青よりも深く碧く | ナノ
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -


35 空回り  


障子の外を控えめな足音が遠ざかって行くのを聞いてから名前は廊下に出る。寺へ行くのであろう斎藤が門から出る後ろ姿をそっと見送り井戸を使う。
六つ半。せっかく再開させた朝稽古も止めてしまい、斎藤について寺に行くこともなくなった。
朝餉の支度に勝手場に行くにはまだ早く、書き物を済ませてしまおうかと思ったが早朝の薄暗さでは書面が見にくく、行燈をつけるのも憚られ溜め息をついて手を止めた。
今日は大晦日。ここへ来てから二度目の正月が来る。
もう随分と長くここに居る。今の自分にはそれが良い事なのか、また解らなくなってしまっている。
斎藤との溝は埋まらない。

「千鶴、名前。斎藤と挨拶回りに出かけて来るが、夕飯までには帰るから頼む」
「はい、いってらっしゃい」
「…………」

朝餉が終わると斎藤を伴った土方が勝手場に顔を出した。千鶴と共に膳の片づけをしていた名前は顔を上げずに会釈だけをした。斎藤は黙って名前の姿に目を当てていた。

明るい堀川通りを二条城方面へ向かって歩き出しながら土方は斎藤を見る。

「お前、大丈夫か」
「は、何のことでしょうか」
「名前のことだよ」
「任務に差し支えるような事はしません。副長にご心配いただくことは」
「そんな事を言ってるんじゃねえんだが」

斎藤と名前の間が縺れているのは土方にも解っていた。
土方にしてみれば常に自分の命に忠実に従い、期待以上の働きをしてくれる斎藤が可愛くない筈がない。この男が初めて人並みな感情を露わにし人間味を見せるようになったのは、言うまでもなく名前の存在があっての事だ。それを悪い事だとは思っていなかった。
考えてみりゃ、こいつには汚れ仕事ばっかりさせちまってるな。

「この仕事が済んだら少し休みをやる。もうちっと辛抱してくれるか」

斎藤は口元だけで薄く笑い、小さく頷いた。


すっかり口数の減った名前は黙々と片づけを進める。

「名前さん、昨年の大晦日のこと、覚えてる?」
「え?」
「お蕎麦を二人で買いに行った事」
「……うん」
「あの時私に言ってくれたことも?」
「…………」

勿論覚えていた。あの時は斎藤に思いを寄せていた千鶴を勇気づけたのだった。手を止めて千鶴を見る。

「今度は、名前さんの番だよ。名前さん、言ったでしょう。誕生日を祝われて嫌な気持ちになる人はいないって」
「…………」
「今日はお夕飯までに帰るって土方さんも言っていたし、お蕎麦の他に何か、斎藤さんの好きなものを作ってあげよう?」

名前の顔に戸惑いと躊躇いが浮かぶ。

「はじめさんの事はもういいの。……負担にだけはなりたくないから」
「負担なんてことないよ! 斎藤さんは名前さんの事、今だって好きだよ。私にはわかるよ」

千鶴は思わず声を大きくしてしまう。

「…………」
「見てればわかるの。名前さんは斎藤さんを避けてるからわからないんだよ」
「……………」
「じゃあ、斎藤さんだけの為じゃなくて、みんなの為にってことで。ね、何か美味しいもの、作ろう?」
「……うん」
「大根のなますと筑前炊きとか、どうかな?」
「高野豆腐も……入れて」
「うん。入れよう」

ほんの僅かではあるが生気を取り戻したような名前の表情を見て、千鶴はほっとする。
洗濯やそれぞれ自室の片づけを終わらせてから、昼餉は雑炊と沢庵で簡単に済ませ、買い出しに行ってくれた源さんと平助が野菜を持って帰ってくるのを待った。

「源さん、平助君ありがとう」
「おう、美味い飯楽しみにしてるかんな。ってこうしてらんねえや、部屋が全然片付いてねえよー」
「このくらいお安いご用だよ。今日は煮しめでも作ってくれるのかい?」

