私を嫌いになっても、それでも私は……」

小さな声で言葉を紡ぐ思い詰めた名前の表情に、笑いを引っ込めて沖田は障子戸の方を見た。
僕は一体何がしたいのかな。
沖田は僅かに目を細めて自嘲の笑いを浮かべると名前に視線を戻す。

「そんなに一君がいいんだ?」
「……はい」
「そこで聞いてるんでしょ、一君」

出し抜けに立ち上がると驚いて見上げる名前に目をくれずに、障子戸へ大股に近づき開け放つ。いきなり開かれた戸の陰に斎藤が立っていた。名前は顔を上げる事が出来ずにそのまま身体を強張らせる。
斎藤が「名前……」と掠れた声で名を呼ぶと、弾かれたように立ち上がった名前は小走りに斎藤の横を通り過ぎようとした。その目からはまた涙が溢れだしていた。

「待て」

掴んだ手首の細さに斎藤の心が軋む。それは儚いほどの細さで、短期間にこれ程に痩せたのは間違いなく己のせいなのだと思えば、悔恨に胸を掻き毟られそうだった。
沖田が斎藤の肩に手を置く。

「ほんとにさ、いい加減にしてよね」
「総司、お前は、名前を」
「ああ、さっき言った事? 冗談に決まってるでしょ。君達見てると苛々して揶揄ってやりたくなるんだよ」

声を立てて笑うと沖田は背を向けて出て行った。
改めて向き直ると名前は顔を俯けたままで、逃すまいと掴んだ手首からはすっかり力が抜けていた。

「名前」
「…………」
「聞いてもらえないだろうか、俺は……」

はらはらと零れる名前の涙が手首を捉えたままの斎藤の手の上に落ちる。頷く事も拒否する事もなく黙る彼女の、頼りない肩を抱きその場に座らせると自分も腰を下ろした。俯く名前の髪に躊躇いがちに触れ、暫く撫でていたが、思い切ったように口を開いた。

「守ると言っておきながら、俺がお前を傷つけている」
「……いいんです。全部夢だったと思えば」
「夢ではない、俺は」
「私でははじめさんの力になれない、邪魔になるばかり」

名前がふいに顔を上げ涙に濡れた瞳で初めて斎藤を見た。
彼の右の耳の下辺りで束ねた髪に結ばれているのは名前と色違いで揃いの組紐だった。斎藤が買ってくれたものだ。

「違う、俺はお前がいなければ……」
「…………」
「どれほどお前の心を傷つけても、それでもお前を離したくない。守りたいと言いながら矛盾しているかもしれぬが……お前を想う気持ちを変えることは出来ぬ」
「……嘘、それなら、どうして」

あの時……、言いかけて名前の琥珀の瞳にまた涙が盛り上がる。斎藤は痛みを耐えるように顔を歪ませる。

「名前、聞いてくれ」

彼女の肩を更に引き寄せ腕の中にすっぽりと包むと、斎藤は言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。
特殊な任務に就いている事、その内容を口外する事は誰であっても出来ない事、ただ名前の身を守りたいという事を。

「どう言えばいいか解らぬのだ。俺が傍に居ることで名前の身に危険が及ぶ事が怖かった。ただそれだけだった。だが信じて欲しい。何があっても俺の気持ちは決して変わらぬ」

名前はかすかに表情を動かすが、その瞳は未だ色濃い不安に縁どられている。斎藤は切なげに眉を寄せた。

「あのような事を言った俺の言葉など、信じてはもらえぬか」
「…………」
「すまなかった。……お前は左之を、その、好きなのか」

名前は首を振る。斎藤が小さくため息を吐く。

「俺は嫉妬深いようだ。お前と出会うまでは自分でも知らなかった」
「…………」
「名前を奪われたくないと思った。お前の事になるとどうもおかしくなってしまう。俺の事をもう、信じられぬか?」
「全部、私が悪いんです。私ははじめさんに負担をかけるばかり」
「負担と思った事など一度もない。信じてくれ、俺を」

何度も何度も根気強く「信じてくれ」と斎藤は同じ言葉を繰り返した。
信じたい、彼を。
許されるならばもう一度。
名前が小さな声で確かめるように呟く。

「……信じても、いいんですか」

両肩に手を添え名前の瞳を真っ直ぐに見詰め斎藤は再び強い声で言った。

「名前、信じて欲しい、俺を」
「それなら、私の事も……信じてくれますか」

斎藤が虚をつかれたように目を見開く。まだ涙の残る名前の瞳は真剣な色をしていた。
すぐに頬を少し緩めて頷くと名前の頭を自分の胸に引き寄せる。斎藤の胸に名前のあたたかい涙が滲み込んでいく。

「お前の気持ちも考えずに、すまなかった」
「もう、黙って離れて行かないで」
「ああ」
「何もかも話してとは言いません。でも危険だからって遠ざけたりしないで。私はあなたを好きになった時から全ての覚悟を決めています。蚊帳の外で守られるだけなんて嫌です」

彼女の心地よい声を胸元に聞きながら華奢な身体を壊れそうな程抱きしめて斎藤は思い出す。捕物に赴く自分と共に行くと言った名前のことを。あの時と同じだ。やはり名前には敵わぬ、と思う。

「約束する」

腕の中の名前の顔を上げさせて、斎藤は瞳を真っ直ぐに捉えた。顔を近づければ名前も斎藤の瞳を見つめ返す。

「はじめさんの碧玉色の瞳が好き。碧玉はサファイアって言って、一度見たら忘れられない程綺麗な宝石です。透明で深く澄んだ碧色で……」

唇が触れる。やがて深く重なっていく唇からお互いの強い愛情を注ぎ合い、抱き合ったままゆっくりとその場に沈んでいった。斎藤は名前を見下ろし名前が一番見たかった、愛しさを滲ませた碧玉色の瞳を面映ゆげに細めた。

「桜の下でお前を見つけたあの最初の夜からだ。一目惚れだった、と言ったらお前は笑うか」

頬を染め柔らかく笑う名前に再び唇を近付けながら。

「俺の気持ちは決して変わらぬ」

囁くように言うと先刻よりも更に深い口づけを落とす。その唇に応えながら名前は彼の背を強く抱き締めた。


prev 37 | 61 next
表紙 目次



MATERIAL: 精神庭園 / piano piano / web*citron

AZURE