斎藤先輩とわたし | ナノ
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act:06 手負いの獣


昼食を終え、午後の入稿戦争に向けて嵐の前の静けさを味わっていたところに、そのメールは届いた。

『体調不良の為早退した。斎藤』

一行メール。潔いほどに簡潔なその文字列。
しかし普段の斎藤さんなら、わざわざそんなメールを送ってきたりはしない。
どうしたんだろう。
斎藤さんは日頃から体調管理には気を使っているし、基本的に誰よりも几帳面できっちりしていて、体調を崩すことはとても稀な事ではないか。
風邪くらいで彼が仕事を切り上げる事はないように思えるし。
まさか何か重大な病気が見つかった、とか。それとも怪我をした?
今日は金曜日。
取り敢えず今夜のデート(と称した居酒屋にての二人の酒盛り)は中止ということになる。
スマフォの画面を見ながら考え込む私は、背後から土方部長が覗きこんでいる事に気づかなかった。

「こりゃ、鬼の霍乱ってぇやつか」
「ぎゃっ!」
「ぎゃっ! ってなんだよ」
「もう、急に後ろから話しかけないでください! それに勝手に覗かないでくださいよっ」

耳元で聞こえた声に仰け反って思わずスマフォを手から落としてしまい「ああ、壊れる」と慌てて拾い上げる。
しかもよりによって斎藤さんからのメールを覗くなんて、土方部長はなんてデリカシーのない人なんだろう。
“愛してる、なまえ”とか書いてあったりしたらどうするつもりなの?
まあ、その心配はほぼないのだけれど。

「この俺がわざわざ前に回って、ご挨拶してから話し掛けろってか?」
「そんなことは全く言ってませんっ! 何の用ですかっ」
「……最近のお前、何だか怖えな、」
「むっ!」
「別に、用ってわけじゃねえよ。ちらっと見えちまっただけだ」

斎藤さんからのメールを開く時、私がニヤニヤしてしまっていたせいだろうか。
いかんいかん。きっとそうだ。
でもちらっと見えたなんて嘘だ。土方部長は絶対わざと覗いたに違いない。
私は横目で部長を睨みつける。
部長に限らずこの会社の人たちは、どうも斎藤さんと私の交際について興味を持ち過ぎるきらいがあってとても困る。

「……にしても斎藤が体調不良たぁ珍しいな。俺の知る限り初めてだ」
「え、そうなんですか?」

土方部長と斎藤さんとの付き合いは、彼の高校時代からずっと続いていると聞いている。
その部長が初めてというのだから、これはやはり只事ではないのかも。
俄かにそわそわしだした私を慮ってくれたのか、部長は少し申し訳なさそうに言った。

「すぐに行ってやれ、と言いたいところだがな、」
「いえいいんです、解ってます。今日はなんてったって金曜日ですからね」
「わりいな」

土方部長にもいいところあるんだななんて、ついさっきムッとした事も忘れて少し頬を緩め、またスマフォに向かい合う。

『大丈夫ですか。熱は計りましたか? 病院には行きましたか? 仕事が終わったら家に行きますから待っていてくださいね』
『大事ない。斎藤』

…………。
予測はついていた。
返信はさっきよりも更に簡潔な6文字(うち2文字は署名)に句点が一つだけ。
全角7マスだけで構成された彼からのそれはますます要領を得ない。
具合が悪いせいでこれしか打てないのかな。
僅かに焦る気持ちを抑え、とにかく入稿を早く終わらせようと頭を切り替えてすぐに原稿に取り掛かった。
6時10分前。
全ての入稿処理を終了した。これを奇跡と言わず何を奇跡と言うのだろう。間違いない、これは愛の力。
私は急いで帰り支度をした。
斎藤さんの自宅の最寄り駅を降りスーパーに寄って、何か要る物があるだろうかと考える。
彼は本来用意周到で完璧な人だ。
付き合い始めてから様々な意味で、彼に不備というものを発見した事がないのだ。

「体温計は絶対あるよね? アイスノン枕は……風邪引いた事がないのなら持ってないかも、買っとこう。あとは薬に、食べ物はヨーグルトとかかな」

あ、そう言えば彼は豆腐が好きだ。
豆腐ならもし喉が痛くても食べ易いし、うん、豆腐、豆腐。
私はポンと手を打ちいそいそと豆腐売り場に向かい、カゴにイケメンズ豆腐店の波乗りポールを入れると、少し考えてポールよりも少し柔らかい“やさしくとろけるゲンちゃん”も入れた。
その他にもイオン飲料だとか果物だとかパックになったお粥など(斎藤さんは嫌がるかもしれないけど)大量に買い込み、スーパーの袋は二つ分にもなってしまった。
うんしょうんしょと両手に袋を提げて、斎藤さんの自宅マンションのエントランスドアの前で部屋番号を押す。

「はい」
「あ、私です」
「ああ、」

感情の薄い、そしてまたしても簡潔すぎる返答を受けて、私は彼の部屋へと急いだ。





来るだろうとは思っていたが、やはりなまえはやって来た。
インターフォンごしに息を上げた彼女はきっと薬やら食品やらを大量に買い込んで来てくれたのだろう。ガサガサと音を立てていたのは恐らくスーパーの袋と思われる。
あまり来て欲しくはなかったが、来るなとも言えなかった。なまえに会いたくないわけではないがしかし今は状況が悪過ぎる。
いつになく冷静を欠いた俺は覚束ない足取りで、取り敢えず解錠をしてリビングに戻った。
俺は先程から左頬に手を当ててソファに座っている。
眠ってしまった方が楽だろうとは思うがどうせ眠れはしないし、ベッドに入っても落ち着かない。
インターフォンが鳴りそのままじっとしていると、遠慮がちに玄関ドアの開閉音が聞こえた。
程なくカチャリとドアを開けて顔を覗かせたなまえは、俺を見るなりその眼を丸くする。
上着とネクタイは取ったが、ワイシャツにスーツのズボン姿のままでいたからだろう。

