青よりも深く碧く | ナノ
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -


17 ほどける糸  


また白い光景だ。
徐々に覚醒を始める脳裏にはっきりとその白色が浮かび上がる。

慶応二年の朝が間もなく明ける。
斎藤は浅い眠りから意識を取り戻しかけながら、またあの声を聞く。

――はじめさん。

俺を呼ぶ声はこの夢と何か関係があるのだろうか。

未明。今朝は名前もゆっくり休むだろうとの予想に反した慎ましやかな衣擦れが聞こえてくる。
斎藤は少し躊躇ってから自分も床を出た。彼はまだ何一つ諦めきれていない己を知った。昨夜。
どうしても聞きたいことがある。そして話したいことがある。だが何から伝えていいのか。境内のいつもの稽古場所、逡巡しながら待つ彼の前に名前は現れなかった。
朝の膳は正月らしく黒豆、田作り、昆布巻きといった品に温かい出汁の雑煮が並んでいた。
かいがいしく動き回る千鶴が広間に入った斎藤に逸早く気づく。

「斎藤さん、こちらにどうぞ!」
「ああ、」

皆が食事を始めると斎藤の近くに座り世話を焼こうとする。

「斎藤さん、お雑煮のお餅、もう一つ召し上がりませんか?」
「……ああ」
「お椀をこちらにください」
「なあ千鶴、なんか今日一君にばっか親切にしてねえ?」
「そ、そんな事ないですよ」
「そうだぜ、千鶴ちゃん。贔屓はいけねえな……って事で俺にも三個お代わりな」
「はい、皆さんもお椀を出してください。あ、苗字さんも……」
「私はもう十分です」
「苗字さんはあまり召し上がらないんですね」

世は政情不安であり親幕派にとって新年を寿ぐような状況でもなかった。幕政の改革はままならず弱体化が急速に進んでいた。
それでも新選組の誠の志は揺るぐことがない。
局長による新年の祝賀を粛然と拝聴した後は、いつものように和気藹々と膳につく。
この正月の二十一日、薩摩藩と長州藩の政治的軍事的同盟が締結された。また時代は大きく動こうとしていた。



千鶴は斎藤への思慕が届かぬものであるということに薄々気がついてはいた。原田のお陰で伝わってしまったが、気持ちがすっきりしたのでそれでよかったと思っている。

「さ、斎藤さんの事を好きです……」

斎藤は少し驚いた顔をしたがすぐに優しい笑みを向けてくれた。

「ありがとう。俺もお前を大事に思う」
「え?」
「大事な妹のようだと」

うまくはぐらかされてしまったみたいだけど。

でも今はそれで充分だと思った。少し心が痛むけれど自分がもっと大人になったら、その時はもしかしたら……。
飽くまでも前向きな千鶴であった。一度口に出してしまったのだからこれからは遠慮なく斎藤への好意を表す事が出来る。千鶴は無邪気に斎藤に近づいていったが、彼は特に避けたりもしなかった。



斎藤の方は名前の事がいつまでも気にかかり頭から離れない。あの大晦日の夜、咄嗟に後を追おうとした自分を止めた左之。あの後どうしたのか。二人の間に何かあったのだろうか。だがそのような事を左之に問い糾すなどとても出来なかった。
左之が彼女を女として見ている事は明らかだ。それが澱となり心を重くする。
それでも。もしも名前が左之を愛し彼女がそれで幸せになるのならば……。それを目の当たりにする事に耐えられるだろうかと考えれば、答えは否でしかない。
斎藤のこれまでの人生はあるがままを受け入れる事、それだけだった。名前への気持ちを自覚してから己の中にも抑制出来ない感情があると初めて知った。
名前と左之に表向き特別変わった様子は見られなかったが、彼女が朝の稽古に来なくなった。決まった時間に起き出す気配はしていたが井戸端でどれほど待ってみても姿を見せることがない。
昼に幹部が隊士を集めて行う柔術や撃剣指南以外の稽古は基本自主的に行われ、目に余るほど怠るようでなければ殊更やり方に口出しをしないのが暗黙の了解だ。
名前は身体を清めてから朝餉の席についているようだ。別の場所で稽古をしているのだろう。だが何所で? 何故に?

俺と顔を会わせる事すら厭わしいのか。

それとも誰かと。左之と?
それ以上を考えたくはなかった。確かめる事もしたくない。風呂の一件で自ら距離を置くようにした。その事が己を苦しめる。

俺は名前の事となると何故これほど余裕がなくなるのか。

彼女をむさ苦しい男達の中に加える事に抵抗があったが、朝に会えないのでは致し方ない。まだ名前に教えたい事を教え尽くしていない。そう己に言い訳をした斎藤は巳の刻に道場に入るよう言い渡す。だがやはり彼女は現れなかった。隊士達に解散を告げ斎藤が井戸に向かうと、直ぐ近くの物干場から千鶴が顔を出した。

