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29 予兆  


「千鶴、ちっと近藤さんの部屋に茶を運んでくれねえか」
「はい」
「三人分だ」

土方が勝手場に顔を出した。夕餉に出す海老芋の皮を剥いていた千鶴が、ぬるぬるした指を濯ぐつもりで桶に手を入れようとするのを見て、隣で鰹節を削っていた名前が言った。

「お茶なら私が淹れるよ。ついでに運んでくる」
「いいの? 助かる」
「こんな事くらい」

見るからに千鶴のほうが手の離せない状況なのだ。名前は手早く茶を入れると盆に湯呑みを三つ載せた。そろそろと歩き、局長の部屋まで運んで行く。

「お茶をお持ちしました」
「入れ」
「おやあなた、苗字君じゃないですか。お久し振りですね」

返答を聞き膝をついたまま静かに障子戸を開くと、そこにいたのは意外な人物だった。
客人は伊東甲子太郎。名前はふと動きを止めた。土方が名前を見て微かに顔を顰める。

「お前が来たのか」
「はい。失礼します」
「ああ、苗字君、ありがとう。大切な話をしているからね。茶を置いたら下がりなさい」

会談する三人の近くに盆を滑らすように置くと、近藤局長もいつになく厳しい顔で固い声を出した。一礼して障子戸を元のように閉める。何故か鼓動が早くなるのを感じた。
伊東は新選組の参謀ではあるが屯所で寝起きしているわけではなく、余所に宅を構えて隊へは非常勤の形を取っていた。そのせいかもしれないがどこか新選組に対して他所様という雰囲気が否めないと名前は思う。
大分前に土方が言った言葉を思い出す。

伊東さんは信用出来ねえ。だから名前の事情は話してねえ。
土方が当初から伊東に好感を持っていないことは知っていたが、それは個人的に伊東と反りが合わないという程度のことではないような気がした。

「名前さん、ありがとう」
「……あ、うん」

勝手場に戻ると、千鶴が声をかけるのにもどこか上の空のまま、続きの鰹節を削りながらまだ考えていた。何とははっきりとわからないが、何かとても嫌な予感がした。

この日の夕刻斎藤が巡察の報告に出向くと土方は、後で改めて自室に来るようにと彼に言った。食事と風呂を済ませた後、斎藤は再び副長の部屋に赴く。
込み入った用件になるだろうと思っている。そして話の向きは大体見当がついているのだ。

「斎藤です」
「おう、入れ」

いつものように折り目正しい姿勢で土方の前に正座する斎藤を見つめ土方が小さく笑う。

「お前は相変わらずだな。足くずせよ」
「いえ、このままで結構です」

想像通りの言葉に土方はまた苦笑をする。

「呼んだのは他でもねえ、名前の事だ」
「はい」
「それと……」

その夜、副長室の明かりは深夜まで灯っていた。



巡察に出る前の斎藤が名前の部屋に立ち寄るのは近頃の習慣になっていた。

「名前」
「はい」

低く声をかけられて振り返る。いつ見てもすっきりした立ち姿に浅葱の隊服がよく似合う。
筆を止め立ち上がると、敷居に立つ斎藤の側へ小走りに寄って襟巻に手をやり整えた。その手をそっと斎藤の髪を結う紐に触れる。
名前の仕草を面映ゆく見つめる優しい蒼い瞳をじっと見返して、心を込めて言う。

「どうか、お気を付けて」
「ああ、行ってくる」

微笑んだ斎藤も名前の髪を一撫でし、指先で薄紅の髪紐に触れた。外では三番組の隊士達が既に待機している。玄関へと向かう斎藤の姿が見えなくなるまで、なまえはその背を見送った。
斎藤が巡察に出てしまうと中途になった書き物に再び集中する。仕上げを済ませて土方に届ける為廊下に出た。
「苗字です」と声をかけて副長の部屋を訪れると、土方は待ちかねたように身体ごと振り向き、名前の手から書類を受け取った。目を走らせて確認しながらいつも以上に称賛する。何だか少々わざとらしいくらいだった。
しかし一方副長の機嫌の良いことに名前はほっとする。今日こそ直訴しようと密かに考えていたからだ。

