青よりも深く碧く | ナノ
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25 満月  


島原の宴会から二週間ほどが経った。
あの日、青い着物に包まれ女の形をした名前は息を呑む程に美しかった。かつてあの簪を挿した姿を見たいと言った事を彼女は覚えていてくれた。
角屋の門口で恥ずかしげに小首を傾げた姿が瞼に焼き付いている。抱き締めた感触が今も手に残っている。柔らかな唇も。
温かく心を満たす名前を、かけがえのないその全てを切実に欲しい、と斎藤は思った。



六つ半、いつものように床を出て斎藤は身支度をする。
障子戸を開け刹那佇むと隣の障子が音も立てずにすっと開いた。

「おはようございます」
「ああ、おはよう」

小さく笑み交わし名前と共に井戸端へと向かった。
最近は堀川通の先にある寺で朝の稽古をしそれに彼女も同行している。以前名前を追いかけて行ったあの寺である。日々の一つ一つの出来事が確実に二人の間を近づけていると二人共に感じていた。
境内でしばらく瞑目し斎藤は精神統一をする。頭頂から踵のやや前の位置まで一直線になるような立ち姿で膝を少し緩め、骨盤をやや前傾させ肩を落とす。
閃光のような一振りはまるで目の前に恰も敵が実際にいるように迷いがなく、その動きには寸分の無駄もない。一歩踏み出し真っ向に振り下ろす動作一つとっても、体全体の筋肉がしなやかに動くのが解る。
名前は瞬きも忘れて魅入られる。
彼女を目の端に留めた斎藤が唇の端をほんの少しだけ上げ、しかし彼は直ぐに唇を引き締めて再び居合いの動作に戻る。時を忘れ斎藤の姿を見つめ続けた。
半時程も続けてから屯所へと戻る道すがら。

「私も早く隊務に戻りたいです。怪我から半年も経ちました」
「副長の判断次第だ」
「斎藤さんからお口添えいただけませんか? せめて稽古だけでも始めないと身体が覚えた事を忘れてしまいます」
「……ああ」

斎藤は口を濁す。内心は名前を隊務に戻したくはなかった。彼女が斬られた時を思うと震えが襲うほどだ。あのような事はもう二度と御免だ。
いくら自分が守ると言ってもそして彼女の腕がいくら男並みに立つと言っても、斬り合いの場に一切の危険がないとは言えない。この自分とて同じ事なのだ。
二人で過ごす時間にぎごちなさが取れ彼女は柔らかい表情をするようになった。望んだ笑顔がいつも側にある。名前との間がほんの少しずつではあるが確実に深まってきていると感じれば感じる程、前以上に失いたくないと思うようになった。

「斎藤さん?」
「……ああ、話してはみるが、」
「約束ですよ?」

名前がまた愛らしく見つめて来るので斎藤も小さく笑んで返した。



その夜の夕餉の膳には酒が出た。千鶴と名前で作った団子もあった。
今宵は中秋の名月なのである。食事が終わっても皆広間に残っていた。

「お月さんもいいがやっぱり酒は旨いねえ」
「新ぱっつぁん、いっつもそればっか」
「酒ばっかり呑んでねえで少しは月を眺めたらどうだ」

土方が軒端に出て月を見上げる。

「ねえ、豊玉さん。こんな夜は筆が鳴るんじゃないですか」
「うるせえぞ、総司」
「山門を見越して見ゆる春の月……」
「馬鹿、そりゃ春の句だ。それよりてめえ、何そらんじてやがる」
「土方さんの月って春ばっかりですね」

沖田がくすくすと笑う。土方の唯一の趣味である俳句を沖田がいつも茶化している。近藤局長もさほど強くない酒を気分よく呑みながら珍しく居残っていた。
斎藤も軒の土方の側で夜空を見上げた。

「斎藤。さっきの話だが、ちっと考えさせてくれ」
「はい」

斎藤さん、朝の事副長に話してくれたかな……。
名前はそう思って遠目に彼を見ていたが千鶴が食事の済んだ膳を運び出すのを見て、慌てて自分もそちらに向かった。

「名前さん、早く終わらせて私達もお月さまを見ましょうよ」
「そうね」

勝手場の流しに並んで二人で洗い物を始める。

「千鶴ちゃんは相変わらず手際がいいな、私も見習わないと」
「だって、名前さんは剣の腕が凄いじゃないですか。私はそういうことが全然駄目だから」
「でも女性はお料理や家事が出来る方がやっぱりいいと思う」

お互いを褒め合いながらくすくすと仲良く洗っていると平助が来た。

「なんかわりぃな、全部やらせちまって」
「いいんですよ。ゆっくり呑んでいてください」
「今日はさ、土方さんの機嫌が良くてまた酒を出してくれたんだ。二人とも終わったら一緒に月見ようぜ」
「平助君、呑み過ぎないでね」
「おう千鶴、待ってるからな」

