斎藤先輩とわたし | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -



act:17 原始的に帰属する 前編


「……ごめんなさい」
「なまえのせいではない」
「でも……」
「…………」
「…………」

土曜。いつになく口数の少ない私といつものように口数の少ないはじめさん。
そしてはじめさんのこの部屋では珍しいつけっぱなしのテレビ。低くニュース番組が流れている。
内容は全く耳に入ってこないけど、なにか音でも流れていてくれないといたたまれない気持ちになる。はじめさんが消さないのをいいことに時たま意味もなく目を向けるテレビは小一時間ほどついたままだった。
週末だというのにテーブルに置かれているのはアルコールじゃなく紅茶の入った二つのマグカップ。二人とも素面である。なぜ酒好きの私達が飲んでいないのかと言えば。
ソファーの左に座るはじめさんをおずおずと見やる。彼は非常に痛々しい姿である。

「あの、痛みますか?」
「いや」

はじめさんは特に顔色を変えず涼しい表情で、紅茶を手に取ろうと右手を出す。対して「私が取ります!」とそれを制し自分の手を伸ばした私は多分必死の形相だ。
はじめさんの上げかけた右手にカップの持ち手をそっと近づけると、ほんの少しだけ表情をゆるめて見せて「そんな顔をするな」と彼は言う。

「そんな顔……」
「蛇に睨まれた蛙のような」
「え、かえる……」
「物の例えだ。蛙で不満ならば借りてきた猫か」
「……蛙でいいです。充分です。あの……何かして欲しいことありませんか?」
「そうだな」

カップをテーブルに戻したはじめさんは、振り向きざまに右手でぐいと私を引き寄せた。すぐさま眼前に迫る美形の薄く開いた唇が間髪入れず私のそれに密着する。片腕しか使えなくても相変わらず敏捷な彼だ。

「……ん? んっ! ちょ、そういうことじゃなくて」
「したいことはあるがして欲しいことなどない。あんたはいつも通りにしていろ。冷蔵庫にビールがあるぞ」
「…………ビールはやめておきます」

はじめさんが当分お酒禁止なのに私だけが飲むなんてあり得ない。
現在彼の左腕はガッチリとギプスで固められ心臓の高さに固定されている。よりによって利き手の方だ。
身につけているのは普段の彼なら絶対に着ないような白いタンクトップで、それは脱ぎ着をするのになるべく腕に負担のないものをと考えついさっき私が買ってきたものだ。風間社長のショップ店員の不知火さんが着ているようなやつと言えばいいだろうか。
仕事の時のスーツでもさりげない私服でもいつも洗練されたはじめさんの、それは未だかつて見たことのないワイルドなスタイルである。
滅多に見せない首から鎖骨、胸筋のあたりまであらわなその胸元は普通の時だったならドキドキしてしまいそうだけど、左腕にはギプス。とてもドキドキどころではない。
ギプスの上から一応大きめサイズのシャツを羽織っている彼は、タンクトップを見ても別段文句を言わずに着てくれた。でも内心では不本意なんじゃないかな。
「気にするな」とはじめさんは何度も繰り返したけれど、彼が今こうなっている原因を作ったのは私なのである。気にしないでいられるわけがない。私は泣きたくなってくる。




そもそものことの起こりは今を遡ること5日前の月曜日だった。
土方部長から新規クライアントであるG製薬の担当を割り当てられた私は原稿の草案を持ってご挨拶も兼ね先方へと出向いた。
会議室で待っていると程なくしずしずと現れたのはG製薬首都圏ヘルスケア事業部の伊東部長。

「新選エージェンシーのみょうじなまえです。どうぞよろしくお願いします」
「よろしく。早速拝見させていただくわ」
「はい。こちらが草稿となります」

G製薬といえばKikonクラスの大企業である。ひどく緊張して訪問した私だったけれど、現れた伊東部長(男性)の女性的な物腰と穏やかな声の調子にホッと小さく息をついた。
しかしその穏やかさはつかの間だった。
名刺交換もそこそこに会議用の机の角を挟んで腰を掛けた伊東部長は、私が恭しく差し出したそれにほんの僅か目を走らせただけでキッと顔を上げた。