平助はばたばたと慌てて自室に戻っていったが、源さんはいつもの穏やかな笑顔で出汁をとった鍋を覗く。

「楽しみにしていてくださいね」
「ああ、楽しみだね。苗字君、今日は顔色がいいようだ」
「はい、ありがとうございます」

源さんの気遣いに名前も心が和み頬に笑顔をのせた。
二人が勝手場を出ていってしまうと、本格的に料理に取りかかる。
まずは大量の大根を千切りにしなますを作る。高野豆腐を戻しながら人参の皮を剥き、次に里芋に取りかかっていると、平助が再び顔を覗かせた。

「わりぃ、千鶴。ちょこっと手伝ってくんねえ?」
「ええ? 今、忙しいのに」

平助は情けない声で「頼むよ」と千鶴を上目遣いに見た。

「俺の部屋、ちっとも片付かねえんだよ。なあ、少しだけ」
「千鶴ちゃん、行ってあげて。ここは大丈夫だから」
「わりぃな、名前」
「ごめんね、すぐ戻るから。もう、平助君が普段からちゃんとしておかないから……」

平助が名前に向けて両手で拝む格好をしながら出て行き、千鶴はぶつぶつと文句を言いながらもどこかしらはしゃいだ感じでついて行った。相変わらず仲がいいな、と名前は少しだけ温かい気持ちになって見送る。
はじめさんと私もあんなふうにしていられたらよかったのに……。
頭に浮かびかけた斎藤の面影を振り払って、名前は里芋に向き直った。だが、ざるに盛られた里芋を見て小さく吐息をつく。
結構な量がある。里芋はぬるぬるとしていて剥くのに難儀する。実はこれを扱うのが彼女は苦手だった。包丁を当ててはするりと逃げられてしまい、いつも苦戦する。

「……あ」

手から滑りこぼれた里芋が流しの淵に当たり、床に落ち転がって行く。

「ああっ」

慌てて追いかけていくと誰かの足先にぶつかって止まった。
見上げると原田だった。

「よう、何やってんだ、名前」
「原田さん」
「里芋と追いかけっこか?」
「う……、すみません、つるつるしているので……」

原田は楽しそうにくっくっ、と笑って里芋を拾い上げた。指先で摘まんだ剥きかけの里芋を見て、そうして名前に目を移す。

「千鶴は何処行ったんだ?」
「平助君の片づけの手伝いに……」

見るとまだかなりの量の里芋がざるに積み上がっている。

「この量を独りでやってるのか。しょうがねえな。なら俺も手伝うか」
「え、でも……」
「こう見えても里芋の扱いにはちょっと自信があるんだぜ」
「そうなんですか」

名前は思わずくすりと笑った。原田の言葉が女性と入る所を里芋に入れ替えたように聞こえたからだ。
原田の方は、お前まだ笑えるんだなと、久し振りに見る名前の笑顔に心の底から安堵していた。
「よし、やるか」と彼は名前の隣に並んで里芋の剥き方を披露し始める。

「よく見てろよ。こうやって上と下を先に落としてから、縦に剥いてくと簡単に剥けるんだぜ。ほら」

原田がやってみせるのを見て名前は感心する。
言われたようにやってみると綺麗に剥けるのでまた感心する。

「意外な特技があるんですね。驚きました」
「意外は余計だろ」
「ふふ、ごめんなさい。あの調子でやってたら日が暮れそうだったので助かりました」
「乗りかかった船だ。最後まで手伝うぜ?」
「でも……」
「この料理は斎藤の誕生日の祝いの膳か」

俯いた名前の頬が刷いた様に薄く染まった。微かに胸の痛みを感じながらも原田は笑って見せた。

「あいつの好みそうなものばかりだな」
「……すみません」
「別に謝るような事じゃねえだろ? いいから手を動かせよ」
「はい」

原田はするすると里芋の皮を剥いていく。

「こうやるとほんとに簡単なんですね」
「だろ?」

鬱々とした気持ちで日々を過ごしていた名前は、久し振りに穏やかな気持ちでいられる自分が嬉しかった。
これなら。
今日ならはじめさんに、お誕生日おめでとうと言えるかもしれない。せめてその一言を言うくらいなら、許されるかもしれない。
千鶴はなかなか戻ってこないが、原田の協力で里芋の皮はあっという間に剥き終わり、ぬるま湯で戻した高野豆腐や蒟蒻、椎茸などと一緒に大鍋に入れて煮込みに入った。
この分なら夕餉に十分間に合う、と名前はほっとする。