「何してるんですか? 寝てなきゃダメじゃないですか」
「いや……、」
「熱は? 喉や頭痛とかは、」

ダイニングテーブルに買って来たものをガサリと置きながらそいう言うと、すぐさまなまえが俺に傍寄る。
身体に触れられるのは何も初めてというわけではないが、うろたえた俺は左の頬を抑えたまま身体を引いて目を逸らした。
しかし彼女は動じず強引に俺の額に手のひらを当て、怪訝そうな顔になる。

「……ん? 顔は赤いけど、熱はないですね?」
「大事ないと送っただろう。熱などない」
「で、でもともかく体温計で、ちゃんと、」
「だから大事ないと言っている! 風邪ではない!」

つい大声を出してしまい彼女がビクリと固まった。
申し訳ないとは思うがやはり独りになりたい。彼女を押し退けるようにソファから立ち上がると、左手は頬から離さずに寝室へ続くドアに手を掛けた。

「……わざわざ来てもらってすまんが、心配には及ばん。少し独りに……、」
「斎藤さんっ!」

きまりが悪過ぎて、流石に彼女の顔を見る事が出来ぬ。





あれから30分。
今私の隣に座っている斎藤さんは、これ以上ない程に青ざめて目を伏せている。
話しかけてもその唇は固く閉じられ、一切の返答を拒否して強張っている。
そして彼の左手はずっと頬を押さえたまま。

「斎藤さん、大丈夫ですよ」
「…………、」
「そんなに不安がらなくても。子供じゃないんだから」
「…………(怒)」

ドキッ。
今の一言、やばかったかも。
彼は相変わらず口を噤んだままなのに、その分物凄い不機嫌オーラを放って来た。
これはもはや殺気に近い。
野生の猛獣は重傷を負うとこうなると聞いた事があるけれど……って駄目駄目、こんなこと絶対に言えない。
自分の身の安全の為にも口を慎め、私。
ただでさえ斎藤さんは機嫌が悪いのだから。
今から30分前。
体調が悪いと言う彼の部屋を訪れた私を頑なに避け、寝室に籠ろうとした態度に最初は少し怯んだ。
しかし挙動不審の中の一つの仕種にピンときた私は、勇気を奮って彼の寝室に踏み込んだのだ。
確信を持つに至った理由は彼の左手だ。
言い渋る彼に口を割らせれば、果たしてビンゴ。
そこからは彼の抵抗を無視し、直ちにあるところへ電話を掛けて予約を取る。時間ギリギリだったが、急患ということで受け付けてもらう。
そして彼の車の助手席に嫌がる彼を詰め込み、私が運転してここへやって来た。
斎藤さんの車はVOLVOの左ハンドルでかなりビビったけれど、一刻を争う非常時である。やってみれば何とかなるものだ。
途中でタクシーにするべきだったかとチラリと思ったがもう遅かった。
それにしても20時まで受け付けてくれるところがあって本当によかった。
回想していればのんびりと優しい歯科助手さんの声が聞こえて来る。

「斎藤一さ〜ん、こちらへどうぞ〜」

その瞬間彼の肩がビクリと大きく跳ねた。
立ち上がる事を躊躇して俯いたままの肩に手を掛けて、極力彼を刺激しない様に優しく促した。(つもりだった)

「斎藤さん、お待たせしちゃ悪いし、行きましょう?」
「…………、」
「怖いなら私も一緒に診察室について……、」
「黙れ」

ギクッ。
前髪の隙間から一瞬私を見上げた斎藤さんは、追いつめられて必死の反撃に出る獣のような眼。
発せられた一言は地を這うように低かった。
手負いの獣は非常にデリケートで危険なのに、ああ、またやってしまった、私。
取り敢えず重い足取りで診療室の扉の向こうへ消えた斎藤さん。
いつだって私よりも高い所にいて、何もかもが私よりも優れていて、決して弱みを見せない斎藤さんのウィークポイントを初めて見つけて、少しだけ(あくまでもほんの少しだけど!)優位に立てた気がした事は否めない。
それは認める。
けれど手負いの獣を刺激してしまったのはまずかった。
私はトホホと肩を落とした。
更に30分後。
ぐったりとした彼を再び助手席に乗せて彼のマンションに戻る。
何かあったら連絡しろよ、と土方部長が心配していた事を思い出し、電話をかけた。

『なんだよ、虫歯だったのか?』
「ええ、そうなんです。もう大丈夫です」
『あいつ、ビビッてなかったか? 歯医者は苦手だと聞いた事があったが』
「それはもう大変でしたよ。嫌がるのを無理矢……え……ちょ、ちょっ……とっ!」
『みょうじ? おい、どうした』
「さっ……さいっ……! ちょ……っ!」
『どうした? おい、みょうじ!』

ブツッ。

「斎藤さん、ではない。いろいろと覚悟は出来ているのだろうな、なまえ」
「は、はじ……っ、」


虫歯はほんの初期段階だったようでこれから治療に通う事にはなったものの、この日はロキソニンを処方されただけで終わった。
診療室で薬を服用した斎藤さんは帰宅する頃にはすっかり痛みが引いていたようで。
立ち直った彼の報復は朝まで続いた。


2013.08.22



act:06 手負いの獣

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