「お伺いしますけど」
「はい」
「これを作るのにどの程度時間をかけたの」
「はい?」
「字が違ってます」

伊東部長が指差したテキスト部分には『防己黄耆湯』とタイプされている。それを書いたのは私だ。「正しくはこう」と言いながら部長は、スーツのポケットから取り出したペンで『防已黄耆湯』とすらすら書いてみせた。
この原稿は求人広告でありながら企業広告も兼ねた雑誌媒体の見開き2ページだ。向こう一年間の契約をいただくことが事前に口約束されていて、その広告料金は高額である。
私が若輩であるとは言えそしてこれが草稿とは言え、初めてのコンタクトで誤字をしでかすなんて大変に失礼に当たる。今日にも受注票にサインをいただく心づもりでいた私は青ざめた。

「もっ、申し訳ありません!」
「みょうじ君は漢方の知識がおあり?」
「いえ、あまり……すみません……」
「防已黄耆湯は主力商品の主成分ですよ」
「はい、それは……」
「医療用漢方薬メーカーの代表とも言うべき我が事業部がどんな商品達を取り扱ってるのか、そのためにどういう人材を必要としてるのか、いい加減な認識しかお持ちじゃないみょうじ君の仕事は我々がお支払いする金額に見合うのかしら」
「…………」

ぐうの音も出ない私は伊東部長の毒舌を二時間ほど黙って聞いた。そして漢方についてのレクチャーを受けるため、その週いっぱい仕事上がりに伊東部長の元に通うことがその場で決まった。
「間に合わせ仕事にびた一文出す気はなくてよ」と言われては断ることなんて出来るはずがない。元よりベンダー企業にクライアントの申し出を断る権利なんてない。
誤字もさることながら不勉強具合を鋭く指摘されて完膚なきまでに打ちのめされ、項垂れて帰社した私を出迎えてくれたのは山南専務だった。
いきさつを話せば専務はほんわりと笑った。とても珍しいことだけど、その日の笑顔はそんなに黒くなかった。

「毎日通うように、と言われました」
「そうですか。毎日は大変ですが頑張ってみる価値はあるでしょう。あちらの商品を知るだけでなく、伊東さんの話はみょうじ君にとって勉強になると思いますよ」
「専務は伊東部長をご存知なんですか」
「ええ、よく知ってます。彼とは同じ薬学部の出身ですから」
「え、」

山南専務の人脈って一体どうなってるの……と思ってるところへ出先から土方部長が戻ってきた。
その件を詳しく報告すれば、部長は部長でいつもと違った厳しい顔で話を聞き終えると「揉まれてこい」とだけ言った。もはや私は力なく「ハイ」と答えるしかなかった。
通常の仕事を終えてから毎日伊東部長を訪ね、漢方についての講義を聞きストックされた商品を見て商品名を覚え、時には小売店のドラッグストアに連れて行かれ、理解具合を確かめる宿題を出されて自宅に直帰。それは新選エージェンシーに入社して以来、初めての試練と言っても過言ではない5日間だった。
そんなこんなで金曜朝、つまり昨日の朝のことだけれど、いっぱいいっぱいになっていた私は「この週末は会えません」とはじめさんに電話をして伝えたのだ。

