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10 青いギヤマン  


はじめさん……。

誰だ……何故、俺の名を。

はじめさん……。

自分を呼ぶ声で目が覚めたのだと思った。
初夏の日の出は早い。

……寅の刻か。

床に身を起こしそれが夢だったのだと気づく。少し前にもこのような夢を見た気がする。生家を離れて以来斎藤を『はじめ』と呼び掛ける女性は一人もない。
そのような呼び方をするのは家族か恋仲くらいのものであろう。そこまで考え壁を隔てた向こう側に意識が向く。

「名前……」

初めてその名を小さく口に出してみるなり、思わず顔に熱が集まるのを感じた。
文机の上に包みが載せてある。近づいて手に取り開けてみる。口元が僅かに緩む。このような物を求めたのは初めてだ。
包まれているのはギヤマン製の平打簪だった。
巡察の帰途。雪村が小間物屋を覗くのに付き添う事になった斎藤は、そこでこの青い簪と出会った。
名前の進言に従った訳ではないが、新選組預かりである雪村の身柄を無責任に他隊士に任せるわけにもいかなかった。しかし背を向け離れて行った名前の姿にやりきれぬ思いを味わう。
出来ることならば引き留めたかったのだ。だが実際にそれを出来る筈もなく何も言えぬまま見送った。
苦い思いを噛み締めつつ、眺めるともなく眺める品々の中で目に止まったのがこのギヤマンで、美しい透明感に魅かれた。青色の簪を見つめていると、愛らしい玉簪を手に取っていた雪村が少し意外そうに尋ねてきた。

「斎藤さん、それ、お求めになるんですか?」
「……いや」
「お武家様。ご覧になっているそれはギヤマン(硝子)と申しましてね……、」

そこへ女将が近寄ってきて説明を始める。

「……ただ、見ていただけだ」

斎藤には女子の装身具のことなど全く解らない。以前に新八が花街の女が髪に挿すような簪を知らずに武家の娘に贈り、袖にされたと聞いたような気がするがそれと大して変わらない。
だがこの平打簪は本当に美しく目が離せなくなった。透き通った青色のそれは臈長けた名前にきっとよく似合うだろう。今は男装に身を窶しているがいつか。いつか、女の形をした名前の髪がこの透明な青い簪で飾られたらどれほどに……とその姿を暫し夢想する。
雪村は一通り見てまわり満足したのか、帰りを促すと素直に従った。屯所に戻ったのは夕餉までにまだ随分間のある時分である。
玄関まで送り届けた雪村に所用を告げ、副長への報告は後程伺うと伝言を頼んだ上で斎藤は再び往来に出る。例の店に戻れば女将が満面の笑みで斎藤を迎え入れた。

「あらまあ、先程のお武家様」
「先刻の……あれを」

彼の目線の先を見ると女将は心得たような笑顔で大きく頷いた。

「奥方様へ贈り物ですか」
「いや、妻はおらぬ」
「では恋仲の方に?」
「ああ……いや、そういうわけでは……」

いつになく狼狽えて赤面すれば女将は柔和な笑顔を見せ、丁寧に包んだ簪が斎藤の手に渡された。

「お綺麗な方なのでしょうねえ」
「ああ、とても、」
「貴方様も素敵な殿方ですよ。お気持ちきっと伝わります」

目の裏に名前の姿が鮮やかに浮かぶ。女将の世辞にまだ顔を熱くしたまま、包みを大切に懐に仕舞うと彼は屯所への道を急ぎ戻った。斎藤は自分でも誤魔化しようもない名前への想いをこの時初めて強く自覚した。
その日の夕餉の席に名前は姿を見せなかったが、どのような顔で彼女を見ればいいのかと逡巡した彼は気が抜けると同程度の落胆を覚える、そんな綯い交ぜな心地でいた。
早く手渡したいと亥の刻過ぎまで悶々と迷い、しかしこのような刻限に女子の部屋をたずねるなど不躾に過ぎる、やはり明日がよいであろうと思い直し文机の上にそっと置く。
今となってはたった壁一枚向こうが、斎藤にとっては果てしなく遠いのだ。
想う人が打ちひしがれているなどその時の彼には思いもよらない事だった。



ギヤマンの簪を見つめながら昨日のことを思い巡らすうちに半時も経っていた。隣室からいつものように名前が起き出す密やかな音が聞こえてくる。
朝の稽古でこのような物を渡すのは不謹慎でもあり、何より無粋だ。もう少し落ち着いた時と場を選ばねば。懐に入れかけた簪を文机の上に戻し、少し考えて大切に引き出しに仕舞った。
井戸端で暫し待てばすぐに控えめな足音が耳に届く。
少し離れた位置で名前の足音がぴたりと止まった。

「……おはようございます」
「おはよう。いつも早いな」

場所を空ける為に脇へよけながら見つめた名前の顔は、血の気がなく目が充血していた。

「どうした。具合が悪いのか」
「いいえ」

気にかけた斎藤に短い一言を返したのみで彼女が口を閉ざす。口調はひどくよそよそしい。
熱でもあるのかと無意識に伸ばした手が届く前に、名前はすっと身を引いた。宙に浮いた手は行き場を失う。空しく下ろした手をぎゅっと握りしめる。

「すみません、やはり体調が優れないので朝稽古は……」
「そうか……わかった。今日は一日休むといい」
「申し訳ありません。巳の刻には戻りますので」
「苗字……、」

呼びかけに応えないまま名前は踵を返した。立ち去るその姿からはやはり拒絶しか感じられない。近づくどころか彼女は遠ざかるばかりに見えた。
しかしこの時も何も言えぬまま、やはり背を見つめるしか出来ない己の歯痒さに斎藤の相貌が歪む。
一方で視線が注がれている事に気づかない名前は、ふらつく足取りで自室に戻ると力なく座り込んだ。

どうしてだろう。組長の顔を見られない。

朝までに気持ちを持ち直したつもりでいた。
私情を挟んでは隊務に邁進などできない。こんなことを考えている場合じゃないのだ。私は大丈夫なのだ。そう言い聞かせていたのに、斎藤の姿が目に入った途端昨日と同じ痛みが胸に走った。

斎藤の心を知らぬまま、名前もまた自分の中に芽生えた感情に苦悩する。それは二人共が初めて抱いた想いであり、自分でも扱いかねて途方に暮れていたのだった。


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