平助が去ると千鶴の横顔が薄桃色に染まっていた。
少し前から仲がいいなとは思っていたのだが。

「千鶴ちゃん、もしかして……」
「私、顔赤いですよね」
「やっぱり……?」
「名前さんには解っちゃうんですね」
「平助君と、いつから」

千鶴が平助との経緯を掻い摘んで話し始める。

「ほら私、斎藤さんに失恋しちゃったでしょう?」

……そうだった。
千鶴を気にしながらも結局自分が斎藤と……、名前の顔が曇りつい俯いてしまう。

「あっ、ごめんなさい、そういう意味じゃないんです。平助君が慰めてくれて、っていうか何も言わなくてもわかってくれているみたいで安心出来て……それで、あの、いつのまにかって言うか、」
「……ごめんなさい」
「謝らないで、名前さん。私、今とても幸せなんだから。それに斎藤さんも名前さんも大好きだから」
「ありがとう、千鶴ちゃん」

千鶴の気遣う優しい言葉に思わず胸が詰まる。

「何かあったら相談し合いましょうよ、ね、名前さん」

こういうところはいつの時代の女の子も同じなんだなと名前は涙ぐみながらも微笑ましく思う。



広間に戻ると皆引き揚げたようで平助、原田、永倉だけがいつものように車座で呑んでいた。早くから酒を口にしていた永倉は半分潰れかけている。

「月を見ないで呑んでばっかり」
「これから見るんだよっ」
「ねえ平助君、土方さんも斎藤さんもお部屋に帰ったの?」
「土方さんはなぁ、創作意欲が湧くんじゃねえの? 総司にからかわれて怒りながら帰ってったよ。一君は、あれ? いつの間に消えちまったんだろ」
「もう、呑み過ぎだよ」

二人のやりとりに笑みを浮かべ千鶴の淹れてくれた茶を手に取る。
ふと原田がこちらを見ているのに気づき名前はなんとはなしに居たたまれなくなった。小声で千鶴に部屋へ戻ると告げるとそっと広間を出る。
長い廊下を渡り自室の前まで歩くと斎藤が縁で盃を手に十五夜の月を眺めていた。近くに盆が置かれそこに銚子が載っていた。彼にしてはいつになく寛いで脚を崩し胡座をかいている。
開け放った部屋にまで青白い月光が差し込んでいて静かで幻想的な風情だった。

「……斎藤さん、ここにいたんですか」
「広間は騒がしいのでな」
「お一人で?」

斎藤は微かな笑みを浮かべるとここに来い、というように自分の隣に目をやった。引き寄せられるようにそっと腰を下ろす。
斎藤が盃を口に運ぶ横顔を見つめていると、ふと気づいたように名前を見返し、呑むかと言うように干した盃を差し出した。

「名前も少しどうだ」
「はい、では少しだけ」

受け取ると斎藤の手で酒が注がれる。口をつければ甘く芳醇な味わいが広がった。

「……美味しい、です」
「そうか」

斎藤に盃を戻し名前が酌をする。二人で交互に酒を口にしながらゆっくりと月を眺めた。

「月は美しいが、こうして眺めていると少し不安になる」
「不安に?」
「お前が、あの月から来たのではないかと」
「…………」
「いつか、帰ってしまうのでは、と」
「…………」

その言葉にどきりとする。もう隠し通す事は出来ない気がした。斎藤は月を見上げたままその光を浴び、静かな佇まいを崩さない。
名前は長い事その端整な横顔を見ていた。暫くの逡巡の後、思い切って口を開く。

「私の話す事を信じていただけますか」

斎藤がゆっくりと名前の方に顔を向けた。彼女の瞳を慈しみを込めて見つめる。その瞳は蒼く澄んでおり名前への揺るぎない愛情が見て取れた。

「私……、私はこの時代の人間ではありません」

包み込むような眼差しに勇気を得て斎藤の瞳から目を逸らさずに、言い淀みながらも言葉を繋げる。
斎藤は表情を動かさずに静かに聞いていた。

「斎藤さんが見つけてくれたあの時。目覚めてすぐには此処が何処なのか解らなかった」
「…………」
「私が居たのは、百四十八年後の日本の東京です」
「とうきょう?」
「此処での江戸のこと、です……」
「……それは、」
「時を超えてしまったのだと、思います。あの朝にはそれだけは気づいていました。でもどうして此処に来たのか、どうやって来たのかは……今でも解りません」

蒼い瞳が僅かに揺れる。月の光が一際強くその片頬を照らしたように見えた。斎藤の表情が引き締まったものに変わっていく。
自分の中で名前の言葉を受け止めるように僅かな時間をおき、彼は穏やかな口調のままで答えた。

「そうか」
「信じて、いただけるのですか……」
「お前の目は嘘をついているようには見えぬ故、」
「驚かないのですか」
「……ああ、いや。少しは驚いている」
「今まで隠していてすみません」
「いや」
「こんな事を話してしまったら怪しい女と、気が変な女と思われるかと……心配だったんです」