『何故』
「仕事です」
『休日出勤か』
「いえ、ちょっと一人でやらなきゃいけないことがあるんです」
『家にいるのならば俺がそちらに、』
「とにかく駄目なんです」

伊東部長の講義を受けてのレポートのまとめと改めて書き直す草稿とを来週月曜には提出する約束になっている。
はじめさんに対して充分な説明もなしに切り口上になったのは、クライアントにダメ出しをされ落ち込んだこの5日間で私が自己嫌悪の極みに陥っていたせいだと思う。時間的拘束による体力消耗よりも私の頭と精神の状態がリミット寸前だったのだ。
そうして半徹夜をした今朝、事件は起こった。
この一週間を彷彿とさせる散らかった部屋で、書類やら書籍やらの山になったテーブルに顔を埋めて眠っていた私は、昇りかけた陽の光に目を開けた。
頭が目覚めてくるにつれ空腹の虫も目覚めたのかお腹がきゅると鳴く。そういえば晩ごはんを端折っていた。昨夜はお風呂にも入っていない。
着ているジャージは伸びきっていたし、昨夜から何度もガシガシとかき混ぜた髪がどんなだったかなんて考えたくもない。そんなことに構う余裕なんてその時の私にはまるでなくて、とりあえずコンビニに何か食べ物を買いに出ようと思い、捨てるつもりで端に寄せてあるくたびれたスニーカーに足を突っ込み玄関を出た。ふらふらと歩いて階段手前あたりに来たその時、上ってくる人の足音が聞こえた。
こんなだらしない格好でアパートの人に会うのは嫌だなんて思って引き返そうかと考えるそばから、見下ろした階段の中ほどにはじめさんの姿を見つけた私はとても驚いてしまった。
そうして咄嗟に私の口から出たのは自分でも思いがけない尖った声だった。

「どうして、来たの」

はじめさんが見上げる目をわずかに瞠る。
私を見つめる瞳は綺麗に澄んだブルー。柔らかそうな紫紺の髪がかすかな風に揺れる。清潔感のある白いシャツにスリムなパンツ姿で、いつものように端整な全く隙のない完全無欠のはじめさん。
彼の手には食品の入ってるらしいスーパーの袋があった。いつもと様子の違った私を心配して来てくれたんだろうということはすぐに想像がついた。それなのに。
これまで自分でも知らなかった感情が溢れてきた。棘のある言葉は一つ吐くと止まらなくなる。
だってはじめさんはいつだって完璧なのだ。能力があるゆえの彼の普段の仕事ぶりも非の打ち所のないイケメンぶりも、そういったすべてに裏打ちされた彼の自信に満ちた姿も、控えめに見え隠れする優しささえもが全部、朝の明るい光の中で私には眩しすぎた。

「あんたの食事を」
「今週は駄目って言ったのに」
「わかっているが、」
「わかってなんかない。完璧な人だからって何でも一人で決めちゃうはじめさんはいつも私の言うことなんか聞いてない」

話を聞かずはじめさんの言葉を遮ったのは私の方だったのに。こんなのはただの八つ当たりとわかっているくせに。
とてつもなく惨めな気持ちになった私は、彼の脇を過ぎって階段を駆け降りようとした。
きちんと足を入れずに引っ掛けていたスニーカーが脱げた。そして段を踏み外しずるりと滑る足。

「あ……っ」
「なまえ!」

その瞬間はじめさんに強くつかまれたのは私の二の腕。
身体中を襲った衝撃のあと、ぎゅっと瞑った目を開けた時は二人もろともに階段の下まで落ちていた。
コンクリート敷きのそこに、左下で倒れたはじめさんの両腕に私は包まれていた。

「……平気か」
「ごめんなさいっ」

彼の身体がクッションとなって私は何ともない。
だけどはじめさんの方は上体を起こしかけて眉を寄せる。

「はじめさん……?」
「……大丈夫だ。なまえはどこか痛めていないか」
「どこも痛くないです。はじめさんは……」

さっきまでのギスギスした気持ちが吹っ飛び俄に我にかえった私は、今度は身の置きどころのない心地になっていた。あんなに嫌な態度をとった私なのに、二人して落ちながら彼は身体を張って守ってくれたのだ。
大丈夫だと言うはじめさんは明らかに表情を歪めていた。乱れ放題の部屋を見られるのが嫌だなんてとても言っていられず、取るものとりあえず彼を伴い部屋に戻る。持ってきてくれた袋の中で卵がぐしゃりと無残に割れていたのが切なかった。
シャツの袖を恐る恐るめくりあげてみれば、しばらく痛みを耐えていたはじめさんだったけれど、私の下敷きになった左の肘はみるみると腫れていく。アイシングしながら尚も大丈夫だと言い張る彼を連れ、駆け込んだ整形外科の診断は骨折。全治一ヶ月。
彼をタクシーで部屋に送り届け、一旦自分のアパートに戻って着替えをし身の回りの荷物をまとめ私は改めてこの部屋にやってきた。そこまでは無我夢中だった。
そして話は冒頭に戻るのだ。
顛末を思い起こせば消えたいほど辛くなる。心ないひどい言葉と態度の挙句、はじめさんに怪我させたのだ。あれが私のせいでないわけがないじゃないか。蛙の顔にもなってしまうというものだ。
とは言えいつまでも落ち込んでばかりいるわけにもいかない。今は泣いてる場合でも消えてる場合でも蛙になっている場合でもない。負傷したはじめさんを前にして私がめそめそしたところで彼には何のメリットもないのだ。
骨折が治るまで、微力ながら彼の左腕の代わりとなり彼のお世話をすることを決意して私はここへ来た。落ち込むのも反省をするのもやることをやってからだと思い直す。
もちろん仕事だってやり遂げてみせる。気持ちを切り替えたら、何故かわからないけれど急に闘志が湧いてきた。