「今日もいい出来だ。お前の字は実にいい」
「ありがとうございます。……あの副長。斎藤組長からお聞きになっていると思いますが」
「名前」

続けようとした言葉を遮られるように不意に名を呼ばれ、いささか出鼻をくじかれた気分で顔を上げた。

「お前、これからも俺の祐筆として働く気はねえか。給金も出す」
「副長、それはどういう意味ですか? ……あの、私の身体はもうすっかり元通りです」
「解ってるよ」
「私の希望は……」
「それは斎藤から聞いてる」
「組長はなんと言っていましたか」

彼女に何も言わせず、祐筆になれとの予想外の言葉に戸惑い、膝を乗り出して土方に詰め寄る。それにも答えず土方は殊更に声を和らげて説得するような話し方をした。
その口から出た言葉は、名前には唐突に過ぎた。

「斎藤の気持ちを少しは考えてやれ」
「え?」
「惚れた女に危ねえ仕事をさせてえ男なんざいやしねえんだ」
「…………」

一瞬だけ虚をつかれ、次に動揺が走る。土方の言わんとする意味の一部を理解すると名前の顔が赤くなる。

「お前達の仲は誰に聞いたわけでもねえ。お前が斬られた時にな、あの夜に解っちまってな」
「そ、それは、あの……すみません」

随分と前から斎藤との事をお見通しだったのだと知り、きまり悪さに俯いてしまうが土方は笑いを含んだ声で続ける。

「そんなこたあ構わねえんだ。妙齢の男と女が一緒にいりゃあ自然な事だろう」
「……すみません」
「だから、謝るこっちゃねえよ」
「はい……」

名前が羞恥のあまり小さくなっていると、土方の口調が俄に厳しいものになる。

「だがな、ちっと考えてみろ」
「…………」
「あの時のあいつがどんなふうだったかわからねえか? 流石の俺も見ちゃいられなかったぐらいだ」
「…………」
「俺もお前の事は認めてるぜ。けどお前は女だ。男と同じ力で同じように戦おうったって、そりゃあ無理な相談だ」
「でも副長、私は……新選組のお役に立ちたいです。居候のような生活では」
「お前は今でも充分役に立ってるだろうが。斎藤はうちの大事な幹部だ。その斎藤を助けて支えになってるじゃねえか」
「でも……」
「名前。俺は斎藤の肩を持っちゃいねえしお前の味方でもねえ。こいつは俺の考えだ。同じことを何度も言う気はねえ。俺とお前の話はこれで終わりだ。後は斎藤とよく話し合え」

これ以上言い募ることは許さないと言うように土方がぴしゃりと話を打ち切った。
項垂れて土方の部屋を後にする。つまり女である自分には無理なのだとはっきりと言われたようなものだ。
言われるまでもなくそんなことは解っていた。だが如何に千鶴の手伝いをしたところで敵わず、土方の手伝いも所詮は頼まれごとの域を出ない。
いつの間にか隊士として働く事が唯一、此処での彼女の矜持みたいなものになっていた。斎藤の力になりたい。そして何よりも、ただ彼に守られているだけの女でいたくない、と思う。彼が守ると言ってくれたのと同じ気持ちだ。
だが斎藤の考えは、また全く違ったものだったのだろうか。怪我で倒れた自分を斎藤がどんな思いで見ていたか、それも解っているつもりだった。

惚れた女に危ねえ仕事をさせてえ男なんざいねえ。

土方はそう言った。捕り物の夜断りなく参加した自分を見て激怒した彼も同じ事を言った。きっとそれが斎藤の偽らざる気持ちなのだろうと思う。



自室に戻っても考えをまとめる事が出来ないままぼんやりと庭を眺めていた。長い時間固まったようにそうしていると、少し離れた階にふらふらと歩く影が見えた。
あれは沖田さん?
見るともなく見つめていれば陰はふいに苦しそうに蹲った。

「沖田さん!」

側に駆け寄ると沖田は袖口で顔を覆い声を殺すように咳をしていた。
苦しげな顔をほんの少しだけ向けて此方を見る。

「……君か」
「大丈夫ですか」
「すぐ、治まる、から」

黙って彼の背を擦る。暫くそうしているとだんだんと呼吸がゆっくりとしたものになってきた。
咳の治まった沖田はふう、と溜め息をつくと疲れたように階の一番下の段に腰かけた。