「斎藤さん。お疲れ様です」
「雪村か、苗字を見なかったか」
「苗字さんなら、門から出て行かれましたよ」
「何、いつだ?」

思わず千鶴の肩を両手で掴み揺さぶる。

「い、一刻くらい前でしょうか……あ、あの、」
「何処へ行った?」
「さあ……稽古着姿でしたから多分どこかで鍛練をなさってるんじゃ……あの、斎藤さん、肩が」

雪村の怯えた目で我に返り手を離す。

「ああ、すまない……、そうか、」
「……苗字さんがどうかしたんですか」
「いや、道場に来ない故、」

一瞬此所を出て行ったのかと疑った。千鶴の方はこれほど動揺を見せる斎藤を初めて目にし、心底驚いていた。だが、すぐにいつもの斎藤に戻りほっとする。

「ではもし会ったら俺のところに来るよう、雪村からも伝えてくれるか」
「はい。わかりました。……あ、」

斎藤の白い襟巻きの一ヶ所が煤けているのに気づいた。

「斎藤さん、襟巻きに少し汚れが、」
「……?」
「待ってください。そこに洗って乾いたのがありますから。それお洗濯しますね」

汚れた襟巻きを外すと、千鶴が干し台から綺麗に洗い干し上がったものを素早く取って来る。背伸びをして斎藤の首にふわりと掛け、長い端を両手で肩の後ろに流したところで手を止めた。

「斎藤さん、お日様の匂いがしますね」
「ゆ、雪村……」

思いもかけない千鶴の行動に息を飲み、抱きつかれた格好になった身体がつい固まる。
次の瞬間小さい千鶴の頭越しに斎藤の目が捕らえたのは、少し離れた所に立ち止まった名前の姿だった。刹那視線が絡む。探し求めていた人はすぐに踵を返した。

「雪村、すまん、離してくれ」
「斎藤さん?」

首に回された腕をもどかしく振りほどき、斎藤は振り向きもせず名前の後を追う。千鶴は状況が読めずに呆然とする。それをたまたま通りかかった平助が見ていた。

「千鶴、何やってんだよ? 一君、何を慌ててるんだ?」
「あ、平助君……斎藤さん、どうしたのかな。苗字さんを探していたみたいだけど……」
「ああ、名前が一君の稽古に出ないからだろ?」
「あんな斎藤さんて見たことない。まさか、衆道ってこと、ないよね……」
「そそ、そんな事、あるわけねえだろ!」

平助は大きな目を開けて、思わず口を押さえた。

一君、すげえ事思われてんな……。

しゅんとする千鶴に平助が縁から降りて殊更元気な声をかけた。

「そんな事よりさ団子買ってきたんだ。お前も食うだろ?」
「え、お団子?」

ぱっと顔を綻ばせた千鶴に「なんか、現金なやつ」と笑いながら平助は何となくほっとした。斎藤の名前への感情は平助にさえも薄々伝わっていて、以前から千鶴を気にかけていたのだ。



斎藤が門を走り出た時名前は堀川通りを渡り切ったところだった。続いて斎藤も通りを横断する。何も考えずただ彼女を捕まえる為だけに走る。彼女が小走りに入って行ったのは少し先の小さな寺だった。

「待て、名前!」

振り向いた名前が息を切らした斎藤を見、じりじりと後ずさる。背後の高い塀に背が当たる。

「来ないでください……」

四方を塀で囲まれた境内の奥で一間程の距離を残して名前を追い詰めた。斎藤が荒い呼吸の下から声を絞り出す。
感情を殺した名前の瞳が斎藤を見ていた。

「待ってくれ」
「……来ないで」
「誤解をするな」
「……………」
「聞いてくれ、俺は、今でも」

一度は封じ込めた想いが止めようもなく溢れてくる。
斎藤はもう一歩近づいた。

「お前を好いている」

背を向けて塀沿いに逃れようとする彼女の手首を捕らえた。強く引き寄せれば抗う名前を、逃すまいと強く抱き締める。
抱きすくめられ身を捩るが斎藤の力には敵わない。

「離して、ください……」
「何故逃げる? 名前、それ程に俺が疎ましいか」
「……雪村さんを、彼女のことを」

斎藤の苦しげな声に心が折れそうになりながら弱々しく呟けば、斎藤は名前の肩を掴んで身体を少し離し至近距離で見つめた。
真摯な深碧の瞳に射すくめられ身動きが取れない。

「言っただろう? 愛しいのはお前だと。お前の真実の気持ちを教えて欲しい」

はっきりとした意思と誠意を込めた言葉に、応えることが出来るのならばどんなによかっただろうか。だが、どうしても出来ないのだ。

「幸せになって欲しい……です。雪村さんと、」

斎藤の顔が苦痛に歪んだ。肩を掴む手に乱暴な力がこもり、押し殺した声には抑え切れない苛立ちが混じる。

「雪村の所へ行けと言うのか」
「…………」
「それがお前の望みか」

ふいに激情に駆られ引き寄せた身体を締め付けるように抱き絞める。もどかしさと焦れったさと、言葉にできない感情が渦巻いた。
何故伝わらぬのだ。
片手を名前の後頭部に当てて唇に触れようとした刹那、それは掠めただけで逃れていった。顔を背けた名前の悲しげな横顔に、瞳から溢れる透明な雫がいくつも伝う。

「どうか、私の事はもう……」
「納得出来ぬ」
「…………っ」

斎藤の最後の理性が決壊した。凶暴な衝動が突き上げた。再び顔を寄せ強引に奪う。求める気持ちのまま噛み付くように唇を捕らえた。
斎藤の口づけは激しく、苦しく、切なかった。

どうしたらいいのだろう。

名前はもはや抗う事もできずに涙を流しながら、斎藤の為すがまま受け入れるしかなかった。


prev 18 | 61 next
表紙 目次



MATERIAL: 精神庭園 / piano piano / web*citron

AZURE