「いつも通りには出来ません。はじめさんは怪我してるんだから、私のこと家政婦と思ってくれていいんです。何でもしますから言ってください」
「……何でも?」
「まずは夕ごはんですね。私の作ったのじゃ嫌かもしれないけど……」
「なまえは仕事があるのではないか」
「仕事は持ってきてます。ちゃんとやります。あとで」
「料理くらい俺は片手でも出来る」
「いくらはじめさんでもそれは無理です。私ほんとに頑張りますから。何が食べたいですか」
「…………」
「ちゃんと食べられるもの作りますから、ね?」
「では、……カレーを」

キャンプの定番メニューみたいな彼のリクエストはとても妥当だった。
カレーなら肉じゃがと工程はそれほど変わらないし私にも余裕で作れる(はずだ)。スプーンを使うからはじめさんも食べやすいし、うん、カレーは名案だ。たくさん作れば明日も食べられるしね。

「じゃ買い物に行ってきますね」
「待て、俺も」
「おうちで安静にしててください。買い物は料理の腕に関係ないですから」
「…………」

はじめさんはここで初めてすこし不満気な顔をした。
彼が食材選びも決して疎かにしない人だということを思い出したが今は非常事態だし、この点だけは我慢して欲しい。
ふ、と小さく息をつき諦めたように本を手にした彼を見て、私はテレビを消して立ち上がった。
そしてからの数時間に渡る奮闘のあと。
ダイニングテーブルで。
私がお皿によそったカレーを右手のスプーンでゆっくりと口に運ぶはじめさんを向かい側から凝視する。

「…………」
「どうですか」

静かに咀嚼する彼から目を離さずに見つめれば、その表情が少し綻んだ。

「美味い」
「ほんとですか! ちょっとお高いルーを使ってみたんです」
「なるほど、道理で」
「え」
「カレーは随分と久し振りだが、なかなか悪くないな」
「好きだからカレーって言ったわけじゃなかったんですね、やっぱり」
「…………」

はじめさんがお世辞のたぐいを言わない人だというのはよく知っている。
少し前に肉じゃがを作りそびれ、はからずも今回初めて彼のための手料理となったカレーだけど、褒められ(た気がして)ちょっとだけ浮かれた。しかしここは謙虚に受け止めておこうとルーのお値段の話をしたらへんに納得されてしまったようだ。
薄々わかってはいたけど、ここに至り料理の腕を全く信用されてなかったことを確信する。
それでもはじめさんはカレーをお代わりまでして食べてくれたのだ。結果として満足してもらえたんだからこれはこれでいいとしよう。
憑き物が落ちたように苛々の消えた私は、一さんに何を言われようとも構わない、暫くは彼の意思や希望を出来るだけ尊重すると決めた。
お皿を片付けながら明るく笑いかける。

「痛み止め、飲んでおきます?」
「いや、まだいい」
「あ、カレーですけど、お鍋にいっぱい作りましたからまだありますよ。明日も食べましょうね」
「…………」
「あれ、嫌ですか?」
「嫌……ではない」

まだお世話生活は始まったばかりだ。おべっかを言わないはじめさんだけど、もしかしたら少しは無理をしてくれてるのかもしれない。だけど愛の力でこの試練を二人で乗り切らねばと私はまた決意を新たにし密かに拳を固めた。


This story is to be continued.
2017.05.24



act:17 原始的に帰属する 前編

prev 24 / 30 next

Loved you all the time