「名前ちゃんにはこんなところばっかり見られるね。……ごめんね」
「いいえ、そんな」

名前も自然と並んで腰かける。
島原以来、彼はめっきり元気をなくしていた。病状が芳しくない様が手に取るように解る。だが沖田は無理に笑顔を作った。

「大丈夫なのにさ。土方さんがね……あの人、ほんとに煩いんだ。早く復帰したいんだけど、ね」
「沖田さん……」
「僕の一番組は新八さんに任せっきりでさ、組長がこれじゃ隊士達の士気も下がっちゃうよね」
「…………」
「……君はしつこく聞かないんだね、僕の事」
「沖田さんだって、私の事……聞かないから」
「誰だって言いにくいことはあるもんだよ、ね」

沖田が薄く笑う。

「私も、副長に復帰の願いを聞いてもらえないんです」

気を変えるように言うと、沖田は名前の顔をまじまじと見る。

「ふうん、君もなの」
「女には無理だって……」
「そうなんだ? どうして解ってくれないんだろうね」

沖田は一流の剣客である。立場も性別もそして腕も違うのに、沖田は他の誰とも違う感覚と言葉で彼女の話を聞いてくれた。恰も同士みたいに。

「でもさ、一君の気持ちを考えろって言うのは当たってると思うよ。好きな子が怪我をするなんて、誰だって嫌だから」

遠くを見つめながらゆっくりと喋る沖田の言葉は何故か不思議と心に染み入る。これまで沖田と多くを語りあった事などなかったし、沖田という人物のこともよく知っているわけではない。それなのに沖田の話は落ち着いて聞ける。何故か素直に理解を出来る気がする。
いつも周りを茶化したり過激な言葉を吐いたり、そういうところを幾度も見聞きしたが、それは彼が心に抱える澱のようなものがそうさせていて、彼の本心はきっと違うところにある。

「沖田さん、ありがとう」
「別に僕はお礼を言われるようなことは言ってない」
「でも、沖田さんと話してたら、心が軽くなりました」
「そう……それよりそろそろ一君が戻る時間じゃないかな」
「あ、もうこんな時間」
「一君ってああ見えてやきもち焼きじゃない。島原ではほんとに見てられなかったよ」

くすくすと思い出し笑いをしながら、冗談混じりに言う。

「僕、一君に斬られるなんて御免だから。早く行きなよ」
「はい。沖田さん、ありがとう」

立ち上がる名前を見上げて沖田は口角を吊り上げ、唇だけで笑った。立ち去りかけた名前も、もう一度振り返り微笑む。沖田はその姿を見つめながら、一君は何もかも持ってるんだね、と小さく独りごちた。
名前が部屋に戻ろうとすると、既に戻っていた三番組、六番組の隊士達が門中でがやがやと屯っているのが見える。中に源さんの姿を見つけて声をかけた。

「源さん、お帰りなさい」
「ああ、苗字君、ただいま」
「お疲れ様です」

そこへ報告を済ませた斎藤が現れる。

「名前」
「お帰りなさい、斎藤さん」
「ああ」

彼は短く答え名前の背を押すようにして部屋へ向かった。いつにないその行動に彼女は頭に疑問符を浮かべながら促されるまま歩く。斎藤の部屋に入ると斎藤が真剣な表情で名前の目を覗きこんできた。

「斎藤さん? 何かあったんですか」
「名前、今ここにはお前と俺の二人きりだ」

あ、と気づいて名前はまだ何となく呼び慣れぬ斎藤の名を、気恥ずかしげに唇にのせる。「はじめさん……」と小さな声で呼べば、斎藤が少しだけ赤くなりながら満足そうな表情を浮かべた。

「今度の非番にまた出かけぬか」
「どこへですか?」
「紅葉を見たくはないか」

思いがけない言葉に名前がぱっと顔を輝かせる。

「いいんですか?」
「今がちょうど見頃のようだ。そんなに遠くまでは行けぬ故、近場になるが」
「行きたいです」

嬉しそうに笑う名前を抱き寄せ、斎藤も優しい笑みを浮かべた。


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