「ありがとうございました。何かお礼をしなくちゃ」
「礼か? そんなものは……」

いらねえよと言いかけて、原田が言葉を止める。
先刻まで楽しそうに笑っていた原田の顔が俄かに真剣な表情に変わり、彼は名前をじっと見つめた。

「原田さん?」

見つめ合うような形になりそのまま暫くの沈黙が続く。名前は不思議そうな顔をしたまま原田を見返している。

ずっと気にかけてきた。しかしそれが名前の幸福ならと自分を抑えた。それなのに。
斎藤はこのまま名前を放っておくつもりなのか? そりゃ勝手過ぎるだろう? 

原田の心にはまだ処理しきれていない名前への気持ちが燻っていた。
礼をしたいって言うなら……。
せり上がる感情に原田の手が上がりかけた時、小さく床の軋む音が聞こえた。
二人は同時に音の方を見た。二人の視線の先には斎藤が立っていた。

「…………」
「……斎藤」

原田の呼びかけに応えず、斎藤は能面のような無表情で二人を見つめている。
誰もが固まったように身動きをしなかった。
斎藤の眼差しから伝わる氷のような冷たさに、名前はいつかもこんなことがあったと既視感を覚えた。
あれは昨年の真夏のことだった。風呂場での出来事を思い出す。あの時と同じ。

「はじめさん……」

斎藤の深碧の瞳はどこか虚ろに名前に向けられた。
空気が重い。

「…………」

やがて長い沈黙を破るように斎藤の口が開いた。

「……お前は」
「…………」
「誰でもいいのか」
「え……?」

刹那、何を言われたのかがわからなかった。あまりにも信じがたい言葉に名前の目は大きく見開かれ、彼女の身体は硬直した。
原田もまた驚愕する。

「お前何言ってんだ? 誤解するな、これは……」

……今、はじめさんは、なんて言ったの。

「俺でなくとも」

斎藤の圧し殺した低い声が、追い打ちをかけるように続き名前の心を抉った。
名前の瞳にはみるみる涙が盛り上がり、それはすぐに堰を切ったように溢れた。
後から後から流れる涙を溢れるに任せ、言葉もなく一瞬だけ斎藤の目を見る。彼の表情は動かない。
名前は二人の間をすり抜けて勝手場を走り出て行った。

「斎藤! お前、何言ってやがる!」

原田が斎藤の胸倉を掴んで睨みつけた。掴まれたその手を乱暴に振り払って斎藤は原田から目を逸らす。鋭い目で斎藤を睨みつけたまま、原田が言い放った。

「言っていいことと悪いことがあるだろう? 何考えてんだ!」
「…………」
「ああ、そうかよ。惚れた女を信じることも出来ねえって言うのかよ。だったら名前を俺にくれよ」

斎藤がゆっくりと視線を原田に戻した。

「お前はあいつのことなんか、ちっともわかっちゃいねえ。誰の為にあいつがこんな事してたと思ってる?」
「…………」
「泣かせるなと言った筈だ」
「…………」
「約束を破ったんだ。もうお前に義理だてする必要はねえよな?」

踵を返し名前を追って勝手場を出ようとした原田の二の腕を斎藤が掴んだ。それは握り潰そうとでもいうような強い力だった。

「行かせぬ」

振り返り見返せば、そこにあったのは憎悪でも怒りでもなく、斎藤はただ途方に暮れたように心許なく瞳を揺らした。原田の脳裏にちょうど一年前の除夜の鐘を聞いた後の広間での事が過る。
斎藤の胸中にはやり切れない思いと切なさ、そして名前への抑えきれない思慕が渦巻いていた。


prev 36 | 61 next
表紙 目次



MATERIAL: 精神庭園 / piano piano / web*citron

AZURE