盃を手にしたまま口に運ぶのも忘れていた斎藤はそれを盆に戻すと頬の筋肉を少し緩めた。

「気が変なのは俺の方かも知れぬ」
「……え?」
「名前の出自は俺にとって然程の問題ではない。もう、今は」
「…………」
「全てを受け止める覚悟があると言っただろう。その気持ちは今も寸分も変わらぬ」
「斎藤さん」
「ただ、」
「……はい」
「元居た場所に誰か、待つ人はないのか?」
「身の回りの事とか名前や歳以外はどんな暮らしをしていたとか、家族や友人の事も思い出せないんです」

何か深い事情を抱えているとは予想していた。だが予測の範疇を超えていた。
彼女は時を超え此処に来たと言う。彼女の口からたった今語られた言葉の数々は普通に捉えれば一時には信じがたい事であろうと思う。しかし何故か不思議とその事実が腑に落ちてきた。
名前の記憶が戻っているのかということは、かねてからずっと密かに気にしていたことでもあった。今も彼女は自分が何者であるかを見失ったままでいるのか。それは自分には想像もつかない事だが名前の苦悩は想像に余りある。疑う気持ちは斎藤には少しもなかった。
時空を超えるとは冷静に考えれば確かに信じ難く荒唐無稽な話に思える。だが今までの彼女の言動や行動から推し量ればきれいに納得がいくのだ。
事実をすぐに飲み込めたというわけでもないが、新選組の敵であったとか間者であったとかでなかっただけ有難いくらいだと思った。
名前は反応を恐れていたのか、強張った表情で不安げに斎藤を見上げてくる。長い間言えずに苦しんでいたのはこの事実を告げられなかった為だったのか。斎藤はやっと今までの全てを理解する。彼の顔には苦渋でも困惑でもない複雑な色が浮かんだ。もはや彼にとって名前が違う時代の人間である事実などは些細な事なのだ。
何も変わらない。愛しい気持ちは変えようがない。
ただ、一つだけ恐ろしいのは。

「お前はいつか、もとの世界に帰ってしまうのだろうか」
「……それは、私にも解りません」
「ずっと、いて欲しい」
「え?」
「そばに……俺と」
「斎藤さん」
「お前と離れるなど、もう……」

恐れるのは名前を失うことだけだ。斎藤の蒼い瞳が名前の琥珀の瞳を捉え、その青色の奥にある想いを彼女は確かに感じる。

「私も、です。斎藤さんと離れたくない」
「全てを預けてくれていい。出来る限り俺がお前を守りたいと思っている」

斎藤の指が伸ばされ名前の目元を拭う。いつの間にか涙が頬を伝っていた。

私を受け入れてくれるの?

これまで抑えてきた想いが高まる。求める気持ちに引き寄せられるようにどちらからともなく唇が静かに重なった。触れるだけの口づけが徐々に深くなっていく。斎藤の左手が名前の頬に当てられた。花弁のような唇に舌を這わせて割り入るとそっと歯列をなぞった。更に奥まで侵入させ小さな舌を追いかけ絡ませる。彼女もまた、自ら斎藤を求めた。
愛しい人と交わすこの上なく甘美な口づけに眩暈を覚える程の歓喜が湧きあがる。何処の誰であるかなど問題ではないのだ。例え彼女が時空を超えて来たのだとしても変わらぬ。
名前が欲しい。しっかりとこの手にその全てを確かめたい。何処の誰であろうとも構わぬ。ただ彼女を愛している。決して失いたくない。思う事はそれだけだ。
唇を離さずに名前の肩に手をかけ引き寄せる。力をこめてその全てを包むように抱き締めた。

……遠くから足音が聞こえた。
斎藤が顔を離し振り返ると直ぐに廊下の先から原田が現れた。斎藤が眉を寄せる。

「よう」
「なんだ、左之」
「ここにいたのかよ」
「原田……さん」
「中秋の名月だ。月見は皆で騒ぎながらするものだろ、だからお前らを呼びに来た」

原田はまるで何も気づかない素振りで明るく声をかけてきた。名前がほの赤く染まった頬を隠すように顔を少し背ける。

「名前はすぐいなくなっちまうし、まだ千鶴もいるんだぜ。斎藤も向こうで呑みなおさねえか?」

斎藤は憮然とした顔で答えた。

「名前はもう休むところだ」
「ならお前だけでも行こうぜ。最近のお前、以前にも増して付き合いが悪いぜ?」
「…………」
「斎藤さん、行ってください。私は戻って休みます」
「斎藤」
「わかった」

名前に切なげな瞳を一度向け、斎藤は原田に向き直る。笑っていない原田の目が有無を言わせぬ鋭さで斎藤を見ていた。


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MATERIAL: 精神庭園 / piano piano / web*citron

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